第三十八話 返納
「さて、それじゃ心機一転、やってこうか」
「私が前に出る。ご主人様は後ろ」
ここは迷宮内の、中層である。ベースキャンプでの順番待ちを終え、階段を降りているところだった。気合を入れて進みだしたのも束の間で、エマとエリーゼに両腕を掴まれ、俺はパーティの中ほどまで引きずり戻された。まだ魔物の出没しない安全圏だというのに。
「無理はなさらないでくださいね? もう不死身じゃないんですから」
「わかってるさ。今までは俺にも緩みがあった。もっと引き締めていかないとな」
(――そう、もう不死身じゃないんだよな)
俺は、昨日の夜の会話を思い出していた。
「――すみません、ご主人様。もう一回仰って頂けますか?」
「うん、だから。加護を返してきた」
エミリアが負傷した、翌日の晩。
食卓を囲みつつの俺の宣言に、エマたちは揃って固まった。
「返してきたって、チェルージュさんの加護を、よね?」
「うむ」
絶句するエマたちの前で、俺は力強く頷く。
エミリアが負傷したことで、俺は中一日の休みを取るとエマたちに告げた。
彼女たちが心を落ち着かせる時間を取るべきだと思ったこともあるが、それとは別に個人的な用もあったのである。
夕方までの時間を使って、俺はチェルージュに会ってきた。
「ジルの方から誘ってくるなんて、珍しいね。それも週末でもないのに。前回の埋め合わせ?」
「まあ、そんなようなもんだ」
俺から誘ったところで、金銭的に余裕があるわけでもないので、昼飯は屋台の迷宮焼きである。薄く焼いたパン生地にかじりつき、乳精のかかった豚肉の味を堪能しながら、俺たちはぶらぶらと散歩していた。
本来は丸一日チェルージュに付き合ってから本題を切り出そうと思っていたのだが、自分でも気が付かないうちに上の空であったようで、会話が噛み合わず妙にぎこちない雰囲気になったので、俺は腹をくくり、とっとと本題に入ることにした。場所はいつもの喫茶店である。
「加護を返したいんだ。今の俺に、チェルージュの加護はもういらない」
俺の申し出を受け、しばらく真顔で考え込むチェルージュである。
「とても予想外な申し出で、ちょっと戸惑ってるんだけど。つまり私は、振られたのかな?」
「いや、どうしてそうなる?」
二人して「へ?」といった表情になる俺たちであった。
「私との繋がりを切りたいって意味じゃないの? てっきりそうなのかと思ったんだけど」
「加護を返したいだけで、チェルージュと没交渉になる気はないぞ? 一緒に遊んでて楽しいしな」
「良くわからないな。自分で言うのも何だけど、脆い人間にとっては垂涎の加護だと思うよ? ああ、私生活を覗かれてるのが嫌になったとか?」
「いや、残せるなら別にそっちは残しても構わんぞ? 行き倒れを助けてもらった見返りだしな。俺が嫌なのは、その便利な部分だ。死んでもチェルージュに助けてもらえるっていうその点」
俺の意思を汲み取れないでいるのか、チェルージュは難しい顔で首をかしげた。
手付かずの甘糖珈は、すでに冷めてしまっている。
「理解できないというか、筋が通っていないというか。つまり、私が与えた加護のうち、不死性を保証している部分だけがいらないってこと?」
「そうだな。瞳に溜まったマナを使ってチェルージュが助けてくれるあれだ」
「よくわからない。マナの一割なんて、そんなに気にするほどのデメリットだったかな? 転ばぬ先の杖というか、使う機会が来ないに越したことはないけれど、今のまま生活することに何か問題があるの?」
「ああ。俺の気が緩む」
思いつきで言ったのではない。まる一晩、熟考しての結論である。
今の俺は、いびつなのだ。一人でやっていくなら加護があってもいい。しかし、パーティを組む上に、司令塔は俺なのだ。
