第二話 朱姫
俺の目を覚まさせてくれたのは、紅茶の香りだった。
今回は意識を取り戻すまで早かった。目を開けてがばっとはね起きると、豪奢、と表現できそうな部屋の調度品が目に入ってきた。とっさに状況を整理しようと思いついたのは、夜の森で起きたあの時の経験から来るものだろうか?
俺が寝ているのは、全身を伸ばせるほどに大きなソファで、すぐ目の前に机があった。机の下だけは細かな刺繍が施されたタペストリーが絨毯とは別に敷かれていて、机そのものは俺の全長よりもさらに大きく、横腹はコウモリの緻密な彫刻で飾られている。
そして、俺の寝ていたソファとは机を挟んだ反対側に、背もたれがついた一人用の椅子に座って、一人の女性――少女が、カップの紅茶を啜っていた。
血のような赤い髪に、陶器を思わせる白い肌。
着ている服は、灰色のタンクトップと裾の広がった白いズボンだけで、小柄な身体を包むように、漆黒のマントを羽織っている。
「ん。起きたかな?」
カップを持つ手は少女のそれであり、可憐な細い腕は深窓の令嬢を思わせるが、その印象とは裏腹に、片足を椅子の手もたれに引っかけてぶらぶらさせているのは決して行儀のいい仕草ではなかった。何より、服装がお嬢様のそれではない。
「飲むかい?」
少女は紅茶を啜るのをやめ、がちゃりと音を立ててカップを机に置くと、返事も聞かずにティーポットを手元に引き寄せた。
返事がないことを訝ったのか、彼女が俺の顔を覗き込んでくる。
最初は、オールバックにした長髪を頭の後ろで束ねた赤毛に目を奪われたが、彼女と目が会った瞬間に、釘付けになった。
琥珀色に彩られた、漆黒の瞳。吸い込まれるような錯覚さえ覚えた。
「――頂きます」
わずかに反応が遅れたとはいえ、しっかりと返答ができた自分を褒めてやりたい。聞きたいことは山ほどあったが、取り乱してもいいことはない。ここがどこで、目前の彼女がどこの誰なのかもわからないのだ。
落ち着いてみれば、彼女は挙措はともかく、美しい少女ではあった。人間離れした、血色のあたたかみのない、白い肌である。
上半身には肌が透けるほどに薄いタンクトップしか着ていないことからして、男としては邪な思いを少しは抱くべきなのかもしれなかったが、それよりも彼女の瞳が頭に焼きついて離れなかった。
恋愛感情とはまったく別種の、本当に、純粋に吸い込まれるような気分だった。彼女の容姿の問題ではなかったと思う。あの大きい琥珀色の瞳と目があった瞬間、底知れぬ何かを覗きこんだような――。
ぼんやりとそんなことを考えていた俺の思考は、新たな驚愕に塗りつぶされた。
彼女が何もない虚空を、そう、塩をつまむようにきゅっとひねると、その親指と中指の間から、水が出てきてティーポットに注がれていくのだった。よく見るとティーポットから湯気が出ており、熱湯なのだとわかる。
紅茶を蒸らすためなのだろうか、ティーポットに蓋をして、ハンカチのようなもので包もうとしていた彼女は、驚きのために見開かれていた俺の瞳と表情を見て、訝しげな視線をよこす。
「複合魔法が珍しかったのかな? 火と水のマナを混ぜただけだよ」
「ま、魔法? マナ?」
聞き慣れない単語が出てきて、思わず鸚鵡返しに聞き返してしまう。
魔法っていうと、杖を振って炎とか雷を出すあの魔法なんだろうか。
「魔法を知らないの?」
頷いた俺を見て、白磁のようになめらかな彼女の眉間に、皺が寄る。
「この屋敷に用があって来たんじゃないの? 人間では簡単に来れないようなとこにあるんだよ、ここ?」
「ええと、記憶がないんだ。自分の名前も思い出せない。目が覚めたら森の中にいたんだ――」
事がことだけに、理路整然と説明はできなかったけれど、だいたいの事は伝えられたと思う。
目が覚めたら森の中にいたこと。自分の名前も職業もわからなかったこと。民家を探して森の中を歩いていたら、眩暈と頭痛がひどくなって倒れこんでしまったこと。起きたら、ここにいたこと。
話し終わった後、彼女は細い眉をいじりながら、何事かをぶつぶつ呟きながら考えはじめた。
その独り言の内容に興味がないわけでもなかったが、それよりも今いるこの場所への興味が、俺の中では勝った。
(女の子の部屋を堂々と眺めることができるなら、誰だって見るだろう)
この少女の身元や身分がわかるかもしれないからね、うん。
彼女が友好的に接してくれたので、この頃には、俺の緊張も解けていた。
改めて、部屋の中を見回す。広さは二十歩四方ぐらいだろうか、少女が一人で使っているとしたら、かなり広い部屋だ。
部屋の四隅には、鮮やかな色の花を模したランプが、木棚の上に置かれている。机、椅子、棚、俺の寝ているソファの枠もそうだ、多くの家具が、つややかな黒飴色の、高価そうな木材で作られている。
床にはふかふかなクリーム色の絨毯が敷かれ、部屋の一角には、何かの淡く輝く白い石で造られた暖炉が、堂々と自らを主張していた。
俺から見て右側の壁には、手を伸ばしても上まで届かないような緋色のカーテンが余裕を持って吊るされており、窓の隙間から淡い光が差し込んできている。どうやら夜は明けているらしい。
贅沢に縁がなかったせいで、どの調度品がどれくらいすごいものなのかは上手く言葉にできないが、それでも部屋全体から圧倒されるような雰囲気を感じるのだから、どれも良いものなのだろう。この少女は、どこかのお嬢様なのだろうか?
