第二十九話 襲来
しとしとと、床を踏むわずかな足音。しんと冷えた空気。物音一つしない、どこまでも続く岩肌。
俺は、今、迷宮の地下十階にいる。主に出没する魔物は、豚人と、恐狼。
ここ二十分ほど歩き回っているが、豚人には遭遇していない。
つまり、ここは、恐狼の縄張りなのだ。
前回、この階層で恐狼と戦ったときは、苦渋を舐めた。兜を食いちぎられ、手傷を負わせたものの、逃げられたのだ。あのときの記憶が、つい昨日のことのように思い出される。
あれから、十日余りの時が過ぎていた。
再戦を決意するに至った動機は、簡単だ。昨日の冒険で、俺のレベルが、ちょうど十の倍数に到達したからだ。
以前に恐狼と戦ったときと比べると、腕力値が2、敏捷値が2、知性値が1、それぞれ上昇した。50レベル分ほど、成長したことになる。
主に狩った獲物は豚人だけであったが、戦士ギルドで型を習ってから、その型を崩さないように意識して剣を振っていた結果、伸び悩んでいた武器スキルが、一時的に以前のように成長するようになった。
今では、型通りに剣を振ることも、剣を振った後の構えなおしも、ごく自然にできるほど、身についている。
装備は、変わっていない。
恐狼に食いちぎられた兜だけは新調し、以前のものよりはやや造りのごつい板金兜になっている。頭以外の防具は、もちろん銀蛇の皮鎧一式であった。手を抜けるような相手ではない。
鈍魔鋼で外刃を付けた長剣は、わずかに研ぎのせいですり減ってきたが、一ヶ月で使い潰した鉄製のそれに比べると、磨耗は緩やかだった。少し研ぎなおすだけで、すぐに切れ味が戻るのである。武器に不安はない。
恐狼の縄張りであろう場所を、延々と歩く。
何個目かの角を曲がろうとした瞬間、違和感を覚えた。
それは、生物の気配、と言い換えてもいい。息遣いや足跡、物音など、何かを感じたわけではない。それでも、刻一刻と、違和感はどんどん強くなってくる。何か、強大なものが迫ってくるような、息苦しさを覚える。
俺は長剣の柄を持ったままの左手で弓の握りを持ち、右手で矢を引き絞る構えを取る。火矢の詠唱だ。
もう、柔らかな足裏が大地を蹴る、とつとつという足音がそこまで聞こえてきている。間もなく、奴は姿を現すだろう。
俺が見据えている先、曲がり角から一匹の恐狼が姿を現した瞬間――俺は火矢を放った。
ひゅん、という静かな風切り音と、目標に命中する、鈍い手ごたえ。
俺の魔法スキルと魔力貫通スキルも少しばかり上昇したとはいえ、やはり恐狼は火矢に大した怯みも見せずに走りこんできた。
俺は焦らず、長剣を屋根の構えに取る。剣先を相手に向かる、基本の型。
鎧まで含めた俺の全体重よりも重いであろう、巨大な体躯が、人が走るよりもはるかに速く、俺へと真っすぐに向かってくる。その重圧、プレッシャーはすさまじいものがある。
しかし、俺は逃げない。避けようとも、思わなかった。小回りの速度では、恐狼には勝てない。それは、構えからの斬撃と、構えなおしを習得した俺の動きをもってしても、だ。それよりも、こいつは速い。
あの巨体でぶち当たられたときの被害を想像すると、怯懦に囚われそうになる。間違いなく俺は吹っ飛ばされて、転げまわるだろうし、すぐに立ち上がれないほどの衝撃を受けるかもしれない。
だが、それでもいい。奴の牙と、俺の剣では、俺の剣の方が威力が高い。奴の牙は、俺の防具を一瞬で貫けはしない。俺の鈍魔鋼の長剣は、しっかりと当てさえすれば、恐狼の毛皮といえども斬り割く威力はあるはずだ。
有利な状況でも、格上相手にぶつからないのは、始める前から気持ちで負けているようなものだ。
だから、俺は逃げない。今まさに、俺の目の前まで走りこんできた恐狼が、俺に食らいつこうと、その巨体を伏せるように沈めた後、飛びかかってくる――。
「せいッ!」
それに合わせるように、俺は上段の剣を、真っすぐ振り下ろした。大振りでなくとも、体重が乗っている、鋭い一撃だ。
瞬間、巨大な何かに撥ね飛ばされたような衝撃を受けた。
天と地が逆回転し、身体のあちこちをぶつけている感覚がある。その間は、身体のどこにも力を入れられなかった。ただ、身体に加えられた力に逆らうことなく、ごろごろと転がり続けただけである。
数秒ほど転がった後、俺の身体は勢いを止めた。立ち上がろうとしたが、世界が回っているようで、立てなかった。揺れる視界の中、片膝立ちのままで、何とか俺は剣を構える。
姿勢を崩しているうちに、すぐにでも再び飛びかかられることを覚悟していたが、恐狼は唸り続けているだけで、近寄ってこようとしない。ようやく眩暈が治まってくると、恐狼も傷を負ったのが見て取れた。
俺から見て、恐狼の右の肩に、深い切れ目ができており、その傷付近の毛皮は、赤く血で染まっている。
相打ち気味に繰り出した俺の一撃は、しっかりと恐狼に命中したのだ。
切っ先を向けた俺の長剣を警戒しているのか、恐狼はじりじりと距離を詰めつつ、唸り続けている。
(どこか、腱でも切ったか?)
