第十七話 遠征 その4
来ることがわかっていても、避けることはおろか、反応すらできない速度だった。賊の頭目は、上段に構えた戦斧を、あっさりと振り下ろした。
魔鋼の戦斧の一撃は、やすやすと皮鎧を裂き、俺の左肩から右腰に至るまでを、内臓ごとぶった斬った。致命傷である。
ぽっかりと空いた身体の空洞が空気と触れる寒々とした感触と、取り返しの付かない身体の内側が失われた脱力感と、開かれた裂け目から熱いものが飛び出していく喪失感と、傷口から産まれた灼熱が、急速に冷えていこうとするのを感じる。
前蹴りで突き放されると、俺は糸を失った人形のように、後ろに倒れこんだ。
口から何かがあふれ出てきているのは、血だろうか?
「若いの!」
薄れいく視界の中で、俺に駆け寄ろうとするシグルドが見えたが――『槍の』フィンクスの刺突を受けて、吹き飛ばされた。
横っ腹に、槍をもらったらしい。なおも起き上がろうとするシグルドだが、腹に戦斧の追撃をもらい、仰向けに倒れこんだ。黒鋼製の板金鎧が、したたかに切り裂かれている。
「おいおいウキョウ、鎧を傷つけたら戦利品が減るだろ?」
「馬車に物資が積んであった。一台は本物だ。今あいつらを張り付かせてる」
「お、そりゃ美味いな。第二陣が来る前にとっとと剣とか鎧剥ごうぜ」
ウキョウ、と呼ばれたのが、戦斧持ちの賊の名前らしい。
話し方からして、彼らの間に身分の上下はなさそうだ。同格だからこそ、ウキョウも高みの見物を決め込まずに助けに来たのだろうか。
口惜しかった。何が悔しいといえば、ウキョウの思考を読みきれなかったことだ。いや、読みきろうとしたことだ。
自分を何よりも大事にする男だと、決めてかかっていた。常に退路を確保し、部下の命よりも自分が助かることを優先する、俺と似たような思考の持ち主。
じゃあ、俺が危険なこの戦場に赴いたわけは何だ?
命を危険に晒してでも、助けたい少女たちがいたからだ。
俺にとってのエマたちが、ウキョウにとってのフィンクスだったのだろう。
ウキョウが、自分の命を何より大事にする男だと決めてかかったのが、敗因だ。あいつにだって、そういうものの一つや二つは、あったのだ。俺にあったように。
俺の脳裏に、エマ、エリーゼ、エミリア、三人の顔が次々に浮かんでは消える。
次いで、ディノ青年、キリヒト、鍛冶屋のダグラス、宿屋のドミニカ、受付嬢のミリアムまで。これが、死の間際に見えるという走馬灯なのだろうか?
俺はどうやらここで死ぬらしい。
結局、少女たちを奴隷という枷から解放することはできなかった。
「じゃあな、シグルド。楽しかったぜ」
フィンクスは、槍の穂先でシグルドの面頬を押し上げ、あらわになった喉元に切っ先を突きつける。抵抗する体力も尽きているのか、シグルドは激しく呼吸するのみで、取り落とした剣を拾う素振りも見せなかった。
ここに来て、俺はおかしい、と感じた。
(なぜ俺は死んでいない?)