「昨日、エミリアが怪我をしたろ? あれだって、考えようによっては俺の責任だ。三人でまとまって行動するように言うとか、俺も付いていくとか。取り返しのつかない事態が起きないように、念を入れるべきだった」
腑に落ちない、といった表情のチェルージュである。
「なんか納得できないなあ。ライバルだから冷たく言っているわけじゃなく、あれは本人たちのミスだったと思うよ? ジルがどうこうできたとは思えないけど」
「そうかもしれない。でも、死んでも助かるっていう状況は、やっぱりどこか正しくない。心のどこかでそれを頼りにして、危機管理が甘くなってる気がする。俺は死なないけど、エマたちはそうじゃない。不死身に馴れて彼女たちを付き合わせてたら、いつか事故が起きる」
「気の持ちようの問題だと思うけど。加護は今まで通り持っておいて、ジルがそれに頼らないでおこうって決意すればそれで済む問題じゃなくて? 何なら、三人にも加護与えようか?」
俺は、首を横に振った。
「本人たちが望むならそうしてくれても構わないが、俺にはもういらない。エマたちと同じ目線で冒険していないと、いつか気がつかないうちにお互いの感覚にズレが生じると思う。あいつらの誰かが死んだりしたら、多分、心折れちまうし」
「そこまで言うなら、まあいいけど。人間の思考はときどきわからないなあ。それともジルだけが変なのかな?」
「正直なところ、自分でもたまに良くわからない。赤の盗賊団と戦ったときにさ、俺は一回死んだだろ? それを助けてもらってるのに、いまさら加護を返したいって言い出してる。虫のいい話だと思うんだけどな」
俺の矛盾には、誰よりも俺自身が一番よく気づいていた。
「冒険を始めたばかりのころ、かなりの部分で金策をチェルージュに頼ってたし、そのおかげでレベルが上がって、みんなの装備が買えて――ほとんど、自分の力じゃない。いまさら加護を返して冒険に向かったところで、もう自分の力だけで成し遂げたって胸を張ったりはできないさ。それでも、エマたちを失わないように、出来る限りのことはしたいんだ」
「ふーん」
チェルージュは、そっぽを向いてしまった。しばらく、重苦しい沈黙が続く。
何か言葉をかけようとしたが、途中から何やら考えこんでいるようで、声をかけづらい。
数分ばかりチェルージュは黙り込んでいたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「――母さんは、最後まで自分を許さなかった」
どこか遠い目をしながら、彼女は続ける。
「私は幼心に、母さんの考え方が理解できなかった。弟を殺し、それ以外の人間を救う。それでいいじゃないか、と。正しいか悪いかは知ったことではないけれど、母さんの選んだ道だし、自分の選択に胸を張って、短い生を謳歌すればいいじゃないかと、思ってた」
真顔のチェルージュなんて、久しぶりに見る。母のことを話すときの彼女は、いつもそうだ。
「この街に来てから、そこそこ人間とは触れ合っていると思う。それでも、まだ母さんの気持ちは理解できない。ジルの言うことだって、あまりわからない。貰えるものは貰っておけばいいと思うんだけど――ジルは、それでは胸を張って生きていけないという。私は、加護を押し付けることでジルの生きがいを奪っていたかな?」
そんなことはないさ、と俺は笑ってみせた。
「俺、一回死んでるしな。加護がなければ、そもそも俺は生きていない。なんていうのかな、野生のままでいたいというか。飼い慣らされてる俺が、野生のエマたちに餌を持っていく。それじゃあ、いつしかエマたちだって牙を抜かれると思うんだよ。あるいは、俺が群れから置いてかれちまう」
