第三十話 寄り道
(吸血鬼であるチェルージュが、この街に住んでいる――?)
「はあ!?」
道行く人々の耳目を集めるほどの大声で驚いた俺に、非はあるまい。
当然だが、魔物は街の中には入れない。魔物の枠に入る吸血鬼も同様である。街に入るときには、必ず衛兵が例の板めいた魔法具で犯罪歴を調べるので、吸血鬼であると判明して騒ぎになってしまうはずだった。
「あ、もしかして、分身体なのか? 以前俺が死にかけたときに、瞳に溜まったマナから出てきたチェルージュみたいな」
「いや、本体だよ? 私の館で君と初めて会ったとき、紅茶を飲んでた、あそこにいた私そのもの」
「どうやって入ってきたんだ? この街に住んでるって言ったが、どこに?」
矢継ぎ早に質問をされたというのに、チェルージュは涼しい顔である。
「入り口の門番っていうか、衛兵のことだったら、不可視の魔法で姿を消してから、空を飛んで城壁を乗り越えたんだ。いわば街への不法侵入だね。戸籍はないから、公的な登録とかはできないかな。住居は、ボーヴォの家で部屋を借りて寝泊りしてる」
俺は、再び脱力する。衛兵さん、ここに犯罪者がいます。
「『開拓者』のところで、ねえ。 ひょっとしてそのために、あの人に声をかけさせたのか?」
「そういうこと。彼ぐらい人間をやめてれば私を怖がらないだろうし、何かとコネとか融通も効きそうだしね。彼もそれなりに孤独だったみたいで、今では私のいい話し相手だよ」
ボーヴォの、他人と話すことを億劫がるかのような視線を思い出した。あの人の生き方だったら、確かに孤独かもしれないなと、ふと思った。実力が突出しすぎていて、誰一人、彼と肩を並べて戦うことができない。
チェルージュとは、意外と相性がいいかもしれなかった。
「ついでに、館に溜めた魔石をかなりの量、持ってきたから、それをボーヴォに換金してもらって、今では私はちょっとしたお金持ちなのだ」
そこで俺は、とあることに気づいた。瞳にマナを溜める加護を、こいつが俺に授けた理由でもある。
「そもそも、チェルージュ、あの館を離れられないんじゃなかったのか? こっちの街はマナが薄いとかの理由で」
「それは、君にやってもらった、もう一つのお使いで解決済み。ほら」
フリルのついた長袖をチェルージュがめくると、そこには革製の腕輪があった。衛兵がしている、誓約の腕輪に形状が似ていて、何らかの魔術刻印がついていた。
「現物は見たからね、後はそれをアレンジして、私の身体能力を一時的に抑える腕輪を作ったんだ。それがこれ。この腕輪をしている最中は、私の強さはフィンクスとかと大差ないまでに落ちるかわり、身体の維持に使うマナも減るから、私はこうして生身で人間の街にいられるってわけさ」
弱くなって「槍の」フィンクスとかと同レベルか。
「何ともまあ、大掛かりなことだ。なんでそこまでして、この街に来ようとしたんだ? 何か用があるなら、以前みたいに俺にやらせればいいだろう」
「うん、それじゃダメなんだよ。あのね、私はジルが羨ましくなったんだ」
「羨ましい? 俺がか?」
自分用に運ばれてきた甘糖珈を、チェルージュは一口啜る。
「そう。最初はね、暇つぶしにいいと思って、君に加護を与えたんだけれど。君の生活を見ているうちに、私だけがあの館から動けないのに嫌気がさしてね。例えば、この飲み物」
カップを、指で弾いて硬質な音を鳴らす。
「甘糖珈がどうした?」
