危険なシナリオ
「兵藤警部」
警視総監が呼んだ。
「ブラッディウィーク事件でリーシャを逮捕したのは君だったな。澤田警視も君のことをずいぶんと買っている。君の意見を聞いてみたい。この女は、やはり盾の会と関わりが……?」
「私はそう推察しています。ワームのプログラムは1年前まで盾の会が使っていたものと酷似しています。他では見られないアルゴリズムを組んでいます。さらに容疑者として小林という盾の会の重要人物を尾行していましたが……、捜査官が死体になって発見されています。間違いないと思います」
首相も長官も腕を組んで考え始めた。総監は少し低く唸ってから訊ねた。
「本当にその小林という男は今回の件と関わりあるのかね?」
「総監は、そうではないと?」
「奴らは国内一過激な右翼だ。サイバーテロとは関係なく、ただ単に近辺を探っていた相手が目障りだったから襲ったのかもしれん。捜査官が殺されたからといって、それが犯人だという決め手にはならんよ。誤って虎の尾を踏んだのかも……。だとすると重要な捜査ミスだったことにならないかね?」
そうか……。
兵藤はそこで、総監が何を言わんとしているのか理解した。これは捜査官が殺された責任の追求だ。もし捜査ミスで警官が死んだのであれば、今回の事件で指揮をとっていた総監は引責辞任しなければならなくなるだろう。そうならないための予防線を今から張っておこうという魂胆か。
そういえば一年前のブラッディウィーク事件では、長官と総監の両方が責任を取って辞表を出していたな。今度は自分の番か、と気になっても仕方ないだろう。
小林のことを言ったのは迂闊だったか……。これ以上下手なことを言ったら、全ての責任を澤田か自分に押し付けてくるだろう。
「兵藤警部、状況からして盾の会が限りなくクロに近いグレーだというのはわかった。だが状況証拠だけで決めつけるのは危険だ。もし違っていた場合、捜査を立て直している時間はないのだ。その間に旅客機を落とされることだって考えられる。君はその責任を取れるというのかね? そもそもその前に、盾の会が怪しいという思い込みで、捜査官の尊い命を失わせるようなことをしたのはどういうことだ?」
やっぱりそうか……。
これ以上、盾の会で捜査すべきだと熱弁を振るっても泥沼にはまるだけだろう。別の切り口から話すか……。
こんなに事件が切迫している時でも保身とは……。テロリストと戦う前に、身内と戦わなければならないのか……。
「わかりました、盾の会うんぬんは抜きにしてこの女についての考えを述べます」
「警部、まだ質問は終わって……」
「まあ、待ってください、総監」
総監の追及を止めたのは総理大臣の安堂だった。
「私はまず、兵藤警部の意見を聞きたいのですが。そのために呼んだのでしょう? 糾弾するのはそのあとにしてください」
「…………わかりました」
総監は兵藤に話せ、と目配せした。
「では、サイバーテロの犯人を自称するこの女について述べます。まず、世間に公表されていない事件に対しこれだけ全貌に詳しいことからテロの主犯である、もしくは主犯の近くにいる人物で間違いありません。そして、惚けた口調をしていますが、クラッキングで機密情報を入手した後の行動も迅速で無駄がありません。残念ながら、警視庁は今のところ後手に回っています。きっと相当綿密に計画を立ててきたのでしょう。
相手は国外の有名大学、もしくは国内の国立大学や有名私立を首席で卒業するかそれに準じる知識と教養を持ち、相手の心理を読み操る技術を持っています。人の心を誘導するのが上手いのなら、少なからずカリスマ性もあるでしょう。
同じクラッカーでも、対人恐怖症で友達をつくるのが苦手だった引きこもりのリーシャとは大違いです。
そして国外の複数のテロリストと通じていることから、組織だった犯行であることが伺えます。単独犯ではないはずです」
「多数の共犯者が後ろに控えているということですか?」
「はい。ただこの女の本当に恐ろしいところは後ろに控えている共犯者の人数でも、ワームの性能でもありません。本当に恐ろしいのは話術です。話の主導権を離さず、巧みに誘導しているのがわかります。返答のタイムリミットが18時ということですが、この女との話し合いの末に決まったのですか?」
安堂が頷いた。
「相手の思う壺です。ナンセンスです」
「兵藤警部、失礼だぞ」
長官が声を荒げた。
「交渉人の指示の下、これだけの時間を稼ぐことができたというのに……。それが相手の思う壺とはどういうことだ。警察庁のネゴシエータが逆に誘導されているとでもいうのか?」