全体的に見ると厳かな部屋なのだが、押しつけがましい派手さのようなものはなく、ソファの淡い桃色や絨毯のクリーム色から、わずかに女性らしさが感じられた。目の前の、この少女の趣味だろうか。
この少女も、謎といえば謎である。この世界には、魔法があると彼女は言った。目の前で実演もしてもらった。
どうやらこの世界には、魔法というものが存在するらしい。
(この世界、には?)
何気ない自分の思考をあやうく見逃しそうになったが、意識せずに思ったことだからこそ、それは重要であるようにも思えた。
何一つ覚えていない自分自身のことや、人間には来れない場所の近くに着の身着のままで倒れていたということ、それに、彼女の話しぶりからすると、魔法というものはごくありふれたものらしいから――。
(杖から火や雷を出すという魔法のイメージは、俺が適当に考えたことだ。でも俺は、そんなものはありえない、空想上のものだという意味で、そう考えたのではなかったか? 彼女がすんなり魔法の実在を肯定したからその驚きで塗り替えられてしまっただけで――)
俺は、魔法が存在しない世界から、この世界に来たのではないか?
突拍子もない考えだとは思うが、そう考えると、一連の出来事に、一応のつじつまがあうのだ。
この世界には、魔法が実在するという。それなら、違う世界から人を呼ぶような魔法もあるのではないか?
俺は魔法なんて存在しない世界から、この世界の何者かによって、召還じみた行為で呼び出されたのではないか?
一度そう考えてしまうと、その疑惑はどんどんと心の中でふくらんでいった。
(目の前の少女に聞いてみよう)
ほとんど直感だが、俺はそう結論を出した。先ほど彼女は、「ここは人間では来れない場所」と言った。
(――まるで、自分が人間ではないような言い方だった)
彼女の正体に恐怖心をまったく抱かないわけではないし、彼女は魔法を使えるようだから、その気になれば俺を殺すこともできるのかもしれない。多分、できるだろう。熱湯を出す魔法を簡単に使えるような口振りだった。
それでも、やるつもりなら俺が寝ている間にいくらでもできただろう。
軽装で深い森の中、体調不良でぶっ倒れていた俺を助ける義理なんて、彼女には何一つなかったのだから。
俺が異なる世界から来たのではないか、という仮説について話そうと、口を開こうとして――
「うん、決めた。まずは前提条件を固めよう」
彼女の宣言に出鼻をくじかれた格好の俺は、まじまじと彼女を見つける。
彼女はちょっと晴れやかな顔をして、俺の瞳を覗きこんだ。
「魅了」
彼女が呟いた瞬間、何かが俺の中に入り込んできたような感覚があった。
その「何か」は、まず瞳から、流れるように心臓のあたりまで降りてきて、ざわざわと絡みつくように体内を侵していく。
彼女の全身がうっすらと輪郭を帯びたように輝き、彼女以外の世界の全てがぼんやりと霞んで見えた。
世界でたった一人、彼女だけが輝いている。頭が、妙にぼうっとする。
なんと美しい女なのだろう。やや小ぶりな顔は可愛らしいが、琥珀色の瞳はぱっちりと見開かれて意志の強さを感じさせる。眉はすっきりと細く、小さめの鼻はすっと通るように整っている。わずかに青の混ざった色をした唇は愛らしく、つややかな赤黒い長髪をオールバックにして首の後ろで結んでいる様は力強ささえ感じさせる。全身の肌はなめらかな白磁のようで落ち着いた美しさがあり、活発に見える赤黒い髪との対比が映える。彼女の小さな背とは裏腹に、椅子の足元に布垂れを作れるほどの巨大な漆黒のマントを羽織っていて、その吸い込まれるような黒はまるで闇そのものの高貴さである。身につけている上着はねずみ色のタンクトップだけで、胸元の控えめな膨らみの先端が僅かに尖っている様は筆舌に尽くしがたい淫靡さがある。足首まである、裾の広がった純白のフレアパンツと飴色の光沢を放つ木靴、そして彼女の細い胴を締める一本の無骨な革と金具だけのベルトは、彼女の活発な性格をよく表していた。彼女の美しい全体像を拝む光栄に私は謁しているのだ――。
ああ、この人に命令をされたい。例えどのような事であっても、私は従うだろう。この人の為すことに、この身がわずかにでも役に立ったならば、どれほどの幸福を覚えることだろうか。用が済んだ後に、塵芥のように捨て去られても構わない。願わくば、より主君にとって有益な駒でありたい。この身は主君のためにある。ああ、美しく可憐な、気高い我が主君。ああ、ああ――
『効いてるね。一つ目の質問、君の名前は?』
なんと美しい声!もったいなくも私に声をかけてくださったのだ!