どう見ても、戦斧の一撃は即死するほどの傷だったはずだ。
俺はシグルドから、自分の傷口へと視線を移して――驚愕した。
切り裂かれた身体から、まったく血が出ていない。確かに内臓にまで達した、両断されかねないほどの深手だったはずだ。
それだけではなく、世界のすべてが、ゆっくり見える。
フィンクスが引いた槍を、今まさにシグルドに突き入れようとしている動作も、その様子を見守ることなく、馬車の方へと向かうウキョウの歩みも、木の葉が風にゆられて舞い踊る様も、何もかもがゆっくりに見える。
俺の傷口からは、ぼこぼこと泡が出てきていた。世界のすべてが緩慢な動作をする中で、俺の傷口だけが、等速以上の勢いで治っている。
そして、自分に一体何が起こっているかもわからず混乱する俺の瞳から、濁流のような何かがあふれ出してきていた。目、眼だ。俺の瞳から、半固形のような、どろりと濃厚なマナが、あふれ出している。
目に見えない、無色透明なマナの奔流は、しかし確かに目から流れ出続け、俺の皮鎧や、地面、あるいは空気中に満ちていく。それらは大地に沁みこむこともなく、やがて黒く変色していき、一つ所へ集まったかと思うと、漆黒の影のようなものへと変わっていった。
(ああ、俺はこの漆黒をどこかで見たことがある――)
人の寄り付かない、森をいくつも越えた先の館。
豪奢な調度品、炎帝茶の香り――。
足を止めたウキョウや、フィンクス、シグルドまでもが驚愕の目を見開いて眺めている中、漆黒の影は人の形へと変わっていく。革靴に白のフレアパンツ、無骨な革のベルトにねずみ色のタンクトップ、そして漆黒のマント、白く透き通るような肌、そして葡萄酒色の赤い髪。
「じゃーん」
間の抜けた台詞と共に、両手でピースの形をしてみせるのは――吸血鬼の館の主、MPの一割を吸われ続けるという加護を俺に与えた張本人、チェルージュ・パウエルだった。
チェルージュの胴体を、戦斧が素通りする。気配を殺して斬りかかったはずのウキョウが、明らかに戸惑うのが見て取れた。
「ウキョウに、フィンクスだっけ。君たちの動きは、見ていて面白かったよ。本当は眷属の端に加えてあげたいけど――」
ぱしぱしと、俺がかぶっている、卵型の兜を叩きながら、にこやかに微笑む。
「この子には、君たちの首がいるんだ。ばいばい」
二人は、後ろに跳んで武器を構えなおすが――細い、一筋のつむじ風のようなものが、ウキョウとフィンクス、二人の首をあっさりと刈り飛ばした。
風属性の魔法をどう操ったのかはわからないが、ウキョウとフィンクスの首は、ころころと地面を転がって俺の前で止まった。
首を失った二人の死体は、斬り口から血を激しく吹き出させながら、前のめりに倒れこんだ。
「んん。いいよね、これ」
血しぶきを全身に浴びたいとばかりに、両手を広げて、くるくると回る。
「その感性はないわ」
俺は、寝転がったまま感想を呟く。起き上がろうとしたが、かろうじて死なない程度の傷しか治っていないらしく、どこかを動かすたびに身体の内側にヒビが入るような感覚がある。
「さて、本当は長々と話し込んでいたいんだけれど、残念なことにあまり時間がないんだ。私は、ジルの瞳に溜まったマナを使って作られた、いわば分身のようなものでね」
「俺の瞳――?」
俺は、チェルージュが現れる直前のことを思い出す。俺の瞳から、どろどろとした濃いマナが溢れ出ていって、それはやがてチェルージュの姿を成したのだ。
「俺は、助かったのか?」
「そう、私が助けたの」
再度、両手でピースを作るチェルージュである。
「そんなわけで、もう少しで私は消えてしまう。ジルが強くなれば、瞳に溜まるマナも増えるから、量次第では私の本体がこっちに来れるようになるかもね」
そよ風が、俺の頬を撫でる。俺は、生き残ったのか?