「私は人間と吸血鬼のハーフだから、血液も人間の食事も、どちらからでも栄養を摂取することができる。といっても、あの館では、母さんが死んでからは料理を作る人がいなくなったんだけど。私には人間の味覚もあるからね。ジルは実に美味しそうに食事をするし、羨ましくなったってわけさ」
「わからんでもないが」
俺は想像する。あの、この街からいくつもの森を越えた先にある、館。あそこで、俺の瞳から届く情報だけを楽しみに、日々を過ごしている少女。
「本当は、鯨の胃袋亭だっけ? 君たちの住んでいるところに潜りこんで面倒を見てもらおうかと思ったんだけどね。あそこは、ジルが自分で築いた家庭だから、割り込んで入っていくのがどうも気が引けてね」
「いまさら俺に気を使ってどうするんだ? 訪ねてくればよかったのに」
「そうはいかないよ。上手く説明できないけどね、エマちゃんたちと暮らすあの部屋は、君の家庭なんだ。そこに、恩着せがましく私が登場して、面倒を見ろとか、家族に加えろとかっていうのは、何ていうのかな、獲物の横取りっていうか、手柄だけ貰うっていうか。ジルが羨ましいからこそ、私はそこに入っていっちゃいけない。自分で築かないと、家族じゃあないんだ、やっぱりね」
「よくわからんが、わかるような気もする。フィンクスたちを倒したのを、自分の力だって俺が思ってないようなもんか」
「何か違うけど、そんなようなものだね。それで、話が逸れるんだけど、家族といえば、だ。少し前に、鍛冶屋のダグラスって人とジルが、私の母さんについて話してたのを思い出したよ」
「チェルージュの母親? そんな話をしてたか?」
人間だということは知ってたが、もちろん俺に面識はない。
「初心者に、最高級の装備を与えて、魔石をふんだんに吸わせて、姉弟で迷宮に潜ったっていう、クォンバイト家。話に出たでしょ?」
「ああ、ああ。もちろん知ってる。罠に嵌まって、姉の方しか迷宮から帰ってこなかったって聞いた。装備に頼って迷宮に潜ると命を落とすっていう、反面教師みたいな印象で語り継がれてるが」
「そうそう、その、帰ってきた姉の方が、私の母さんなんだ。教訓話の終わりに、姉は失踪していなくなったって言われてたでしょ? あれは、私の父さんが攫ったからだね」
「ほおお? マジか。数十年の時を経て明かされる真実だな」
チェルージュの生い立ちというか、経緯がこんなところで明かされるとは全く思っていなかった。興味深い話である。
「ちなみに、実の弟であるフィリップ君を罠に嵌めたのも、姉である母さんだね。母さんは実弟を殺したのさ」
「――は?」
聞き間違えかと思った。俺の知っている話では、フィリップ・クォンバイトという名の冒険者は、装備を狙う冒険者に罠へと誘い込まれ、命を落としたはずだ。
「母さんの記憶を、読心で見たから間違いないよ。それと、フィリップ――私の叔父さんだね。彼は、経験こそ足りないものの、優れた冒険者だったよ。武器術だって、専任の家庭教師が付いてたからかなりの手慣れだったし、罠への心得とか、階層ごとの注意事項だって、ちゃんと予習して迷宮に潜ってたんだから。無能の代名詞みたいに語られてちょっと可哀相だね」
「その彼が、何で命を落としたんだ? それに、チェルージュの母さんに殺されたって」
「単純な話さ。母さんは、お金が欲しかったんだ」
「ちょっと待て。話を整理するから」
数十年前に実在したらしい、金持ちのボンボン冒険者の代表みたいに語られてる、フィリップ・クォンバイト君が実は優秀な冒険者で?その姉がチェルージュの母親で?その彼女が、実弟であるフィリップを殺した?
裕福な家庭に生まれ育ったという話だったが、金が欲しい理由でもあったのか?