「よくわからない例えだけど、まあ、納得してるならいいよ」
少しふてくされた表情のチェルージュの姿が、ふっとかき消えた。同時に、首筋に硬質なものが押し当てられているのがわかる。一度だけ体験したことのある感触だった。吸血鬼の館の情景が、思い出された。
ずぶり、と牙の先端が俺の体内へと入ってくる。
あのときは、牙から体内にマナが流れこんでくる感覚があったが、今回は逆で、奪われていた。牙を起点に、俺の瞳から首元まで、マナが集められているのがわかる。吸われているのだ。
「はい、おしまい」
最後に首筋をちろちろと舐められてから、チェルージュは俺から身を離した。
「我がまま言って、すまんな」
「ほんとだよ。加護を返したいって言われた魔物なんて、私で初めてじゃないかな? もう吸血鬼一族の次期当主としては面子丸つぶれだね」
「いやすまん。俺に返せるものも大してありはしないが、何か困ったら言ってくれ。何でもする」
俺が頭を下げた一瞬で向かいの席へと座りなおしていたチェルージュの琥珀色の瞳が、きらりと光った気がした。
「じゃあ週一デートで」
聞き間違いかと思って、はぁ?と間の抜けた声を出してしまった俺は悪くない。
「週一デートで。週末空いてるでしょ?」
なんだ、そんなことかと頷こうとして、要求を呑んでしまうと、週末にエマたちを遊びに連れ出すことができなくなることに気づく。
「二週間に一度にまからない?」
「何でもするって言ったじゃん」
頬をふくらませて怒るチェルージュであった。
以上が昨日の経緯である。エマたちに加護を返してきた旨を伝えたところ、やはりというか予想通りというか、盛大に驚かれた。
エミリアは率直な表現で「馬鹿じゃないの?」と呆れ、エリーゼは「早まってはいけません!」などと慌て始める。残念だがすでに早まってしまった後だ。
エマだけは真顔で「ご主人様は私が守る」と意気込んでいるが、彼女の場合は
先走りすぎないように注意せねばなるまい。エミリアのところまで敵を通したという心の傷はまだ癒えていないかもしれないからだ。
迷宮の中層の序盤、いくつかの無人の部屋を抜け、俺たちはそこそこ広い部屋にたどり着いた。ベースキャンプから中層へと進む道は何十箇所もあり、今回案内された入り口も、前回とは別の侵入口である。
そのために初見の部屋を通り抜けてきたわけではあるが、中層の序盤はそもそも魔物がさほど出現しないために、進み具合は快調だった。
現に、骸骨剣士と戦った深度の部屋あたりまで十分そこらで到着できた。
「まあ、当然ながら他の冒険者もいるよな」
定期的に魔物が出没する中でもっとも浅い部屋はすでに占有されていて、他のパーティが魔物の湧き待ちをしているところだった。不要な揉め事は避ける方針であるからして、もちろんこの部屋は素通りする。
「かなり奥に行っても空き部屋がないようなら、帰還することも視野に入れる」
そう、俺は宣言してある。危機回避のため、慎重さの度合いを心の中で一つ引き上げた形になる。思い返せば、パーティを組んでからの狩りは、安全圏をそこまで確保していなかったというか、何か想定外の事態が起こったときへの対処を用意していなかった気がする。
初見の敵と戦うときには、相手の出方や動きがわからない以上、どうしても事故が起きやすい。予想だにしなかった状況に陥ってなお、切り抜けられるだけの余裕は持っていなければなるまい。
(百回戦って九十九回勝てる相手でも、逃げるべきです。百回に一度、死ぬのですから)
いつの間にかおろそかになっていたディノ青年の金言を、再び肝に銘じる俺であった。
魔物の出没区域に入ってから、二つ目の部屋も他のパーティが使っていた。
