第二十八話 火矢
翌日の昼になり、昼食をとると、三人は迷宮へと出かける準備を整えた。
全員が布鎧を下に着込んで、エマは甲殻蟲の鱗状鎧と帯広剣、エリーゼは身体に合う大きさに手直しした鋲皮鎧と短剣、エミリアは布鎧だけを着て、手ぶらという装いだ。魔術師に武器はいらないのだ。
みな、装備の上から、膝ぐらいまでの、ねずみ色のローブを纏っている。
このローブは、余った布を腰のベルトまでたくし上げてあって、縛りを解けば、足元まで布を垂らせるようになっている。
迷宮内でもよおしてしまっても、トイレなどという親切なものはあるわけもなく、その場でするしかないので、外聞を気にするのであれば、ローブは冒険の必需品と言えた。普段は足回りの邪魔にならないようたくし上げておいて、用を足すときは足首までを覆うように隠すためだ。
突然魔物に襲われたときに防具を付けていないというのは死活問題であるので、排泄とは馬鹿にできる話題ではない。現に、ほとんどの鎧は、腰部分だけは着脱が容易なように作られている。
「では、ご主人様、行ってきます」
俺の目から見ても、各自に忘れ物や装備品の漏れはない。
手を振りつつ、彼女たちが行ってしまうと、俺も鋲皮鎧を着込んだ。もちろん、俺も迷宮へと赴くためだ。
今日は恐狼を討伐に行くわけではないので、銀蛇の皮鎧はバンクに預けてあった。貴重な装備であるし、ドミニカ曰く盗みに入りやすいという家には置いておけないからだ。
「うし、行くか」
今日の目標は、矮人及び、豚人の虐殺である。狩れるだけ、狩るつもりだった。
いざというとき、つまりは金に困ったら、銀蛇の皮鎧は売ろうかとも考えていたが、やはりあの防御力は捨てがたい。いつか、エマたち三人の誰かに装備させるかもしれないことを考えると、やはり手元に置いておきたかったし、そうすると、なるべく多くの金を稼いで生活費に当てなければならなかった。
俺の残金は、30,000ゴルドを切っている。昨日、なんだかんだで、出費がかさんだからだ。火矢の魔石三つに、鱗状鎧、布鎧を一式ずつと、短剣、帯広剣、そして戦士ギルドでの四人の講習代金。
ダグラスがある程度まけてくれなかったら、払いきれなかっただろう。
ツケにされるのは心苦しいとは言ってみたものの、今使っている俺の長剣の代金と比べたら、安いもんだと笑い飛ばされた。また剣が必要になったら俺のところに買え、それでいい等と言っていたが、言われなくてもそのつもりである。あの店ほど安くて質のいい装備を扱っている鍛冶屋など、他にはないだろう。
結局のところは、ダグラスの言葉に甘えた形になった。
迷宮のひんやりとした空気に身を浸すと、頭が冴えていくのを感じる。
ここは遊びの場ではない。楽に稼げる場でもない。気合を入れるのはいいことだが、焦って行動が雑になることを許される場ではない。
いつも通りに進めば、一時間に三匹の魔物と出くわせば運がいい方だった。マナ濃度が高い地下へと進むほど、魔物の生活密度は上がる。入り口からそう遠くない、地下六階前後では、こんなものである。
だが、焦って走り回って魔物を探すなどは、言語道断である。
体力を失った状態で戦闘に入れば、思わぬミスを犯す。酸水母の存在に気づかず、食われる可能性だってある。迷宮の死因は、大半が油断と慢心によるものだ。
(慎重に動け、俺)
足音を殺しながら歩いていると、遠くで何かの話し声のようなものが、かすかに聞こえた気がする。
「グギルグィ?」
「グィギ、ギギルグィ」
接近するにつれ、話し声はどんどんと大きくなってくる。忘れもしない、矮人の鳴き声だ。そっと顔を出すと、二匹の矮人が声高に何かを喋りあっていた。
俺は頭の中で彼我の強さをざっと計算した。
(今の俺なら、行ける)
慢心でも、思いあがりでもない。今の俺なら、二体の矮人は、楽に相手取れる。
真っすぐ彼らに向かって走りこんだ。火矢は使わない。酸水母や大ムカデに出会ったときのために、温存しているのだ。
「ギィ!?」
矮人の一体が俺に気づき、次いで二体目も、俺の方へと向き直り、手に持った棍棒を構える。その頃には、俺は彼らの近くまで、走りこんでいた。
(恐狼に比べると、遅すぎるな、こいつら)