傷口からもっとも近い、恐狼の左足は、しっかり踏ん張れていないようだった。
どうやら、運命の天秤は、俺の方へと傾いたらしい。
「グルルルル――」
恐狼は、未だに戦意を失っていなかったので、俺も緊張の糸は切らない。
唸り声で威嚇しつつ、怪我のない残りの三本足で、今にも地面を蹴って跳ぼうとするかのように、頭を下げた前傾姿勢を保っている。左前足だけが、だらりと地面に垂れていた。
「長引かないようにしてやりたいけど、そうは行かないよな」
俺は、再び火矢を詠唱する。両手の先に、マナで弓矢が形作られる。
無事な方の前足、右の足首を狙って、俺は火矢を放った。空気を焦がす擦過音とともに、恐狼の右前足に、火矢は命中する。
肉の焦げる臭いとともに、恐狼は両前足の支えを失って、首を地面に垂れた。
俺は、長剣を屋根の構えに取り、ゆっくりと近づいていく。
恐狼と目が合った。戦意は残っているが、少し、悲しそうな目をしていた。
「ガアッ!」
無事な二本の後ろ足だけで、恐狼は跳んだ。最初ほどの高度はない、地面を縫うような、低い跳躍だ。四本ある足の半分は使えないというのに、低層に出没する他のすべての魔物よりも、俊敏な動きだ。
ただし、さすがに四本足の飛びつきよりも、動きは鈍い。俺の一撃で、捉えられる速度だ。
「ふんっ!」
俺は気合を篭めて、真っすぐに長剣を振り下ろす。
手の先に伝わる、鈍くしっかりした、破砕の手ごたえ。すぐさま手首を返し、跳び下がって、第二撃を放つ構えに戻る。
恐狼は、頭蓋を砕かれて、もう動かなかった。とどめと血抜きを兼ねて、頚動脈をさっと切り裂く。溢れ出た液体は、岩の地面をたちまちに赤黒く染めていった。
「ふう――」
雪辱戦、成功である。
戦闘中は気が付かなかったが、鉄兜の中は汗まみれだった。俺は作風の魔法を使い、面頬を上げた兜前面の隙間から、兜の中に風を送る。涼やかな風で、汗が飛ばされる感覚が快い。エミリアが風呂上りに作風の魔法を使って涼んでいるのを見て、俺も欲しくなって覚えたのだ。
兜を着用する前に、俺は頭に布を巻いている。汗を吸わせるためだ。迷宮の中では、ちょっと汗をかいたからといって、兜を脱いで拭くわけにもいかない。兜がないときに奇襲でもされたら一大事だからだ。
しかし、それはそれとして、汗が目に入るのも良くはない。塩水のようなものだからして、目に沁みるのだ。斬り合いの最中で、一瞬とはいえ視界がふさがれるのは、それなりの痛手である。
だからこその、頭に巻いた布であり、作風の魔法であった。うん、これは決して無駄遣いではない。ないぞ。
「さて、持ち帰るか」
俺の全体重よりも重い、巨大な体躯は、俺一人では素材である毛皮を剥ぐことができない。それに、知識としては剥ぎ取り方を知っているものの、実際にやったことはない。
そもそも、死体から毛皮を剥ぎ取って革になめすという作業は、どれも職人の技がいる。素人が安易に手を出して、素材をダメにしてしまった話をよく聞くほどに、難しい作業なのだ。
「よっ、と」
恐狼の死体を立たせて、前足を肩に担ぐ。その後、股の間に手を差し入れ、後ろ足を抱えるように持ち上げる。これだけ身体が大きいと、運び方も人間のそれと変わらない。
血液を抜いたことで、気休め程度に軽くなっているとはいえ、それでも恐狼の重量はかなりのものである。レベルが上がって腕力値が強化されている俺でも、一体を抱えて運ぶのが精一杯だ。
「えっほ、えっほ」
ずしりと肩にのしかかる重みに耐えながら、俺は小走りに迷宮の中を、地上へと向けて進む。恐らく、二十分もしないうちに辿り着けるだろうが、途中で魔物に遭遇したら、恐狼の死体は投げ捨てて戦わなければならない。そして何よりも恐るべきは、酸水母である。
魔物に遭わないよう、急いで帰る途中で、頭上に潜む酸水母に気づかなかったら、一巻の終わりである。周囲を警戒しつつ、小走りで進む。その上に、肉塊と化した巨大な重量を担いでおり、今もわずかに斬り口から血が滴ってもいて、それが銀蛇の皮鎧を汚していた。
