第三十七話 油断
「いやあ、人間の文化は良いねえ。こういう食事や娯楽の発達は、数の多い種族ならではだね」
俺と腕を組みながら、空いた手に氷菓を盛った青竹の器を握っているチェルージュである。
すっかり人間の街に溶け込んだ感のある彼女であり、パーティでの狩りが休みとなる週末の今日は特に予定もなかったので、朝飯を終えた直後に念話の指輪によって「デートしよー」と誘われた結果、少しの逡巡の末に了承したという経緯であった。
余談だが、真顔かつ目を細めてじっと念話の指輪を見つめていたエマの視線が忘れられない。
本来であればエマたちを誘って息抜きに連れ出したかったのだが、そもそも俺には趣味がない。食うことは好きだが、鯨の胃袋亭の食事を断って外に食べにいけるほどに裕福ではないし、さすがに十二歳の彼女たちに飲酒を付き合わせるわけにも行かず、外に連れ出す名目がないのだ。
どこかに連れていくにしろ、無目的にぶらぶらするだけというのも無駄な時間を過ごしている気がするし、ならばエマたちを連れていける面白そうな場所を探す下見にもなるだろうから、という判断でチェルージュとのデートを受けたのだった。
「あーん」
小さな口を開けながら、氷菓の入った竹の器を差し出してくるチェルージュである。
「へいへい」
俺は右手に持った竹さじで氷菓を掬い、チェルージュの口の中に入れてやった。はむっ、と口を閉じて氷菓を味わいつつ、目を細めて頬を染める彼女であった。
なぜこんなことをしているかというと、それはもちろんチェルージュの強い意向である。チェルージュは右腕で、俺と左腕を絡めているのだが、そうすると自由に扱えるのは残った片腕だけである。
「食べさせて?」
「いや、組んだ腕をほどいて自分で食えば――」
「食べさせて?」
「はい」
力関係というのは抗い難いものなのである。
この街においても、もちろん公然といちゃつく恋人同士はたまにいる。そういうのを見るたびに、せめて人目に付かないところでやれよと思っていたものであったが、まさか自分がそうなるとは思わなかった。とんだ公開処刑である。
人口五十万人のこの街において、色々な場所を丸一日かけて歩き回り、知人に目撃されない確率はどれぐらいだろう?それも、スラム街や郊外の農地ではなく、日ごろから生活している鯨の胃袋亭から商店街、職人街を闊歩するにあたって、だ。
いや、きっとこのまま何もなく、誰とも会わずに一日を終われるに違いない。
すでに先ほど、冒険者ギルドのディノ青年と、受付嬢のミリアム女史によく似た二人組とすれ違っていたが、きっと他人の空似だろう。二人揃って、まったく同時に俺にウィンクをしてきたが、きっとよく似た誰かだ。息合ってるなお前ら。
「さて、どこか行きたいところはある?」
空になった竹の器を街角のゴミ箱に投擲し、チェルージュは俺に行き先のリクエストを聞いてきた。明らかにゴミ箱を通り越す軌道を描いていた竹の器が、ゴミ箱の真上に来るなり急降下したのは目の錯覚だろうか。
「行きたいところを探したいな。ほら、俺って無趣味じゃん? 休日にエマたちをどこかに連れていこうにも、ちょうどいい娯楽施設を知らないから、そのあたりを開拓したいなって」
「デートの最中に、他の女の子を連れていく場所を探そうとするところに大きく不満があるけれど、まあいいよ。それじゃあ文化街に行こうか。冒険者ギルドと高級住宅街の間に劇場とかが集まってる区域があるから」
チェルージュに腕を引かれながら歩き出す。
露店立ち並ぶ商店街から数分も歩けば、そこは荘厳な建物の並ぶ文化街だった。
芸事とはまったく無縁だったので、もちろん文化街に足を踏み入れるのは初めてである。高級住宅街からほど近いという立地のせいもあるのか、閑静というか、落ち着いた中に華やいだ雰囲気を感じる区画であった。
商店街では苛烈であった客の呼び込みもおらず、各施設は入り口に紙を貼ったコルクボードやインクで書きつけた木の看板を設置して演目を開示していた。
「高級住宅街とは、また違った趣があるな、このへんの建物は」
街を見おろすように高所に作られた高級住宅街と、冒険者ギルドなどが建ち並ぶ平地。その中間に位置する文化街は、土地の土台そのものが斜面である。
その斜面に沿うように、劇場らしき大きな建築物が並んでいた。
木造もあれば石造りの劇場もあり、どれも外観を彫刻やら金字で飾り立てていて、重厚な印象を受けるもの、創意工夫が見られる小粋な劇場と、様々であった。
「どうする? いきなり劇場に入ってもいいし、他の施設を見て回ってもいいよ。
もう少し先にあるクラッサス劇場がいちばん格の高い劇場だから、行くとしたらそこかな」
「ずいぶん詳しいな」
「だって、知り合いが花形役者だもの。ボーヴォの屋敷に入り浸る変わり者なんだけどね」
「なんでもありだな、あの屋敷」
「楽しいよ、あの家。何ならジルも住む?」
「さも自分の家みたいに居住人を増やそうとするんじゃない。ボーヴォの家だろう」
「自分の家と思って自由に過ごせと言われている以上、私の家も同然なのだ」
自慢げに胸を張るチェルージュであった。
仮にではあるが、あの屋敷にエマも含めた俺たち四人が暮らすとしたらどうなるだろう?