未だ完全に身に付いたとは言いがたいが、それでも、型を意識しながら剣を振ることはできたと思う。
「せいッ!」
屋根の構えから繰り出した、右斜め上から振り下ろす一撃は、矮人の肩から腰までを、わずかな肉を残して両断した。
俺は型に固執してその場で武器を構えなおす愚を犯さず、斬りつけた方の矮人を盾にするように、回り込んだ。
俺を迎撃するために棍棒を振りかざした矮人は、相棒の矮人の身体が邪魔で、俺に殴りかかれない。敵の身体を、盾にした形だ。
斬りつけた方の矮人が、倒れ伏す暇も与えなかった。邪魔なその身体を蹴飛ばし、残った矮人に肉薄して、上段からの一刀で斬り伏せた。
例え二体がかりであろうと、矮人相手ならばこんなものである。
しばらく待ってから魔石を回収し、再び俺は歩を進める。
天井に酸水母が張り付いていないか、魔物の発する音がしないかどうか、足音を殺しながら、進む。
俺が宿へと戻ったのは、すっかり日も暮れてからだった。
エマたちが無事に帰ってきているか、帰路は気が気でなかった。もっと早く帰っていれば良かったと後悔するが、稼がなければ、という思考に縛られていて、魔物を狩るべく長居をしてしまったのだ。
自分では冷静でいたつもりでも、どこか頭が回っていなかったのだろう。
気が急く中、足早に宿へと帰り、二階へと続く階段を登っている途中で、大部屋の方向から、エミリアのものらしき笑い声がした。
俺は安堵した。笑えているということは、無事に帰ってこれたのだろう。
「ただいま、帰ったよ。みんなは無事か?」
返事のかわりに、にっこりと笑みを浮かべたエマが、飛びついてくる。
「四時間ほど、迷宮の中にいました。獲物は、大ネズミが四匹と甲殻蟲が一匹だけですが」
「慣らしって意味では、いい滑り出しだったと思うわ。やっぱり聞くのと実際にやるのじゃ大違いね。緊張したわ」
「最初の一時間は、誰がどこに立つかで悩んで、動きもぎこちなかったよね」
エミリアとエリーゼも、弾んだ表情で今日の狩りを語り合う。どうやら、手ごたえはしっかりあったようだ。
「何はともあれ、初陣の成功と、無事に帰ってこれたことを祝おう。みんな、お疲れ様」
「ご主人様も、今日の狩り、お疲れ様でした」
頭を下げるエリーゼを横目に、俺は自分の鋲皮鎧と長剣をベッドの脇に置く。
ふと、ふわりと血臭が香った。洗い流したとはいえ、俺の鋲皮鎧が臭いの発生源でもおかしくはないのだが、今日の俺は手傷を受けていないので、真新しい血の臭いがするのはおかしい。長剣の血糊は、毎回、丁寧に拭っているのだ。
無意識にすんすんと鼻をうごめかすと、臭いの発生源らしきものがわかった。エマの両手である。
「お、エマも魔物を斬ったのか」
「うん。どうしてわかったの?」
「手から血の臭いがしたからな」
俺が何気なく言うと、エマは衝撃を受けた様子で、よろよろと二、三歩後ずさった。擬音で現すなら、がびーん、といった表情である。
「あらってくる」
とぼとぼと部屋を出ていこうとしたエマを呼び止める。思わず苦笑が漏れた。
「こらこら。戦士なら仕方ないことだし、魔物を倒して付く血の臭いは勲章みたいなもんだぞ?」
やり取りを見ていたエミリアが、ため息をつく。
「前から思ってたんだけど、ジルって繊細な心配りないわね」
「俺!?」
「年頃の女の子が、手から血が臭うなんて言われたらショックよ。ちょっと考えればわかるでしょう?」
「む、むしろ冒険者として褒めたつもりだったんだが」
「エマの様子を見てそう思えるなら大したものだわ」
横目でちらりとエマを見ると、ベッドに突っ伏してどんよりした空気を漂わせている。
「理不尽な。俺だって、冒険帰りは血臭させてるだろうに」
「ジルはいいのよ、男だから。これだから女心がわからない男は嫌なのよ」
馬鹿に付ける薬はないわね、と手をひらひらさせるエミリアであった。
解せぬ。
「そういや、今日の料理はちょいと辛いんだ。緋胡椒を使った鶏肉のごった煮なんだけどね。娘っ子たちで、辛いのがダメな子はいるかい?」
気持ちを切り替えて、晩飯を受け取りに階下へと赴くと、店の前で呼び込みをしていたドミニカから声をかけられた。常識的な範囲内の辛さであれば俺は平気だが、エマたちとなるとどうだろう。