「未だに、実感がないよ。ウキョウも、フィンクスにも俺は手も足も出なかった」
「直前までジルの瞳を通して見ていたよ。彼らはいい人間だった。強くなるために努力し、知恵を働かせて同族すべてを敵に回して戦っていた。眷属にしたかったっていうのは嘘じゃないよ。彼らは優れていた」
「あの館にいる時のお前、どれだけ強いんだ、チェルージュ」
ウキョウも、フィンクスも、ベテラン冒険者と呼べるほどの実力者だったはずである。それが、身動き一つせずに、首を飛ばされた。
「だから言ったでしょ、私は強いって」
えへん、と慎ましい胸を張るチェルージュである。
「そんなことより、あっさり死にすぎだよジル。無茶しなくても、言ってくれれば魔石ぐらい届けたのに」
マイペースに喋るチェルージュを前にすると、色んな不条理を問い正す気力も、
様々な疑問を聞く余力も、たちまち消えていってしまう。
「来てくれるかどうかわからなかったんだ」
「人間のそういうところが、吸血鬼の私にはよくわからない。より強大な力にすがれるなら、とっとと助けを求めればいいのに。私が見ていることはわかってたんでしょう?」
「見てるかもしれないとは思ってたけど、見てないかもしれないとも思ってた」
「よくわからないよ。でも、エマちゃんだっけ? 彼女たちを買うって決めた、不合理としか思えないジルの決断を見ていたら、私にも半分流れている人間としての母さんの血が、人間とはそういう不完全な存在で、だからこそ愛おしいって訴えかけてくるんだ。そこが見ていて飽きないんだよね」
何を納得したのかはわからないが、うんうんとチェルージュは頷いている。
「馬車のあたりにいる盗賊はやっといてあげるよ、またね」
「ああ、またな――って、ひょっとして俺が死ぬような傷を負ったら、チェルージュがまた来るのか?」
「瞳にマナが溜まってさえいれば、そうだね。どうだい? 死なない身体になった気分は。そう、まるで吸血鬼みたいに!」
天空に向けて、両手を広げるチェルージュである。
全身から躍動感が溢れ出ていて、傍から見ている分にはとても嬉しそうだ。
「悪くはないが、良くもないな。一回死ねば終わりっていう、生物の宿命を無視してる。なんだかズルしてるみたいだ」
一度、俺は死んでいたはずだ。もちろん、助けられたことは素直に嬉しいが、何となく釈然としない気持ちも残っている。
「人間の言葉を借りると、自分の力だけで生きていける奴なんていない、でしょ? 私みたいなすごいのに気に入られて運がいいって考えなきゃ」
「本人から言われると複雑な気分だが。まあ、なんだ。助かった。ありがとうな」
「うん、それでいいんだよ。じゃあまたね、私に会いたくなったからってわざと死なないようにね?」
そこだけは妖艶に、片目をつむったチェルージュの全身がうっすらとぼやけ始める。やがて空気に溶けるように、彼女の姿は影も形も消えてなくなっていった。
姿が完全に見えなくなる寸前に、チェルージュはぱちん、と指を鳴らした。
馬車の方で絶叫があがったかと思うと、ややあってから空を何かが飛んできた。
「おい、まさか」
まさかであった。残り七人の賊、そのすべての首だけが飛んできて、ジルが座っている地面の目の前に、まるで薪を積むようにどすどすと転がった。どうやったのか、首は散らばることなく、きれいにひとまとまりになっている。
どっと疲れが襲ってきた。
はあ、と溜息をつくと、面頬をあげたシグルドと目が合った。何とも言えない表情をしている。
「加護持ちだったのか、若いの」
「こんな加護だったなんて知らなかったんだ。騒がれるのも好きじゃないんで、できれば内密にしといてもらえると」
「それは、命の恩人の言うことだ、約束しよう」
立ち上がろうとするも、内臓が軋んだ。何かが破れたような感触とともに、喉元に血がこみ上げてきて、少し吐いた。
「あだだだだ」