「この身に名前などありません。正確には、あの暗き森の中で目覚めたときには、自分の名前がわかりませんでした。しかし例えこの卑小な身に名前などなくとも、主君への忠誠心は微動だにしないということは断言できます。ああ、我が主君よ!」
『ごめんごめん、必要最小限の返答でいいよ。次の質問、さっきまでの私とのやり取りに何か嘘をついた?』
「いいえ、嘘は一つもついておりません」
主君に嘘をつくなどということがどうしてできようか!恐れ多くも先ほどまでの私は主君の素晴らしさに気づいておらず――
『もういいよ、鎮静』
頭から冷水を浴びたように感じた。即座に気分は元通りである。
というか、先ほどまでの自分の狂態は一体何だったのだろうか。最初にこの少女は魅了と言った。相手を魅惑する魔法か何かだったのだろうか。
ともかく、人は本当に恥じ入った時、両手で顔を覆うものなのだということを、俺はいま知った。一部始終の記憶は、しっかり残ってしまっている。
「ひどくない?」
うめくように言った俺の言葉に悪びれる様子もなく、少女はにこにこしている。
「ごめんごめん、君の状況を考えるのには、君が嘘をついていないっていう前提が必要だったからね。でも色々わかったよ、ありがとう」
慣れた手つきで彼女はティーポットの包みと蓋を取ると、カップに緋色の液体を注いで俺の方へ置いてくれた。でも今は紅茶を楽しむどころの気分じゃない。
「冷める前に飲むといいよ。炎帝茶は心を落ち着かせるから」
半ば言われるままに、のろのろとカップに手を伸ばした俺は、ろくに香りも嗅がずにぐびりと一口飲んだ。
まず、舌に乗せた瞬間に、液体から花開くような素晴らしい香気が広がり、喉を通って鼻から抜けていった。香気の通り道は禊ぎをされたように余韻が残り、ついで胃に落ちた茶から、馥郁たる呼気が放たれて吐き出される。息をするだけで良い香りを楽しめるほどに。
「すごいな」
美味い、と表現するのは何だか違うような気がした。美味い、ではなく、おいしい、というのともちょっと違う。もう一口飲んでみて、舌全体と鼻を使ってゆっくりと幸せを味わう。うん、この紅茶はすごい。
「気に入ったようで何より。私もこれ好きなの」
「紅茶の味なんてわからないと思ってたんだけどな。それでもこれが規格外においしいっていうのはわかる」
このお茶の力なのか、現金なもので、すっかり気分は元通りだった。心を落ち着かせるというのも、気休めではなくて本当にそういう力があるのかもしれない。彼女は炎帝茶と言っていたが、こんなお茶は飲んだこともないし、聞いたこともない。
今や、頭はすっきりと冴え渡るようだ。そして私は、先ほどまでこの少女に聞きたいことがあったのだ。
「色々と聞きたい、って顔をしてるね。でもまずは、先に自己紹介をしておこう。お互いの立ち位置の確認って重要だからね。ようこそ我が館へ。客人として歓迎しよう」
そう言うと、彼女は姿勢を正した。座ったまま、飾り気のないズボンの膝の上に手を置く。
「私の名はチェルージュ、家名はパウエル。一族の者からは『朱姫』と通称で呼ばれている」
(ふむ、姫ということはやはりお偉いさんの娘か何かか?)
などと考えていた俺の思考は、次のチェルージュの台詞で一気に吹っ飛んだ。
「我が一族、吸血鬼が住まう土地へ良くお越しになった、旅人よ。客人として歓迎しよう」