(あのボーヴォと、同居はちょっと無理かなあ)
娘の彼氏を値踏みする父親めいたボーヴォの威圧によって、俺の胃に穴が開いてしまうのはほぼ間違いない。
好き嫌いは別として、何とも相性が悪い人物が誰しもいるもので、俺はボーヴォが苦手だった。だって怖いし。
「劇場に入らないなら――そうだね、スケートしない?」
スケート?と鸚鵡返しに聞き返す俺である。いつ得たかわからないが、俺の中にその単語の知識はあった。氷の上を、金属のエッジがついた靴で滑る遊びのはずだ。
「私もやったことなくて、ちょっと楽しみだったんだよね。こっちこっち」
程よい斜面は、そのほとんどが劇場として使われていたが、そうでない平坦な土地にはそれ以外の娯楽施設が建ち並んでいた。その一角にあるスケート場に俺を引っ張っていくチェルージュである。
「うおお」
思わず感嘆の声が漏れた。樫の木でできた両開きの扉を開けると、ひやりと冷気が頬を撫でる。中は、だだっぴろい円形のリンクに氷が張られていて、大人も子供も入り混じってスケートを楽しんでいた。
「いらっしゃいませ、スケート場は初めてで?」
「ああ。滑るための道具は借りれるのか?」
「もちろんでございます。お二人様ですね、こちらへどうぞ」
戦士ギルドの広大な修練場などと比べるとわずかに規模が小さいものの、スケート場はかなり広い。円形というよりは縦に長い楕円形で、100メートル近くあるのではなかろうか。
しかもそれはあくまでリンクの広さであって、外周には簡易な鍵付きの荷物置き場やら、受付と貸靴置き場やらがあり、よくもここまで広い敷地を確保できたと感心するほどである。
「はい、その目盛りに靴を脱いでお上がりください――お客様に合う靴の大きさは、こちらですね」
想像よりは横に太いエッジを紐で縛りつけた、木製の靴をそれぞれ手渡される。靴は預かっておいてくれるらしく、番号札と引き換えに店員に渡し、滑り終えたら出口で受け取る仕組みのようだ。
チェルージュに連れていってもらった高級料理店で、聞く前から俺にティラミスの知識があったように、スケートの知識もおぼろげながらにあったので、もしかしたら最初から上手く滑れるかも――と淡い期待を抱いていたが、残念ながらそんなことはなく、生まれたての小鹿みたいに内股でぷるぷるしながら滑って転んでを繰り返した。
チェルージュもそれは同じで、始祖吸血鬼ともあろう彼女が、威厳もへったくれもなく俺ともつれ合って転んだりしてきゃあきゃあと嬌声を上げる。お互いの無様な姿がおかしく、自然と笑い声がこぼれる。
童心に返って楽しむことしばし。俺たちはスケート場を後にした。
「いやあ、楽しかったねー」
転んで痣ができても小回復の魔法であっという間に元通りである。魔法とは便利なものだ。あのスケート場も、きっと氷属性の魔法で拵えたものなのだろう。
「スケートをするのは初めてだったが、面白いもんだな。たまたま上手く滑れたら気持ちいいし」
「そうだね。他にも面白い施設がこのあたりにはいっぱいあるらしいから、どんどん見ていこう」
「それもいいが、少し喉が渇いたな。このあたりには飲食店はないのか?」
「あるはずだよ。文化街の隅には、屋台とかも出てるはずだし――あ」
「どうした?」
不意に真顔になって、チェルージュは虚空の一点を凝視し始める。何かあるのかと思って俺も彼女の視線の先を追うが、青い空が広がるばかりで何の変哲もない。
「何かあったのか?」
「ちょっと待って」
微動だにしない彼女に問いかけるも、チェルージュは虚空を見つめたっきり、俺の方に視線も寄越さない。一体、何事だ?