「母さんはね、本当に慈悲深い人だった。語ると長くなるから縮めるけど、自分が裕福な家庭に生まれたことに母さんは劣等感を感じていてね。貧民街では多くの人々が、食うや食わずで餓死しているのに、自分たちは最高級の武器防具を装備して迷宮に潜る、っていうのが受け入れられなかったのさ。今の街よりも、治安が悪くて、住民の命がもっと軽かった時代だったんだけれど」
俺は黙って聞いていた。チェルージュは、少し冷めてしまった甘糖珈で喉を湿らせて、続ける。
「あるとき、母さんは気づいてしまったのさ。自分が手を汚せば、多くの人を救える、ってね。短くない期間、悩んでたけど、とうとう母さんは実の弟を麻痺茸の群生地におびき寄せてね、動けない弟の喉に、最高級の短剣を突き立てたのさ。母さんは狩人だったからね、罠に誘い込むのはお手の物だったと思うよ」
「それで、チェルージュの母親は一人で帰ったのか?」
「そうだね。装備を剥いだ弟の死体が、迷宮に吸収されるまで、じっと母さんはそれを見つめていたよ。あとは、姉弟の装備を全部売ったお金で孤児院を建て、そこを経営してね。両親は存命だったから、彼らが死んだ後に、遺産を全部孤児院につぎ込んで自分も死のうって考えてたみたいだけど、そこで父さんが颯爽と登場して母さんを攫って、莫大な魔石と引き換えに、結婚を了承させたんだ」
「はああ。クォンバイト家の逸話に、そんな裏話があったとはなあ」
「これがまあ、父さんと母さんの馴れ初めかな。罪の意識は一生消えなかったらしく、母さんは毎日、あの館に自分で作ったお墓みたいなものに手を合わせていたよ。そんなに毎日、一体何を祈ってるのかと、幼心に興味を惹かれた私は、母さんに読心の魔法を使ったんだけど」
「話の腰を折って悪いが、読心なんて魔法、あるんだな。こっちの魔法ギルドでは売ってなかったような?」
「人間の魔法ギルドは、高難易度の魔法の品揃えはあまり良くないからね。とはいえ、読心の魔法はそこまで難しいものでもないから、恐らく危険視して一般に流通させてないだけじゃない?」」
「それもそうか。他人の心を覗ける魔法なんて、危険だしな」
「うん。本当に危険だよ。私は母さんに読心の魔法をかけて以来、誰にも使ったことはない。父さんに物凄く怒られたっていうのもあるけど、盗み見た母さんの心がまた、凄かったからね。控えめに言って、気が狂うかと思った。凄まじい慙愧の念、何度も何度も繰り返し現れる、弟にとどめを刺した瞬間の手ごたえ、血に染まった手、自分を非難する、弟の見開いた眼。あんなものを心に抱えて、よく母さんは狂わなかったものだと思う」
まるで自分が見たことのように語るチェルージュに、俺は何も言えなかった。
人に歴史あり、である。以前、ダグラスに冗談まじりに言った言葉が、思い出された。
「で、最初に話が戻るんだけど。私は発情期なのだ」
俺はまたしても脱力した。しんみりした気分になっていた、一瞬前までの俺の感傷を返して欲しい。
「それとこれとがどう繋がるんだよ――」
「いやね。ジルとエマちゃんたちがべたべたしているのを見ていて、私は母さんのことを思い出したのだ。生前、私の両親は仲が良かったからね。私にもああいうパートナーが欲しいな、と」
「俺とエマたちの何がそこまでお前を盛り上げたのか知らんが、俺はあいつらの親代わりだぞ? 異性として意識したことはない」
言ってから、こいつに通用する嘘ではないと思い当たり、後悔した。
「あのね。私はジルの瞳を通して情報を得てるんだよ? ジルの目線がどこに向かってるかわかりきったことだよ」
「おい待て」
「例えば昨日、朝起きたときに、エマちゃんはまだ寝ていたけど、寝巻きの前がはだけていて――」
「待てって」