三つ目の部屋も他のパーティに使われていたら帰還しようと思っていたが――ここからは直進だけではなく、左右の部屋へと続く通路が現れる迷宮深度である。
足を踏み入れた部屋には他のパーティがいたが、空き部屋を求めて左右に進んだところ、右方向の部屋が空いていたので、俺たちはそこへ陣取る。今日の狩場は、ここだ。
「そこまで浅い階層を確保できなかったな。各自、安全重視で動いていこう」
頷くエマたちを横目に、俺は今日の狩場となる森を見渡した。
「特殊な構造じゃなさそうだな。迷路じゃない」
「そうですね。外周が通路で、中央が森。魔角牛と戦ったあの部屋と似ています」
「魔角牛が出現したら、打ち合わせ通りにやろう」
今まで中層で出会ったことのある魔物に関しては、綿密に対策を話し合った。例えば魔角牛の場合、火矢で顔面に集中攻撃し、怯んだら俺が接近して斬りつける。怯まずに突進してくるようなら、突進を一回避けたあと、接近戦を俺が挑む。エマの機動力では不安が残るので、魔角牛の足を止められるまでは回避に専念、といった具合だ。
(問題は、どっちかっていうと一度出会ったことのある敵じゃなくて、初見の敵への対処なんだけどな)
魔物シリーズ図鑑で予習をしてあるとはいえ、実際に魔物の動きを見てみないことには、対応した動きをしにくい。一度倒したことのある魔物に関しては今のところ危なげなく対処できているが、現状の課題は初見の敵に対して、とっさに有効な戦術を考えついて指示を出すことで、それは俺の役目だった。
俺が考え事をしている最中にも、エリーゼは猫のような姿勢で索敵をしつつ森の奥へと進んでいる。茶色いバンダナを見失わないように、俺たちも一定の距離を保ちながら、先行したエリーゼに付いていく。
チェルージュの加護を返したことで、不必要に緊張するということはなかった。
運が悪ければ死んでしまうとはいえ、迷宮に入り始めたころだってその覚悟は持っていたし、加護のある状態で迷宮に潜っていたときも、無警戒で暢気に冒険をしていたわけではない。
ただ、いつもより気持ちが引き締まっているだけだ。悪い傾向ではないと自分でも感じられる。
(敵発見、十二番。二体――大毒蛙か)
敵を発見したエリーゼが戻ってきて、魔物のいる場所を俺たちに指し示す。
「この先は、小さな泉になっていました。地図で言うと、恐らく部屋の北東あたりですね。泉の淵に二匹のカエルを確認しました。他に魔物はいないはずです」
「不意打ちで、一匹に対して火弾と火矢で集中攻撃しよう。倒せなければ攻撃を続行。倒せたら次の個体に火矢で攻撃。接近してきたら俺とエマで迎撃する。ただしエミリアは解毒用のMPを常に残しておいてくれ。なるべく木陰から狙い打ちたいところだが、接近戦になったら俺が毒を食らいかねん」
了解という三人の声が重なる。俺たちは足音を殺しながら進み、それぞれが別々の木の陰に隠れた。
(すっげえ色してんな)
部屋の北東の隅――泉の広さは、二十メートルもないぐらいだろうか。泉の周囲には、俺の腹ぐらいまでの高さの灰色の植物が群生していて、泉の奥には、その植物をかき分けるように二体の大毒蛙が地面に張り付いている。
大毒蛙の表皮は、黄と黒と赤色が斑模様に入り乱れた、非常にわかりやすい警告色である。一メートルほどの、蛙としては大きな全長は、色彩に乏しい迷宮の中にあって毒々しく目立っていた。
ちらとエマたちを見やると、彼女たちはすでに攻撃魔法の発射準備を終えていた。手振りで狙う方を指定してから、俺も両手の先にマナを集めて、火矢を引き絞る。
「発射!」
三本の火矢と一発の火弾が、泉の上を走って右側の大毒蛙に襲いかかる。
火の粉を散らして火矢が突き立ち、一拍遅れて着弾した火弾が轟音を上げて爆発する。