俺の念話の指輪が、魔力を感知して光を発し始めたのはそのときである。チェルージュに渡したものではなく、エマたちの全員に俺と対になるよう渡したものだ。光っているのは、エマの指輪である。
『ご主人様、エミリアが、エミリアが』
頭から冷水をぶっかけられたかのように、意識がすっと冷えた。
指輪から発せられるエマの声は、切迫していた。そして、泣き声だった。
「落ち着け。場所はどこだ? 今行く」
『今、帰還の指輪を使ってます。エミリアが恐狼に』
恐狼、という単語を聞いた瞬間、血の気が引いた。上層の魔物といえど、あれを
今のエマたちで対処できるとは思えない。
(落ち着け、俺こそ冷静になれ)
帰還の指輪を使っているということは、迷宮前の広場に戻ってくるということである。つまり、戦闘自体はいったん終わっているはずだ。武器防具はいらない。今日の俺は、装備も回復薬の類ももってきていないが、マナは余っているから小回復の魔法は使える。この身一つで駆けつけるのが先決だ。
「すまん、チェルージュ――」
「行ってらっしゃい。また来週ね」
苦笑顔のチェルージュにろくな挨拶も残さず、俺は駆け出した。すでに平均的な成人男性の二倍近い敏捷となっている俺の走る速度は、かなり早い。道行く人が、疾走する俺に何事かと驚いているが、こちとらそれどころではなかった。
幸いにして、文化街から冒険者ギルド、ひいては迷宮広場は近い。
焦りが募るばかりで長い時間に感じたが、念話が終わってからほんの二、三分しか経たないうちに、俺は現場へ辿りついた。
「あら、ジル。早かったわね」
息を切らしている俺の瞳に映ったのは、何事もなかったかのような顔で皮鎧を洗っているエミリアである。異変といえば、作水の魔法で水をぶっかけている皮鎧に少なくない血痕が付いていることと、エミリアが身にまとっている布鎧がおびただしい血液で赤く染まっていることである。
「お前、それ――」
「恐狼に噛まれたの。右腕の肘あたり、ほとんど持ってかれたわ。骨どころか筋までダメだったんだけど、中級回復薬ってすごい効くのね、すっかり元通りよ。ほら、無事だったんだからもう泣かないの」
しゃくりあげるエマをあやしつつ、水に濡れた皮鎧を再び着始めるエミリアであった。
「待て、エリーゼは?」
この場に、パーティの要であるところの狩人の姿がないのだ。
まさか命を落としたかと最悪の想像が頭をよぎるが、それだとエミリアがここまで落ち着いてる説明が付かない。
「別行動してるわ、豚人を相手するだけなら一人で余裕だもの、あの子。服も着替えたいし、いったん宿に戻りましょ、そこでこうなった理由を説明するから」
皮鎧、べたべたで気持ち悪いなあ、などと呟きながら歩き出すエミリアに、俺もエマも付いていく。ならば脱いでいればいいと思うのだが、商店街の大通りを血まみれの布鎧のまま歩くのが嫌なのだそうだ。確かに、人目を引くのは間違いないだろうが。
「と言っても、単純な話よ。エリーゼは一人で、私とエマは二人で豚人を狩ってたの。でも、中層に冒険に行きだして、慢心があったんでしょうね。恐狼の出没地域に入りこんで、痛い目を見たってだけ」
エミリアが湯と布で身体を拭って私服に着替え、補洗機のペダルを足でがしょんがしょん踏みながらの会話である。補洗機の中身は、もちろん泡油樹の粉まみれになった布鎧だ。
「エマが悪いんです。わたし、豚人なんて余裕だって思ってて。恐狼も大したことないって言って。エミリアは嫌がってたのに、じゃあわたしだけでも行くからって。そうしたら、しょうがないわねってエミリアは付いてきてくれたんですけど、そこに恐狼が現れて――」
せっかく落ち着いてきたというのに、話している途中でまた泣き出してしまうエマである。いまいち要領を得なかったのでエミリアに聞いてしまったのだが、つまるところ、エマが独断で恐狼の出没地域に踏み入り、エミリアを守りきれずに怪我をさせてしまったということらしい。
俺が一人で恐狼と戦ったときのことを思い出す。
俺の剣撃をかわして背後に回りこめるようなあいつのことだから、重装備のエマを無視して後衛のエミリアを襲うことなど難しくはなかったはずだ。