「他には、未だに寝るときに、腰引いちゃってるんでしょ? よくあの体勢で寝られるよね」
「わかった悪かった俺が悪かったよ。もうやめてくれ」
とんだ辱めである。すべて事実だからたちが悪い。
「そんなわけで、私はパートナーを募集中なのだ。でも、私が見込むほどの男性は少なくてね。ボーヴォは悪くないと思ったけど、もう枯れちゃってるし」
とっさに俺はボーヴォ氏の顔を思い浮かべる。騒ぐチェルージュに、やれやれといった表情のボーヴォ。案外と相性がいいかもしれず、似合いの二人かもしれない。極微量の嫉妬を感じたのは、俺の狭量さ故だろう。
「要するに、知り合いが少なくて寂しいだけだろ、お前。暇なときにゃ遊びに来てくれていいから、発情期云々はやめておけ。そんな適当に誘われても、嬉しくも何ともない」
「寂しいだけって言われると身も蓋もないけど、その通りではあるね。あの館の寂しさに、久しぶりに気づいたよ。母さんがいなくなったときにも感じたんだけれど、時が経つと慣れてしまうものだね」
「あとな、そっちの種族がどうかは知らんが、人間はもっと生涯の伴侶を吟味して選ぶもんだ。もっと熱意をこめて結婚してくれって言われるならともかく、おざなりに誘われてもなあ」
「そうかな? 私は人間の母さんを見ていたから、吸血だけで眷属を増やす吸血鬼と違って、結婚に対する考え方は人間に近いと思うけど」
「ボーヴォと俺、どっちでも良さそうなんて態度がダメなんだよ。男はもっとこう、あなただけがいいとか、そういう態度にぐっと来るもんなの」
あはは、とチェルージュは快活に笑った。少し馬鹿にされている気がする。
「なるほど、よくわかったよ。ジルは勘違いをしているけど、種族差じゃなくて、それは性別差だよ。女性はね、力の強い者に憧れるのさ。自分を守ってくれる男性がいいんだ」
「人間は、腕力の強弱で結婚相手を選んだりしないぞ?」
「そんなことないと思うよ? 腕力を財力って言い換えたら、合ってるでしょ? 人間は社会性の生物で、そのコミュニティ内での価値観は財力だよ。お金を持ってる人が、人間の社会では強者なんだ。女性はその財力が強い人が好みってわけ」
「ぐっ」
そう言われると、理解できなくもない。確かに、裕福な男はモテる。家庭を守る力を持っていると、女性には見えるのだろう。
「性格とかの相性もあるだろうけどね。お金があった方が女性に好かれるのは事実だよ。それを考えると、将来性が面白そうだからって理由だけでジルに肩入れしてる私は、まだ健全だと思わない?」
「はあ。見た目は年下だから油断するけど、チェルージュ、五十歳だったもんな。言い合いじゃ勝てんなあ」
「ジルこそ、もう少し繊細な心配りを覚えなよ。エミリアちゃんにも言われたでしょ? 仮にも口説きに来た相手に向かって、おばちゃん扱いはひどくない?」
「へいへい、私が悪うござんしたよ」
「む、反省してないね。エマちゃんたちが家にいるときに押しかけて、魅了かけるよ? 私の加護があるから魅了耐性が最大なだけで、私の魅了はジルにちゃんと通るからね?」
「申し訳ございませんでした」
机に両手をつき、深々と頭を垂れる俺である。あの狂態はトラウマである。
「それじゃあ、ちょっとデートに付き合ってもらおう。父さんも、よく気晴らしに、母さんを館の外に連れ出してたっけ。懐かしいなあ」
「はい?」
俺の耳はいつから正確な聴覚を失ったのだろう。
「デートだよ、デート。母さん風に言うと、まずはお友達からお願いします、って奴だね。人間の街は目新しいものばかりで、私はどこにいっても楽しめると思う。デートコースは任せるよ?」
言うや否や、ぐいと俺に腕を絡めてくるチェルージュであった。距離が近い。