大毒蛙は密集していたので、エミリアの火弾の爆発にもう一体も少しだけ巻き込めたが、集中攻撃をしていないその個体は軽傷だったのか、跳んで草むらの中に逃げた。火矢と火弾の直撃を受けた個体の方は、もう動いていない。
「詠唱続行」
林の中に逃げ込んで隠れたとはいえ、この距離ならば俺の気配探知スキルでも大まかな場所がわかる。それに、表皮の蛍光色が草と草の隙間からちらちらと見え隠れしていて、狙いやすかった。
先行して、俺だけ火矢を放つ。灰色の植物の隙間を縫って、伏せていた大毒蛙の背中に突き立った。一瞬だけもがいてから、大毒蛙は草むらの中から飛び出てきた。1メートルほどの毒々しい警告色が、空を跳ぶ。
それなりの巨体であるにも関わらず、俺の身長よりも高く跳べるようだ。
空を跳びながら、大毒蛙は唾液を飛ばしてきた。毒液はかなり正確に、勢いよく真っすぐ俺たちへと向かってきたので、木を背にして毒液をやり過ごす。
慣性にしたがって地面に着地した大毒蛙に、第二陣の火矢が殺到した。
隠れていた大毒蛙のあぶり出しに俺は火矢を使ってしまっていたので、残り三人だけでの集中攻撃であったが、威力の高いエミリアの火矢が大毒蛙の顔面に抉りこむように突き立ち、大毒蛙は能動的な動きを止めて痙攣し始める。
まずは、圧勝というところだった。
「ふう。みんなお疲れ。毒液を食らった者はいないな?」
「みな無事です、ご主人様」
三人の笑顔を確認し、俺は満足して頷いた。初見の敵ではあったが、きっちりと対処できたと思う。
「ねえジル、あれ百薬草よね? 蛙のそばに生えてるあれ、全部」
「多分な。欲で目が眩まないように、意識して考えないようにしてたけど」
泉の周囲に生えていた、俺の胸ほどまでの長さの、灰色の植物。
群生していたのは、百薬草である。低級から通常品質までの回復薬の原材料になる、迷宮素材だった。
「大毒蛙からは素材が取れないからちょっとがっかりしてたんだけど、あれだけあれば日当が出るわね」
瞳にゴルド金貨が張り付いているかのような幻視さえ覚える、弾んだ声色のエミリアであった。俺は苦笑しながら指示を飛ばす。
「エリーゼ、いつも通り、魔物湧きの警戒を頼む。俺たちは手分けして葉を摘んでいこう」
みな頷き、散りぢりになって作業に入る。無傷で魔物を討伐し、素材まで手に入るとあって浮かれた空気になっていて、エミリアに至っては鼻歌まじりで作業を行っていた。
俺は苦笑しつつも、心のどこかで安堵してもいた。大きな怪我が原因で、エミリアが迷宮での探索を怖がるようになるかもしれないと危惧していたが、どうやら乗り越えてくれたらしい。
「素材が取れるのはいいんだけど、変な臭いね。手袋に沁みそう」
ぼやくエミリアであった。
百薬草で売り物になるのは、細い茎から伸びた卵形の葉っぱだけである。
葉の根元を刃物ですっと切り落としてやると、断面から青臭い汁がにじみ出てくるので、確かに匂いが沁みつかないか心配だ。鼻を近づけて臭いを嗅いでみると、つんと鼻の奥がしびれるような刺激を感じる。とてもではないが、食用になるとは思えない臭いだった。
葉をすり潰した汁から回復薬の成分を抽出するらしいが、市販されている回復薬では青臭さはかなり抑えられている。飲みやすい味にするために先人が苦労したのかもしれない。
「採取しやすい素材なのはいいけど、これだけ群生してると一苦労ね」
合間にちょっとした会話を挟みながら、黙々と作業をこなす俺たちであった。
切り取った葉の向きを揃え、一まとめにして背嚢にしまいこんでいく。
刃物で葉を切り取るだけだし、採れた葉は薄っぺらくて持ち運びも簡単だが、切り取る量が量である。一本の百薬草に生えている葉はせいぜい数枚で、慣れれば一分もかからずに作業は終わるが、泉の周囲に群生しているので並の作業量ではない。