(きっついなあ)
うん、我がことながら、中々に過酷である。
しかし、これは必要な作業なのだ。恐狼の死体は、傷が少なければ5,000ゴルドで売れる。それに魔石の相場が2,000ゴルドほどであるから、こいつ一匹で一日の稼ぎになるのだ。
体感だと地上二階ほど、もう少しで出口だというところで、大ネズミと遭遇した。危機感というか、生物としての本能がないのか、明らかに格上である恐狼の死体を担いだ俺から、逃げるでもなく襲いかかってきた。
担いだ死体を投げ捨てるまでもない。飛びかかろうとしてきた大ネズミの腹を前蹴りで吹っ飛ばした。ごろごろと地を転がる大ネズミに駆け寄り、顔面を蹴り上げる。
何かが折れるような鈍い音がしたものの、とどめには至っていないだろう。弱っている大ネズミの頭を踏みつけて、終わらせた。
普段の俺であれば、たとえ100ゴルドにしかならない魔石であっても、数分待って回収しただろうが、今はそんな余裕がない。恐狼の死体は、地面に降ろしたままにしておくと迷宮が吸収してしまうから、ずっと肩に担いだまま、大ネズミの死体が消えるまでの数分を待たなくてはならないのだ。
はっきりいって、体力の無駄である。100ゴルドでは、労力に見合わない。
今頃は、エマたちが必死に大ネズミを狩り、得られた魔石に快哉を叫んでいるころだろう。その、彼女たちの戦果を、路傍の石のように捨てる行為に心が痛まぬでもないが、冷静にかかる労力と得られる報酬を計算するのも冒険者の能力の一つであった。
俺は大ネズミの死骸をその場に残し、再び地上へと続く道を登り始める。
「おう、こりゃ大物だな。剥ぎ取りもこっちでやる形でいいかね? 手間賃は引くことになるが」
布を張った、テントのような天幕が立ち並ぶ、商業ギルドの買取市場。
そこの、皮革部門に、俺は恐狼の死骸を持ち込んだ。机の上に置いては汚れてしまうので、床に張った布の上に死骸を横たえる。
解体など、一連の血なまぐさい作業を行うため、毛皮部門の天幕は、買取市場の中でも隅の方にあった。確かに、天幕の中に立ち入った瞬間、何ともいえぬ悪臭が篭っていたものだ。
「うん。鮮度もいいな。死後硬直が始まっちゃいるが、新鮮なもんだ。胴体に傷がないっていうのもいい。頭と首、足に傷があるから、取れる毛皮は足から胴体までだな。じゅうぶんだ」
「皮は剥ぎ取ったことがなくてな。そっちでお願いしたい」
「了解した。解体の手間賃は、魔石を除いて取れる全素材の売却金額、その二割だ。1,000ゴルドを切る場合は、1,000ゴルド貰ってるがな。この毛皮なら、6,000ゴルドってとこだから、二割引いて1,200ゴルド、中抜きするぞ?」
「剥ぎ取りは覚えたいんだが、毛皮を剥いだことがなくてな。ダメにするのが怖くて、そのまま持って帰ったんだ」
商業ギルドの職員は、そこそこ年齢の行ったおっさんだったが、恐狼の死骸を調べ終わると、傍らに控えた、作業用と思しき前掛けをした二人の男に声をかける。
「これだけ大きいと、一人じゃちょいと剥ぐのは難しいな。毛皮を剥ぐだけなら、誰かに後ろ脚を持っててもらえばできなくもないが、仮に全身に切り込みを入れて解剖して、毛皮を上手いこと剥げたとしても、その後、すぐに木の板に釘で打ちつけて皮を伸ばし、乾かさにゃならん。さらにそこから、皮に残った脂肪分を削ぎ落として、なめしの手順に入るんだ。お前さん、できそうかい?」
うへえ、といった気分だった。手順が多すぎて、とてもではないが迷宮の中で行える作業ではなさそうだ。
「いや、無理そうだな。剥いだ毛皮を持ったまま冒険を続けられるんなら習得も視野に入るが、すぐに処理しないと値段が下がるんだろう?」
「そうだな。時間が経つと皮の硬直や腐敗が進んじまって、使い物にならなくなる。後ろで作業してる若い二人は、裁縫ギルドに所属してる下積みの新人だから、手間賃がこの値段で済んでるんだ。処理にかかる時間や手間なんかを考えたら、作業料としては安いもんだと俺は思ってるぜ」