「別に構やせんけど、見ての通り、俺は迷宮に潜る装備を着ているわけだが。
恐狼の血糊べったりだぞ?」
「それもそうか。吸血鬼的にはいい匂いなんだけど、人間的にはムードがないね。
それじゃあ、一度宿に戻って、着替えてきたまえ」
「きたまえって。午後は、迷宮に潜る予定だったんだが」
「キャンセルで」
一言でばっさりと切り捨てられる、俺の行動予定である。話の流れでは俺が悪いみたいになっているし、拒否がしづらい。
「はあ、しょうがないな。でもよ、着替えるっていっても、いつもの気楽な服しかないぞ、俺? 最近は節約生活してるしな」
「そういえばそうだね。この前買ってもらった指輪の代金渡すよ。460,000ゴルドだったっけ? それで新しい服を買えばいい」
「よく覚えてるな」
確か、その値段だったはずである。しかし、代金をやると言われても、素直に首肯しかねた。
「いや、それはいいや。世話になってる分の、まあ、礼みたいなもんだしな、あれ。金額だけ返されても、その、なんだ。男の沽券に関わるというか、受け取りたくない」
その台詞を聞いて、意外そうな表情のチェルージュである。ややあって、にんまりと笑った。
「いいねえ、男の子だねえ。ジルの生活を見てると、どれだけお金を大事に思ってるかがわかるからね。それなのに代金の受取は拒否すると。一応、女の子扱いしてくれるんだ?」
そう言うと、一層、腕を絡めてきた。
「それじゃあ、お返しがわりに服は私が買ってあげよう。ボーヴォが食事の美味しい店を教えてくれたんだ。あの味をね、ジルにも食べて欲しいのさ。大丈夫、奢りだから」
「結局のところ、払ってもらってることに変わりはないわけだが」
「人間の言葉で表現すると、ヒモだっけ?」
忘れかけていた、ぐったり感が蘇ってくる。
「エマといい、チェルージュといい、どこでそんな言い回し覚えてくるんだよ」
「それじゃ、さっさと君の宿に戻ろうか。エマちゃんたちと鉢合わせすると、面倒くさいでしょ? 私としては、恋敵を煽るのも面白いんだけど」
「やめてくれよ、エマとかが本気にしそうだ」
肩を落としつつ、腕を絡められながら歩き出す俺であった。
俺としては、そこらで適当に服を買いつつ、奢ってくれるという飯屋に行ってお開きの予定だった。
甘かった。完全に、見通しが甘かったと思う。
「ああ、よく似合ってるよ、チェルージュ」
ご機嫌な様子で際限なく試着を繰り返す吸血鬼にバレないよう、本日何回目かも覚えていない台詞と共に、重いため息を俺は吐き出した。
購入決定と非購入に分かれ、二つの山を築いている衣類は、どれもチェルージュが試着したものである。
すでに、俺は心を鉄で鎧っていた。ついでに顔も、笑顔を崩さないよう、細心の注意を払っている。
なぜかというと、あまりの試着の多さに辟易していた俺は、次第におざなりな返事になっていったわけだが、たちまち看破されてチェルージュが眉間に皺を寄せたからである。
「ちゃんと見てる?」
明るく笑うチェルージュしか知らなかった俺にとっては、初めて見る彼女の怒りであった。
その怒り方は、静かに不機嫌になっていく、ヤバいパターンの怒り方だったので、俺はとっさに保身を考え、それ以降は積極的に意見を申し上げつつ、褒めたり相槌を打ったりしているのである。
我ながら腰が弱いとは思うが、似たような怒り方をする身内が一人いるので、その手の付けられなさが身に沁みていた俺は、あっさりと腰巾着に徹することに決めたのだった。
チェルージュに似た怒り方をする身内とは、もちろんエミリアのことだ。あいつも怒ると相当ヤバい。
ちなみに、これでチェルージュの喜怒哀楽のうち、見たことがないのは哀しみだけだ。能天気に生きていそうな彼女が、悲哀を表に出すことが果たしてあるのだろうかと一瞬でも考えた俺は、軽い自己嫌悪に陥った。