ここで死んだら喜劇である。ベルトのポーチから低級回復薬の小瓶を取り出して、急いで飲み干す。血の味がした。
「というか、この首、全部運ばないといけないのか」
目の前に積み上げられた、九人分の生首を見ながら嘆息する。何が起きたかわからないまま死んだのか、嬉しそうに舌を出したままの奴もいて、何だか申し訳ない気分になる。
「シグルド、分配はどうする? 多分、生き残ってるの俺ら二人だけだろう。金が入用な事情があるんで、賞金は折半にしてくれると助かるんだが」
「駆け出しの狩った獲物をくすねるほど腐っとらん。参加報酬も、二人しか残ってなければいい額であろう。俺はそれでいい、残りは全部持っていけ」
「マジか、シグルドは太っ腹だな。フィンクスの首だけでも記念に持ってくか? 長いこと戦ってただろ。鎧の修繕費用もかかるんじゃないか?」
戦斧の一撃で、ばっさりと横に斬り割られた魔鋼の板金鎧を見ながら俺が提案すると、ぐびりと回復薬を飲みながらシグルドは首を横に振った。
「いらんよ、金が目当てで参加したわけでもなし、金に困ってるわけでもなし。雑魚の端金なんぞ貰ってもしょうがない、賞金首の頭割り報酬もいらん、全部持ってけ。駆け出しのくせに遠慮なんざ二十年早い」
「そっか。有難く貰うよ。借金返すのに必死でな」
すべての首の兜を脱がし、髪を掴んで持ち上げる。思いの他、重かった。
馬車まで首を運ぶと、三人の御者は一まとめにして殺されていた。賊の下っ端がやったのだろうか。真ん中の馬車を覗くと、商人は生きていて、首のない賊の死体を目の前にして、震えていた。
「馬は生きておるが、御者が死んだか。もう少し待てば、念話の指輪で連絡した俺の仲間が来る。そいつらが来てから、ひとまずは帰るということでいいな?」
俺に異存はない。商人も、怯えるようにこくこくと頷いた。
青空を見ながら、一仕事終えた解放感に浸ることしばし。
「シグルド!」
二台の馬車が到着し、戦闘態勢の冒険者が、続々と飛び出してきた。
フィンクス達が使っていたのと同じ銀色の皮鎧を装備した、マントととんがり帽子の魔術師らしき女性が、座り込んでいた俺たちに駆け寄ってくる。
「おう、マーサ。早かったな。見ての通り、全部終わっておるよ」
「一人で行くなんて無茶をして。みんな心配したのよ!?」
「その話は後にしよう。御者が全滅してな、帰ろうにも帰れなかったところだ。それと、この若者に命を助けられた。汚れ仕事ですまんが、賊の装備を剥いでこいつにくれてやってくれ。ウキョウもフィンクスも、こいつが首を取った。やつら、銀蛇の皮鎧を着ていたからな、防具も金になるであろう」
「嘘でしょ!?」
鼻尻や目元に、年齢を感じさせるわずかな皺を寄せた魔法使いの女性は、俺の装備を見て驚愕する。それもそのはずで、ただの皮鎧を着た俺は、駆け出しの冒険者にしか見えないだろう。
命の恩人だと言ったであろう、失礼だぞ、などとシグルドが苦い顔で言う。
「ごめんなさい、取り乱したわ。私はマーサ・フェルッカ。ギルド『アウェイクム』のマスターよ」
「ジル・パウエルだ。シグルドのおっちゃんには、ずいぶん助けてもらった」
「ジルというのか、お前さん。ジルと約束したんでな、詳しくは言えんがこいつは加護持ちだ。ウキョウとフィンクス、それと半数以上の賊はこいつが仕留めた。目立ちたくないらしいので、ギルド内で口留めしてくれ」
「まさか――でもあなたが言うなら本当なんでしょうね。どれほど強大な加護なのか興味は尽きないけれど、聞くのは野暮かしら。どんな魔物から貰ったのかは聞いてもいい?」
返事がわりに、俺は肩口の血痕を触って、血の紋章を起動させた。
これを見れば、朱姫の加護という一文が見えるだろう――
あれ?
【名前】ジル・パウエル
【年齢】16
【所属ギルド】なし
【犯罪歴】0件
【未済犯罪】0件
『始祖吸血鬼の加護』
俺も、覗き込んでいる二人も、目が点になった。