「それもそうか。わかった、毛皮の採れる魔物を倒したら、また丸ごとここに持ってくるよ」
「そうしてくれ。恐狼じゃあちょいと採算が取れないだろうが、もう少し高級な毛皮の取れる魔物なら、帰還の指輪を使えば持ち運びも楽だろうから、そっちも視野に入れてくれ――魔石なんだが、払う報酬に上乗せって形にしたい。どうしても魔石は手元に引き取りたいとかあるか?」
「いや、ないが。どうしてだ?」
「原理は未だにわかってないんだがな、例えばそこの恐狼の死骸で言うと、毛皮と肉に解体することになるだろう? そうするとな、多少時間はかかるが、迷宮の中と同じように、一定時間放っておくと、どっちも消えちまうんだ。で、先に消えた方、まあ俺たちが毛皮は触っているから肉なんだが――この肉があるとき消えていって、魔石が残る。魔石さえ手に入れちまえば、残った方の毛皮はどれだけ放っておいても消えないんだ。不思議なもんだが」
商業ギルドの職員は、金庫らしきものを手元に引き寄せ、トレイに三枚の銀貨を載せて差し出してくる。
5,000ゴルドの大銀貨一枚と、1,000ゴルドの中銀貨が二枚。合計額は7,000ゴルドだ。予想していた相場通りの値段である。
「逆の場合もあり得てな。こいつの肉は硬い上に臭くて食い物にはならないんだが、皮を干したまま放っておいて、肉をどこかに捨てに行ってたら、干した皮が消えて魔石だけ残ってたなんて笑い話もある。そんなわけで、魔石が出るまでは職員が様子を見てるんだがな、そんな中、魔石をどうしても受け取りたいっていう冒険者が目の前で待っててみろ。率直に言うと邪魔なんだ。だから、取れる魔石の推定価格を払うから、それで満足して帰ってくれってことだな」
「ああ、そういうことか。全く問題ない。この7,000ゴルドに、魔石代が含まれてるってことだろ?」
「そうだな。相場は2,000ゴルドで、毛皮と合わせて買取額は6,800ゴルドだが、状態のいい毛皮だったんで端数はオマケだ。また持ってきてくんな」
商業ギルドの天幕を出て、買取市場を後にすると、一仕事終えた気分になったが、まだ空は青かった。
当たり前である。恐狼を探すために二時間近く使ったが、出会ってから今までは、一時間に満たない。死闘を繰り広げたからか、やけに濃密に感じたが、合計で三時間も経っていないのだ。
「さて。第二陣、行くかな」
何となくいい仕事をした気分にはなっていたが、日当が出たからといってこれで終わっていいわけではない。狩りが不作の日もあれば、調子のいい日だってある。普段、狩りを切り上げている時間までは、残り四、五時間もあった。
一度、迷宮の外に出てしまったのに、再び迷宮に赴くのは気後れするものがあるが、ここで手を弛めていては、きっと大成できないだろう。
時間までは黙々と、自分にできる狩りをするのだ。
(ま、甘糖珈を一杯飲むぐらいはいいよな)
夜まで迷宮の中にいることを見越して、背嚢の中には昼食の迷宮焼きが入っている。飲み物は革袋に入れた水で済ます予定だったので、自分へのちょっとしたご褒美である。
飲み終えたら緊張もほぐれるだろうので、それから、再び迷宮へと潜ろう。
人間は、そんなに長時間、張り詰められるようにはできていない。適度な息抜きは、大事だった。
甘糖珈の持ち帰りをやっている店の場所は、覚えている。移動する前に、俺は迷宮城の広場へと移動した。汚れた銀蛇の皮鎧を洗浄するためだ。
「だーれだ?」
両の瞼に、手のひらと思わしき、やわらかな感触。同時に視界は塞がれ、予期せぬ暗闇が俺を襲う。
俺は、迷宮城の広場で作水の魔法を使い、肩に担いでいた恐狼の死骸から流れた血痕を洗い流し、腰から上の皮鎧と兜を脱いで解放感に浸りながら、行きつけの喫茶店に赴き、空いているのをいいことに、オープンテラスの二人用の椅子を占拠して装備を傍らに置きつつ、渋みがかったウェイターの老人に甘糖珈を注文しつつ、うららかな午後の陽射しを楽しんでいたところだった。