良く笑うことを彼女の美徳だと俺は考えていたのに、能天気と軽んじるとは何事かと、自分で自分を叱る。
母を亡くしたことを語ったときの彼女は、少しばかり寂しそうだった。奥深い森の中の館で孤独に暮らしているというのに、俺に対して天真爛漫な笑顔で接し続けてくれていること自体、彼女の善性を物語っていると言うものであろう。
「ああ、綺麗だよ、チェルージュ」
そんな、わずか一分にも満たない内心の葛藤を経て、俺はこのようにへらへらしているのである。
「いやあ、色々買ったねえ。満足満足」
久遠とも思しき時間の末、彼女の買い物は終わりを告げた。
ダグラスの鍛冶屋からほど近い高級仕立屋を出ると、すでに外は暗くなっていた。店に入る前は、夕方どころか空が青かったことを考えると、俺の忍耐力は褒められて然るべきであろう。
なお、男性物の服も扱っている店だったので、俺も余所行きの服を一着買ってもらい、早速身に纏っている。
チェルージュが服を選ぶ時間の十分の一もかからぬ時間で俺の服が買えたことを考えてはなるまい。
「お、着いた着いた」
朗らかな声で目的地への到着を告げる彼女の声に、俺は両手に提げた紙袋がどっと重みを増すのを感じた。
いっぱい買ったし、いったん部屋に荷物を置いてから食事に行こう、との彼女の提案めいた決定により、仕立屋でチェルージュが購入した洋服の数々を両手から提げながら、手ぶらで身軽に歩く彼女の後をついていった俺である。
魔法具で弱体化しているとはいえ、俺よりも身体能力はチェルージュの方が高いので、自分で買った荷物ぐらい彼女が持つべきだとも思ったが、チェルージュ曰く、こういうときは男性が荷物を持ってくれるもの、らしい。
男女の腕力差がさほどないこの街においても、女性優遇のこういった考え方は浸透しているようだった。
「帰ったよー」
返事を待たず、俺の背丈よりも高い、柵状の門扉をチェルージュは押し開けて敷地内へと進む。
思い出したかのように、人差し指で虚空を撫でると、二メートルは離れているであろう、門扉の横に備え付けてある呼び鈴が、誰も触っていないはずなのに、りんりんと甲高い音を鳴らした。
家主の登場を待たずに、敷き詰められた芝生と渡り石の上を、ずんずんとチェルージュは歩いていく。遅れないよう、おっかなびっくり、俺も後をついていく。
(でけえ)
若干俺が気後れを感じているのも、無理はないと思う。目の前に広がる屋敷の大きさは、冒険者ギルドの本部といい勝負だ。入り口である、この庭だけでも、血なまぐさい冒険者たちがひしめく迷宮広場の一帯と変わらぬほどに広い。
確か、屋敷の主であるボーヴォは、妻帯もせず、特定のパーティやギルドに所属してもいないはずだった。これほどに広大な屋敷に一人で住む意味はあるのかとふと思ったので、その旨をチェルージュに問いただしてみたところ、お抱えの鍛冶師や錬金術などの職人も住み込んでいるとのことである。
腕のいい仕立屋職人もいるとのことだったので、買出しなどせずに彼らに服を作ってもらったらどうかと提案してみたところ、
「そこはほら、気を使わせたら悪いからさ? ジルなら気楽に付き合わせられるし」
とのことである。その気配りをなぜ俺にも少し向けられないのかと憤慨してみせたところ、
「いやいや、今日は付き合ってくれて嬉しかったよ。ありがとうね」
などと言いつつ、俺の両手が塞がっているのをいいことに、唇に再び、軽いキスをされてしまっては、何も言い返せない。
まあ、役得だったしいいか、などと考えてしまうあたり、俺も安い男である。
「姫か。お帰り」