「敵襲! 数は三! 十八番!」
エリーゼの鋭い声が聞こえるや否や、俺は長剣を抜いて駆け出した。図鑑の十八番は不死族である。骸骨剣士か死霊か、どちらにせよ急ぎエリーゼの元に駆けつける必要があった。
敵発見、ではなく敵襲である。すでに敵には気づかれている上に、三体となれば俺とエマだけでは抱えきれない。しかも、エマは採取のために板金鎧の胸元を開けていたので、装備を着なおす分、反応が遅れるだろう。
林の中に駆け込むと、エリーゼが俺たちの方へと一目散に逃げてくるところだった。まだ姿は見えないものの、三体の魔物がこちらの方へと慌しく向かってくる気配がある。
林の中で迎え撃つか、泉まで退がるか、俺は一瞬迷った。この狭い地形では、エミリアの魔法による援護が期待できない。視界が悪く火矢を撃ちにくいだろうし、敵が骸骨剣士なら接近戦になるので、火弾は俺たちまで巻き込んでしまうから使えない。
「エリーゼ、泉まで退がるぞ!」
「了解です!」
殿を俺が務め、エリーゼを泉まで後退させる。剣を構えたままの俺が林から出ると同時に――二匹の骸骨剣士が茂みの中から飛び出してきた。さらにその後ろには、苦悶の表情を浮かべた上半身だけの幽霊――死霊が宙に浮いている。
「エマは右! 二人は死霊を!」
エマの臨戦態勢が整ったのを視界の隅に捉えつつ、俺は長剣を構えなおした。骸骨剣士の装備は二体とも鋲皮鎧と帯広剣で、死霊ともども真っすぐ俺に向かって走りこんでくる。
(くそっ、さばけるか、これ!?)
それぞれに狙う相手は指示したものの、魔物は三体とも俺に殺到してきていた。
さすがに一対三は荷が重いので、とっさに回避したくなる気持ちを強引に押し殺す。前衛の役目は壁だ。俺がここで横に避けてしまっては、後衛のエミリアたちのところに魔物が向かってしまう。
俺の逡巡などお構いなしに、骸骨剣士は躊躇せず突っ込んできた。片手上段から振り下ろされた帯広剣を、長剣で受け止める。硬質な音とともに、剣と剣の接触部で火花が散った。
その間に、二体目の骸骨剣士が、一体目の骸骨剣士とぶつかるのも厭わず、俺に帯広剣を突き出してきた。避けれず、右肩の付け根あたりに焼けつくような痛みが走る。
(くそっ、同士討ちを気にしなくていい魔物はこれだから!)
さらに、死霊が俺に肉薄してきた。大口を開けて叫んでいるかのような、苦しみの表情。腰から下がなく、上半身も半透明なそいつは――その苦悶に満ちた顔を、俺の顔に押し付けてきた。
白目、顔の皺、絶叫するかのごとく開かれた口。
あまりのおぞましさに、俺の全身が総毛立つ。俺はとっさに長剣から右手を離して、死霊の顔面を払おうとするも――するりと、腕は死霊をすり抜けた。
死霊は半透明の体を俺に近づけ――すうっと、俺を通り抜けた。
(ぐっ!?)
死霊の体が俺を通り抜けた部分から、ごっそりと何かが奪われている。腕に力が入らない。下半身は自由に動くので、膝をついたりはしなかったが、長剣を取り落としそうだ。
更にまずいことに、二体の骸骨剣士は健在である。死霊の攻撃によって力を奪われた俺は、長剣を構えることすらできない。
一体目の骸骨剣士は、再び片手上段に帯広剣を振りかぶって、俺に斬り付け――
「おおおおッ!」
エマの鉄拳が骸骨剣士の顔面に炸裂した。板金鎧の小手を握り締めた、文字通りの鉄拳である。小柄な彼女の一撃によって、一体目の骸骨剣士は大きく仰け反る。
エマは止まらない。殴りつけた勢いそのままに、骸骨剣士の腰に飛びつき、押し倒した。いつの間にか、愛用の闘斧を手放している。