「魔鎧を詠唱してあったから、食いちぎられこそしなかったし、エマがすぐ恐狼に斬りかかったから、私への噛み付きをやめて、恐狼の方から距離を取ったの。あとはエマが火矢を連射したら恐狼が逃げたから、すぐに帰還の指輪を使って現状に至る、ってわけ。ジルに連絡が行ったのは、指輪の発動準備中ね」
「ごめんなさい、ごめんなさい――」
「あなたを説得できなかった私も悪いのよ。私たち、話し合いが足りてなかったわ」
懐からハンカチを出して、嗚咽を増すエマの涙や鼻水を拭いてやるエミリアであった。
「ジル、ちょっと昼寝をしましょう。エマが前衛をやるのを怖がるようになったら良くないわ。ケアしてあげて」
俺は首を傾げた。ケアになるかどうかはともかく、落ち着かせる役目を振られたというのはわかった。
「ほら、エマ」
エマは背中を押されながら、俺たちの部屋へと入っていく。すぐに自分のベッドに突っ伏して、めそめそし始めるエマであった。
「ほら、あんたも」
俺もエミリアに背中を押されるまま、エマのベッドに横たわる。しがみつく相手を布団から俺に変え、再びめそめそするエマであった。エミリアはというと、自分のベッドに腰かけて俺たちの様子を微笑みながら眺めている。
(なんかこう、勝手が違うな)
俺はというと、泣き汗なのか冒険の汗なのか、少ししっとりしたエマの髪を撫でつつ、ベッドの感触に慣れずにいた。普段は俺のベッドにエマが潜りこんでくるために自分の領土内であるという安心感があったが、規格から何からまったく同じはずのエマのベッドはどこか普段と違う。
野生動物は自分の臭いで縄張りを主張するというが、慣れ親しんでいない布団はこうも腰が落ち着かないものなのか。
体臭について考えこんでいただけに、エマの台詞は心臓が止まるかと思った。
「チェルージュの、匂いがする」
ぴしりと空気が凍った気がする。
あれほどにめそめそしていたエマはいつの間にか泣きやんでおり、俺の体臭をすんすんと嗅ぎ出していた。
「なるほど? 私が死にそうになってた間、ジルは女の子と楽しく遊んでたってわけね?」
刺さりそうなほど鋭く、そして冷ややかな視線で俺を見下すエミリアである。
だって休みだったし自由に過ごしてもいいだろう、などと反論をすると傷口を広げそうで恐ろしく、若干の理不尽さを感じつつも、エミリアの視線に恐れをなしてそっと目を逸らす俺であった。
「エミリア、ここ」
仰向けになった俺の左半身はエマが占拠しているわけだが、右半身側のベッドを、ぽすぽすと手で叩くエマである。
いやまさかエミリアがそんなことはするまい――
(え、マジで?)
何かを覚悟したような目付きになったエミリアは自分のベッドから立ち上がり、
俺たちの方へと近づいてきた。俺が半信半疑で彼女の挙動を見守る中、「えい」などと声を発しつつ、エマが指定した地点にごく自然に滑り込んできた。
エミリア。俺。エマ。
簡潔に言うと、エマのベッドで川の字の俺たちである。まったく予想外な状況であった。
「えっと、エミリア?」
「昼寝するんだから静かにして」
「いくら親代わりとはいえ、齢七つにして男女同衾せずとか言うじゃん」
「初めて聞く言い回しだけど、じゃあエマはどうなのよ。静かになさい」
はい、と素直に頷いて黙る俺であった。確かにエマの侵入を黙認している現況では説得力に欠ける台詞である。
「だいたい、あんたを親代わりだと思ったことはないわよ」
エミリアの台詞に、軽くへこむ俺であった。ここのところ、エミリアとは良好な関係を築いて来たように思っていたが、どうもまだ心を許してくれたわけではないらしい。
そのまま、二人が寝息を立て始めるまで微動だにせず天井の染みでも数えていたのだが――エミリアが僅かに震えていることに気がついた。
どうした、と声をかけようとして俺は思いとどまる。
考えてみれば無理もないのだ。エマの手前、気丈に振舞ってはいたものの、今日、死にかけたばかりなのだから。
少しばかり逡巡したものの、いつもエマにしているようにエミリアの頭を撫でた。特に逆らわなかったので、俺は両手で二人の頭を撫でながら、少女たちが寝付くのを待つ。
余談だが、晩飯前にエリーゼが帰ってきて、一つの布団で寝ている俺たちの状況を見て目を丸くした。寝返りも打てずに尻を鬱血させつつ、俺は、苦笑いで返した。