ぎぃ、という鈍い音とともに、俺の身長を二倍して届くかどうかという高い扉を押し開け、ボーヴォが姿を見せた。
方々に配置された、煌々と輝く猫目灯であたりは明るく、ボーヴォの顔に刻まれた深い皺が見て取れるほどである。
「ただいまー」
彼は、手を振るチェルージュをまず見、そして、両手に紙袋を抱えた俺へと視線を移す。その視線に、理不尽に虐げられている弱者への、慈愛と憐れみの成分が混じっていたのは俺の気のせいではあるまい。チェルージュと同居しているのであれば、何かと彼も、気苦労が絶えないのではなかろうか。
「ジル、早く早く。こっちこっち」
我が物顔でボーヴォの屋敷に踏み込んでいくチェルージュである。あいつはまず、人間の美徳である、遠慮という概念を覚えるべきだと思う。
ボーヴォは扉を片手で支えつつ、親指でくいくいと屋敷の中へ誘ってくれた。一礼して玄関へと向かう。
「お疲れ」
すれ違いざまに、感情の篭った一言を投げて寄越すボーヴォであった。
表情の起伏に乏しい彼であったが、同情されているらしいことは伝わってくる。
「ここでも、いつもああですか?」
「ああ。腕白な娘を持った心境だ。手に負えないものだな」
彼の言葉に、嘆息以外の成分が混じっているのを感じて、俺は驚いた。
「あれ、案外気に入ってます?」
「ん? 顔に出てたか。俺のパーティは、とっくの昔に迷宮で全滅したからな。女も、それ以来近づけていない。家族がいたら、こんな賑やかさなのかと思うとな。振り回されるのも、苦痛に感じていない俺がいるよ」
俺は、何も言えなかった。表面上の人となりしか知らない俺が、気軽に触れていい話題でもなかろう。
「あれの話題に、よくお前が出てくる。ジルといったな」
「はい?」
「そんなわけで、どうも最近、親になったような気分だ。娘が欲しければ、腕ずくで奪ってみろ」
「ははは。十年やそこらで越えられそうにないですね」
冗談だと受け止め、俺は笑って返す。
「まあ、うちにも娘みたいなのが三人いるんで、気持ちはわかりますよ。他の男を連れてきたらと思うと、俺も穏やかな気持ちじゃいられない気がします」
あくまで世間話として話したつもりであったが、ボーヴォは苦笑いであった。
「ずいぶんと身の回りに華が多いようだ。刺されないように気をつけろよ? あれは怒らせると存外怖い」
「からかわれてるだけですよ。立場が弱いもんで、逆らえないんです」
ふむ?と言いつつ、彼は顎を撫でた。剃っているのか、皺の多い顔に髭は生えていない。
「まあ、お互い子供のようなものか。そう考えると、微笑ましくもあるな」
待たせていいのか?とボーヴォが促してくれたので、俺は足早に家の扉をくぐる。家に入ってすぐの空間は、中央に大きな階段を配して、なお左右と奥に倍以上の余裕のある、広い部屋だった。
(最高級の宿屋の受付って言われても信じるなあ、この広さ)
外見の大きさから、チェルージュの館にあったような豪壮な調度品を想像していたが、意外にも無駄な飾りは少ないように思えた。もちろん、巨大な絨毯が部屋中に敷き詰められていたり、階段も黒檀か何かの、飴色をした高そうな木材が使われてはいるが、必要以上に灯具やら宝飾品やらでキラキラしているわけではなく、余分な置物のようなものも少ない。
「おそーい」
正面の階段を上がった二階の手すりから、チェルージュが身を乗り出していた。
どうやら、そこに彼女の部屋があるらしい。
「へいへい」
紙袋を抱えたまま階段を昇り、ドアを開けて待ち構えていたチェルージュに続いて部屋に入ると、俺の網膜に桃色が広がった。
「なんだこれ」
白、クリーム色、黄色、桃色。
ほとんど暖色のみで構成された、家具や寝具の数々である。この中で寝ろと言われたら、俺は一晩で睡眠不足に陥る自信があった。