二体目の骸骨剣士は、矛先をエマへと変え、一体目の骸骨剣士に馬乗りになっている彼女へと帯広剣を振りかぶるが――軽やかに宙を跳んだエリーゼの前蹴りで吹っ飛ばされる。
エマが、馬乗りに押し倒した骸骨剣士の顔面を鉄拳で滅多打ちにする横で、一本の火矢が空を裂いた。俺に対して、再びの接触を試みようとしていた死霊は胴体を打ち抜かれ、苦悶の表情のままに霧散した。
自分が馬乗りになって殴りつけている骸骨剣士と、エリーゼが吹っ飛ばした骸骨剣士のどちらを相手取るべきか、一瞬エマが悩んだかのような仕草を見せたので――愛用の武器を手放してでも俺を助けに入ってくれたエマを見習い、長剣を床に放り投げ、エリーゼに吹っ飛ばされた二体目の骸骨剣士に駆け寄って――全力を篭めて、その頭部を蹴っ飛ばした。
俺よりも腕力で劣るエリーゼは俺の動作を読んでくれたのか、無駄な追撃をせずに避けてくれている。
力が入らないのはあくまで上半身である。すかっとするほどの快音を立てて、骸骨剣士の頭部は破砕した。エマが相手取っている一体も、首から上の骨をすっかり砕かれて動かない。三体の魔物は、すべて無力化されたのだ。
「ふう。何とかなったな、お疲れさん」
俺は自分に小回復をかけた。力が入らなかった上半身が楽になっていく。
戦闘を終え、みな笑顔を見せて肩の力を抜くが――すぐに、エリーゼが短剣を抜きなおした。その動作を見て、みな緩んでいた気持ちを一瞬で切り替えて武器を構える。
一度魔物を倒した後、こんなにもすぐに新たな魔物が湧くのは初めてのことである。しかし、確かに接近してくる一体の気配を感じられた。がさがさと乱暴に茂みをかき分ける音もする。
出てくる魔物次第では火矢の先制攻撃もしなければならないので、みな真剣な表情で林の中を凝視する中で――そいつは姿を現した。
「あ、ああっ。君たち、すまない、手を貸してくれ! 先の部屋で俺のパーティが事故ったんだ」
木々をかきわけて姿を見せたのは、鋲皮鎧に身を包んだ狩人らしき男性だった。
俺は、みんなと顔を見合わせて――狩人の男性を、急きたてるように走り出した。
「案内しろ!」
「すまねえ、こっちだ!」
すぐにエリーゼが俺を追い越し、狩人の彼を追走する陣形になる。ちらと後ろを見ると、エマとエミリアも遅れずに付いてきていた。
エミリアのみ、現場に残した魔石や素材が気になっているようだったが、首を横に振って諦めろ、と伝える。
彼らを見捨てて得られるのは目先の現金だけ。そして恨みも得るだろう。俺たちに責任がないとはいえ、俺たちが手を貸していれば助かったはずの仲間が、助けに入るのが遅れたせいで死にでもしたら、俺たちを恨むのが人というものだ。
「敵の種類と数は?」
「魔角牛と痺毒蛾だ。牛に気を取られて、戦士が燐粉を吸っちまった。蛾は魔術師が打ち落としたんだが、戦士が突進をくらっちまって動けねえ。いまは、何とか木を盾にして魔術師が時間を稼いでるはずだ」
「わかった」
狩人であるお前が索敵をしっかりしていれば防げた事態だ、などと難詰はしない。わざわざ恨まれることもあるまい。
俺たちは走る。隣の部屋とはいっても、より深部へと一つ進んだ部屋のようだった。さほど出没する魔物に違いはないだろうが、未知の魔物と遭遇する覚悟はしておいた方がいいだろう。
通路を走りぬけ、俺たちが次の部屋へと飛び込むと――魔角牛が、のそのそと森の中から出てくるところだった。俺たちにすぐに気づき、姿勢を低くする。
魔角牛の突進が始まるより早く、俺は走った。一拍遅れて、魔角牛が大地を蹴る。
避ける方向は、初めから決めていた。左手を軸に剣を握るとき、最も威力が乗るのは右方向からの斬撃だ。すれ違いざまにぶち当てるなら、相手の突進の威力も利用できるように、俺は左に避けるべきだ。