今の俺の気持ちを、何という言葉で表現すればいいだろう。
なぜお前が。せっかくの休憩が。とっさにいくつかの反応が俺の心からは湧き出てきたが、もやっとしたような、脳裏に去来する何とも言いがたい感情を一言で表すならば、こうだろう。
「なんでやねん」
妙に力が抜け、ぐったりするが、両目を抑えているやわらかな手のひらは意外と力強く、思わず前に倒れこもうとする俺の頭をがっしりと抱えて離さない。
そういえば、前回、こいつに物を頼まれたのも、この喫茶店だった気がする。
のんびりできる雰囲気と、空き具合が気に入っていてしばしば訪れているが、実は相性の悪い場所なのだろうか。
いや、こいつが嫌いというわけではないが、いつも唐突に現れるので、妙に気疲れするのである。
「その態度、ひどくない?」
後頭部が、少し堅めの布地に押し付けられるさわさわとした感触。エマたちのそれとはまた別の、ふわりとした、女の香り。微妙なやわらかさがあるということは、俺はひょっとせずとも、彼女の胸元に頭を抱きかかえられているのではなかろうか。
「で、何の用だ、チェルージュ?」
俺が、抱きかかえられたままの首を後ろに倒し、声の主であるところの吸血鬼の顔を見ようと仰向けの態勢になったところ。
「はむっ」
擬音ではない。わざわざ声に出しながら、チェルージュは俺の唇に、自分の唇を押し当てた。
現状を理解できないときに、人は思考を停止させるという。俺は、身をもってそれが真実であると知った。
俺が固まっている間、たっぷり十秒ほど、唇を好きなように唇で弄ばれながら、覆いかぶさってきているために、逆光で見えないチェルージュの輪郭からはみ出た空は青いなあ、なんて思いながら――
「で、どういった風の吹き回しだ」
ようやく唇を離された俺は、冷静に現状を問うた。
もちろんのこと、内心はあわあわ慌てててててぐらいには混乱しているが、男子たるもの、色恋沙汰で取り乱すのは格好が悪い。いわば、見栄である。
「うん、実はね――」
一部始終を目にしていないはずがなかろうに、表情を微動さにさせぬ老齢のマスターは、カップに入った甘糖珈を机に置くと、軽い一礼の後に去っていった。カウンターの中に戻った彼は、パイプを咥えて火を点ける。
「私、発情期なんだ!」
堂々と胸を張りながら宣言するチェルージュに、俺は冷静を装って口を付けた甘糖珈を吹いた。表情こそ変えていないが、喫茶店のマスターが咥えたパイプから、噴き出すかのように炎が上がったのを俺は見た。
盛大にむせた俺の口からだばだばと褐色の液体が銀色の皮鎧にかかり、また作水の魔法で洗い流さないと、などと俺が現実逃避をしている横で、チェルージュはにこやかな笑顔のまま、手振りでマスターに雑巾を要求していた。
「あと、私にも同じの頂戴。お代は先渡しだよね?」
俺が手に持ったままのカップを、指先でぴんと弾きつつ、チェルージュはバッグから財布らしきものを取り出し、小銀貨をテーブルに置いた。
「あれ? チェルージュ、お金持ってたのか? というか、以前遭ったときと服装が違うが」
人間の街で使う現金がないからこそ、行き倒れていた俺に魔石を持たせてくれたのだから、この吸血鬼が小銭を持っているというのは変である。それに、服装も、いや、髪形すらも以前とは違う。
以前は、ねずみ色のタンクトップと白のフレアパンツに、漆黒のマントを羽織っていただけだったが、今は白に近い薄桃色の、ひらひらしたフリルがあしらわれたドレス状のワンピースを着て、バッグと日傘なんて手首に提げている。
オールバックに結んでいた葡萄酒色の長髪はほどかれて、豊かな波が背中の腰ほどまで垂らされていた。
本当に育ちがいい家の娘は、もう少し控えめな服装をしそうなものだが、それはともかく、良家の子女といった体である。
「よくぞ聞いてくれました。実はね、いま私、この街に住んでるんだ」
剥ぎ取りの表現について、卯堂 成隆様の「革細工師はかく語りき(n3920bz)」を参考に致しました。この場を借りてお礼申し上げます。