「女の子の部屋に入って嬉しいのはわかるけど、あんまりじろじろ見るもんじゃないよ? 荷物はそこのソファの上に置いといてね。じゃあ、ご飯食べにいこう」
「人様の家に、こんな魔改造を施して――」
がくりとうな垂れる俺であった。この一室も、ボーヴォの屋敷の一部であって、チェルージュの持ち家ではあるまい。
「好きに使ってくれって言われたからそうしてるの。細かいことは気にしない気にしない」
細かいことではないと言いたかったが、背を押されて俺は外へと押し出されたので、言葉は飲み込むことにした。急に娘ができたような気分だとボーヴォは言っていたが、自分の屋敷の中にこんな空間ができていることを、果たして彼はどう思っているのだろうか。
「料理人なら家にもいるが、出かけるのか?」
「うん。家で食べたらデートにならないからね。いってきます」
「遅くなるんじゃないぞ。お前の話を楽しみにしてる若い衆が大勢いる」
「わかってるって」
ひらひらと手を振りながら、チェルージュは我が物顔で屋敷を歩く。
先ほどから、屋敷内の各部屋の扉を薄く開けて、ちらちらとこちらを伺う視線を感じる。どうも、チェルージュは、この屋敷内で確固たる地位を築いているようだった。
多くの視線の主は、チェルージュが連れてきた男がどんな奴が見定めよう、とでも思っているのだろうか。
「ずいぶん、溶け込んでるな?」
躾の行き届いた高級宿屋の店員よろしく、俺の目の届く範囲に、誰一人として出てくる無礼を犯していないのは、家主の薫陶なのだろうか?
「若い子が珍しいらしくてね。最初は吸血鬼と聞いて遠巻きにされてたんだけど、馴染んできたら、一躍みんなのアイドルになったってわけさ」
若い子ねえ、と言おうとして、俺は口を噤んだ。災いの元である。
今日のところ、ずっとしてやられっぱなしで悔しかったとしても、言ってはいけない言葉はあろう。
「ジルの前には出てこなかったけど、職人の最高峰が揃ってるよ、この家。例えば鍛冶屋だと、ダグラスの師匠だっていうヴァンダイン氏が頻繁に入り浸ってたりするし。裁縫も、細工も、料理も、錬金術も、すごい人がいっぱいだよ」
「ほう?」
「ボーヴォはあの通りのレベルだから、ちょっと迷宮に入るだけで莫大なお金が手に入るらしくてね。でも、本人は贅沢にも興味ないし、趣味らしき趣味もないっていうんで、使い道に困っててね。自前で各種工房を作ったら、いつの間にか偏屈な変人が集まってきたらしいよ。そういう人って、社交性はなくても腕前は確かだったりするらしくて、今じゃどの分野でも最先端を誇るサロンになったんだってさ」
「何とも、景気のいい話だなあ」
「ジルも気に入られたら、ヴァンダインさんに武器、作ってもらえるんじゃない? 友達だよ、私の」
「気に入られたらだろ? 見込んだ奴にしか武器を打たないって聞いてるし、俺にそんな腕前はねえよ」
「ジルなら気に入ると思うけどなあ。面白い人だよ、あのお爺ちゃん。今度、話通しといてあげるね」
雲の上の会話がぽんぽんと出てきて、嘆息するしかない。
「まあ、俺にゃ遠い話だ。そんなことより、今日行くっていう料理屋、味は確かなんだな?」
「うん、間違いないよ。ボーヴォの屋敷に住み着いてる料理人は、その世界を引退したお婆ちゃんでさ。賄いとか、漬物とか、地味な料理を作らせるとすごくおいしいんだ。いい素材を仕入れるのは、それなりに大きな料理店じゃないと難しいから、しっかりしたお店の味を楽しみたければそこに行けって、お婆ちゃんが推薦してきたお店なんだ」
「ふむ。そんじゃ、どんな飯を食わしてくれるか、楽しみにしようか」
いつの間にか再び腕を絡められながら、屋敷の門扉を押し開ける俺であった。