即死しかねない突進に正面から立ち向かうのは、少なからず勇気が必要だったが――回避は成功し、俺は駆けつけた勢いそのまま、接触の寸前で左へと跳び避けながら魔角牛の膝あたりに斬り付けた。
駆けながら剣を振ったので満足な体勢からの一撃ではなかったが、相手の勢いを利用できたため、長剣を振りぬいた腕にはしっかりとした手ごたえが残った。
左前脚に深い傷を負い、地響きを立てながら地面に倒れこむ魔角牛に、次なる攻撃を当てる必要はなかった。俺よりも遅れていたエマが、闘斧を振りかぶりながら、走りこんでいたからである。
がずんっ、という、いつ聞いても凄まじい破壊音とともに、魔角牛は頭部をかち割られて断末魔の悲鳴を上げた。
「サンドラ! サンドラ!!」
戦闘が終わるや否や、恐らくは連れの名前であろう人名を連呼しながら、森の中に分け入っていく狩人の男から、俺はそっと目を逸らした。
先ほど、森の中から、ゆっくりと歩きつつ魔角牛は出てきた。中に獲物が残っているのなら、もっと気が立っていても良さそうなものなのに。
つまり、もう戦闘は終わっていたのだ。
「エリーゼ、ここに残って索敵を頼む。ちょっと手伝ってくるから」
俺が歩き出したと同時に、すこし預かって、と闘斧をエリーゼに渡して、エマも歩き出した。
「えっとな、エマ。大丈夫だから、ここで待っててくれるか?」
板金兜の面頬を上げながら、エマはふるふると首を横に振った。
その瞳にはしっかりした覚悟の色が宿っていて、あの林の中がどんな状態なのか、ちゃんと予想がついているようだった。
「ちがいます。あの人には悪いけど、見ておきたいんです」
「ならいいさ。繊細になってるだろうから、受け答えは俺がするよ」
こくりと頷くエマであった。間もなく、林の奥から押し殺したような嗚咽が聞こえてきた。大の男が泣くほど、仲の良いパーティメンバーであったのだろうか。
彼を責めるなよ、と俺は重ねてエマに囁いた。索敵漏れと敵前逃亡、彼には二つのミスがある。彼が魔角牛を引きつけ、林の中に逃げていたもう一人の魔術師が救援要請のために現場を離れていたら、二人とも助かっていたのかもしれない。
怯惰なのかもしれないし、判断ミスなのかもしれない。しかし、もう過ぎてしまったことだ。
「新たな魔物が湧くかもしれない。さっきの話だと、もう一人いたんだろう? 探してやらないと」
膝をついて泣き崩れる狩人の背中に、そっと俺は声をかけた。
現場は、ひどい有様だった。突進を食らったわけではないが、転がったところを何度も踏み潰されたらしい。血で染まり、乱れた長髪から、かろうじて女性だったとわかるものの、彼女の損傷は激しかった。
俺の言葉にぴくりと反応して、狩人の彼は顔を強引に拭った。
運ぼうか?と声をかけるも、彼は静かに首を振ってそれを断り、物言わぬ魔術師の体を抱いて立ち上がった。
もう一人の戦士も、すぐに見つかった。森の外周に沿って通路を少し歩くと、
木に背中をもたれかけさせている重装甲の姿があったのだ。板金鎧の胸の部分が大きくへこみ、鉄兜は脱げ飛んでしまっていた。口元から血を流し、白目を剥いている彼に低級回復薬をかけたものの、傷は塞がらなかった。生者にしか、回復薬は反応しない。
「迷宮に吸われる前に、地上へ連れて帰れた。ありがとうな」
帰還の指輪の発動待ちをしながら、気丈にも、狩人の彼はそう言って俺たちに頭を下げた。
「いいさ」
俺も言葉短かにそう返した。彼にかけるべき気休めの言葉は、俺の内には見当たらない。数十秒の沈黙の後に、狩人の彼は戦士と魔術師を連れて、淡い光の中へと消えていった。
「エミリアが、ああなってたかもしれないんですよね」
ぽつりと、エマが呟いた。