「ちょっと聞いてくる」
部屋にとんぼ帰りして、エマたちに晩飯について説明する。
「辛いものですか? 私は好きですが」
「エマは、からいもの、たべたことない」
「私は苦手だったけど、まだ商家にいるときで、五、六歳頃の話だったし、今なら平気だと思うわ」
三者三様の反応である。
「食べられないようだったら、別の料理頼むことにしようか。じゃあ、辛いやつで貰ってくる」
ドミニカに、試してみるらしい、と伝えると、磊落に笑って、木のトレイに乗った器を差し出してきた。
「おうっふ」
器から立ち上る湯気が、すでに目に痛い。器の中身は、クリーム色のシチュー状のものなのに、やわらかな外見とは裏腹の、この目の痛さは何としたことだろう。
「食べ終わったら、舌に優しいデザート出してやるから、また下に来な。いま渡すと溶けちまうからね」
頷いて、四人分のトレイを持って、二階の自室、大部屋へと運ぶ。冒険で筋力が上がっているので、これぐらいは容易いものである。
食卓として使っている大机にトレイを置いたときの反応も、三者三様であった。
「匂いが部屋に篭らないか心配ですね」
などと言いつつ、目を輝かせるエリーゼ。
「だだ大丈夫よ、辛いものぐらい食べられるわ」
余裕そうに嘯くエミリアの目尻には、湯気が沁みたのかすでに涙が浮かんでいる。
「むう」
エマに至っては、姿勢を正し、鋭い目で料理を睨んでいる。まるで、これから強敵と戦うかのような佇まいだ。
エマたちは、三人同時に、料理を匙ですくって口に運ぶ。その反応もまた、様々であった。
「あっ」という、ちょっと嬉しそうな声を出したのはエリーゼである。エミリアは声に鳴らない悲鳴を上げて悶絶し、エマは黙々と二口目を口に運んだ。
俺も、匙を口に運んでみる。まず、スープを舌に乗せると、クリームのまろやかな風味と、鶏肉の旨味、そして一緒に煮込まれた野菜の滋味が良い具合に溶け合っていて――わずかに遅れて、刺激的な香辛料の風味と、鋭い辛さが脳天を貫いた。
「おう、っく」
思わず声を出してしまう。言葉にするのならば、これは辛さによる奇襲である。
意外と辛くない、まろやかな味と思わせておいて、隠れた短剣のような鋭い辛みが襲ってくるのだ。まるで火矢のように、熱く鋭い辛さ。
「んふふふ」
普段は見せないような、恍惚とした笑顔で、ぱくぱくと料理を口に運んでいるのは、エリーゼである。よほど気に入ったのか、普段よりも食事のペースが早く、口に匙を運んでは、その都度襲ってくる辛さに、身悶えしながら喜んでいる。
「いいな、これ」
俺は紐をゆるめて、胸元を少しはだける。すでに汗が噴出していた。
気合を入れて、もう一口を食べると、強い香りが鼻から抜け、舌の根元と喉にきりりとした刺激が広がる。
「これが緋胡椒の味か」
ただ辛いだけではない。すっきりとした、雑味のない辛さが、食欲をいや増す。まろやかな乳精とよく合っていて、独特の香りが後を引く。
「んひいぃぃ」
年頃の少女が出してはいけない謎の奇声を上げ、今もベッドに逃げ込んで悶えているのはエミリアであった。
「エミリア、無理ならエリーゼに食ってもらえ。別の料理貰ってきてやるから」
「そうしましょう。私、これ好きだわ」
返事を待たず、エリーゼはエミリアの残した皿をすすっと手元に引き寄せる。
純白のカバーを巻いた枕に腕を回し、絞め殺さんばかりの勢いで抱きついているエミリアは、真っ赤な顔で涙を浮かべつつ、こくこくと頷いた。
「エマもどうする? 何かもらってくるか?」
一応聞いてはみたが、エマはまんざらでもなさそうで、紅潮した顔のまま、ふるふると首を横に振った。
「わるくない」
俺はそこそこ辛いものは平気だし、好きでもあったが、今日の料理はかなり強い辛さであったと思う。エマもエリーゼも、人並み以上に辛いものは好きなようだ。
階下に降りると、ドミニカが俺の姿を認めて笑った。
「やっぱりダメだったかい?」
「一人だけな。別の料理、頼む。あの様子だと、量は少な目でいいと思うから」
「わかったよ、何にしようかね」
ドミニカが考えている間に、亭主の方がカウンターの中から、木の椀に盛られた料理をすっと差し出してきた。
「ああ、あんた、ありがとうね。ローストビーフのサラダか、これなら確かに食べやすいし、野菜も採れるね」
受け取った椀を覗き込むと、チシャ葉を底に敷き、潰した芋と赤みの残った肉、最後にふりかけられた香草の彩りが目に優しい。
「あと五分ぐらいしたら、私がデザート作りに上に行くからね、待っておきな」
「その場で作るのか? まあ了解だが」
部屋に戻ってエミリアに差し出すと、心底ほっとした様子で、ドレッシングのかかったチシャ葉を口に運ぶ。未だに辛いようで、時おり水を飲んでは、深く息を吐いた。
「はいよ、お待ちどうさん。邪魔するよ」
エミリアがサラダを半分以上食べ終えたあたりで、ノックとともにドミニカが部屋に入ってくる。手には、金属製のボウルと泡立て器、そしていくつかの椀を持っていた。
「なんだこりゃ。乳精か?」
ボウルの中には、牛乳状のとろりとした液体が張られている。
「氷菓ってんだ。辛いものを食べた後は、これに限る」
ボウルを倒さないように、右手で器用に泡だて器を使いながら、ドミニカはうっすらと輝く左手をボウルの中に翳す。氷属性の魔法を使ったようで、ひやりとした空気が近くで見ている俺の方にも流れてきた。
「魔法で冷やしてるのか」
「そうさ。まあ、見ておきな」
そのまましゃかしゃかと泡だて器を回すこと二、三分で、ボウルの中身は、液体からどろどろしたものに変わっていた。泡だて器を引き抜き、氷菓の垂れ落ち方で固さを調べたあと、ドミニカは納得した表情で、椀の中に一杯ずつそれを盛っていく。
横から匙を突き立てられた、椀一杯に満たないぐらいの氷菓が、俺たち一人一人の前に並べられた。
「じゃあね。食べ終わった食器は、いつも通り、補洗機やらがある流し場の方に置いといてくれ」
ドミニカが去るやいなや、みな興味津々と言った表情で、器の中身を覗き込む。
「みんな、食べたことなかったんです、氷菓。街の露店で、たまに売っているところを見かけはしたのですが」
「俺もないなあ。どんな味がするのやら。甘そうではあるが」
「そんなことより、早く食べましょ。きっと、溶ける前に食べるものよ」
辛さの記憶はどこへやら、エミリアはご機嫌で椀に手をかける。
みな、匙ですくった氷菓を口に運ぶと、やや驚いた表情の後で、至福といった体で目元が緩む。俺も試しに口に入れると、氷を食べているような冷たさと、まろやかな甘みが広がり、それが辛さで荒れた舌には、これ以上ないほどに優しい。
「うまいなこれ!」
「辛いものの後でしたから、余計に美味しいですね」
エマとエミリアは、ひょいぱくと無言で氷菓を食い続けている。嬉しそうな表情であった。よほど気に入ったようだ。
「明日も、迷宮には潜るのか?」
そろそろ、寝る時間である。俺が水場に歯みがきに行っている間に、みな、寝巻きに着替えていた。
「はい。お昼を食べたらすぐに行こうかと」
「もう止めないけど、勉強も大事だから、しっかりな」
「もちろんです。冒険の予習にもなりますから、あの教材はいいものです」
そういえば、そうだった。魔物シリーズ図鑑で文字を学んでいるなら、魔物の生態にも詳しくなろうというものだ。
「ん?」
くいくいと、俺の袖を引っ張るエマである。
「手、あらった。入っていってもいい?」
俺のベッドに潜りこんできてもいいか、と聞いているのである。手を洗ってきたということは、晩飯前に俺に言われた、血臭がするという言葉を、未だに気にしていたのだろうか。
「元からあまりいいとは思っていなかったが、臭いは気にしてないから大丈夫だ。
ん、いい匂いだぞ」
髪の毛の匂いを嗅いでやり、頭を撫でる。嬉しそうに、にへっ、と笑って、エマは俺のベッドにもぐりこんだ。布団を少しめくりあげて、空いたスペースをぺしぺしと叩いている。早く来いと催促しているのだ。
「なんか、色々と逆のような気がしないでもないが。みんな、おやすみ」
おやすみなさい、という言葉とともに、エリーゼが猫目灯の明かりを消すと、室内には暗闇が訪れる。エマは俺の胸元に抱きつくと、すぐに軽やかな寝息を立て始めた。
「やっぱり、この部屋ちょっと辛い匂いするわ」
渋い声で呟くエミリアに、俺とエリーゼの押し殺した笑いが重なる。間もなく、俺も瞼が重くなってきた。