「確かに、一見時間が稼げて交渉に成功したように見えます。……が、これではただ時間を延ばしただけ、問題を先送りしただけです」
「な……」
「交渉でもっとも重要なことは、相手との信頼関係です。例え交渉相手がテロリストであっても、決めごとは簡単に破れません。期限を設けたのなら、その時に必ず返答をしなくてはならなくなります。もういちど時間を引き延ばしたり、約束を破れば、信頼関係は崩れます。相手に攻撃や報復をさせる口実を与えてしまうことにもなります。こちらの要求を受け入れることも二度とないでしょう。時間設定をしたことは、自ら首を絞めたようなものです」
「……」
「恐らく長官や総監は、このタイムリミットまでに犯人の居場所を特定し、確保しようという考えなのでしょうが……、果たして現実的にそれは可能でしょうか?」
「何を悠長なことを言っているんだ。それをやるのが君の仕事だろう!」
「お言葉ですが長官、相手が海外に居る場合でも……ですか?」
「な……に? 海外に? バカな、ウィルスの発信源は都内のサーバーだぞ」
「十中八九、カムフラージュです。警視庁のファイアーウォールを突破した相手です。ログの偽装ができないはずがありません」
「例えそうだとしても、海外にいるという根拠は? 何を根拠に……」
「私は、犯人が必ず海外にいるとは言っていません。可能性の問題を言ったのです」
「可能性?」
「クラッキングだけで先進国を相手にこれだけ手玉に取れるのなら、最早その国の官憲が手を出せない場所にいた方が安全だということです。少なくとも、私が犯人ならばそうします」
「む……」
「それから、クラッカーの目的が愉快犯や報復などではなく、リーシャの解放のみが本命なら、日本だけを標的にすればいいわけです。しかし他国の政府もクラッキングを受けているということは、同じような要求を受けている国が他にあってもおかしくありません」
兵藤の意見に、安堂たちの顔色が変わった。
「そして、複数の国家を相手に囚人の解放や身代金、あるいは何らかの交渉をしているのなら、ますます日本に居る必要性は低くなります」
「…………」
しばらくの沈黙の後、安堂が官房長官を呼んだ。
「内閣情報調査室と外務省の全てのルートを使って、同じようにサイバーテロにあった国に、犯人を名乗る者が接触してきていないか、至急調べてください」
「ついでに……」
と兵藤が口を挟んだ。
「リーシャと関わりのある人物を収監している国を当たると効率的です。あと、盾の会の関係者も……」
官房長官が会議室を出て行った。それを見送った安堂が含み笑いを見せた。
「盾の会はひとまず置いておくと言っていましたが、兵藤さんはずいぶんご執心ですね」
「…………可能性の問題です。傭兵派遣会社である盾の会の拠点は世界各地にあります。同時に世界各国の刑務所に、彼らに関わりのある服役囚がいますから」
「なるほど。……では、犯人が海外から攻撃を仕掛けてきていると仮定するならば、我々が取るべき対抗手段はどうなりますか、兵藤さん?」
「は、時間内に犯人逮捕が無理であるならば、手段はひとつしかありません。クラッキングに対抗しうるファイアーウォールを構築することです。コンピュータウイルス・カスケードに対抗できるプログラマーは、私が知る限り一人しかいません」
「リーシャ・グリフィズですか……」
「はい。彼女自身が取引の的にされていることは隠し、我々に協力するよう司法取引をするのです」
「……今日、あなたが来た本題になるわけですね」
「は……、しかし、ここまで事態が切迫した状況では、その策ももう手遅れかもしれません。今からリーシャのところへ面会に行き、説得して連れてくるには時間が足りません。出来たとしても、残された時間で新たなファイアーウォールを構築するのは彼女でも難しいはずです。もう一日早く決断していれば、可能だった防衛策です」
総監が顔をしかめて嘆息した。リーシャとの司法取引に一番反対していたのは彼だった。
「そしてこの女もそのことを見透かしているはずです」
「なぜそう言えるのですか?」
「リーシャの存在を気にかけているのなら、彼女がこちら側につくことも犯人は想定に入れていたはずです。しかし、防衛省や警視庁のホームページの復旧があまり進んでいないことから、リーシャが警察に協力していないと踏んだのでしょう。アクセスすればすぐにわかることです。だからこちらの時間稼ぎにもあえて乗ってきたのだと推察できます。リーシャの能力でサーバーが復旧できるまでの時間を逆算し、例え今すぐ彼女が協力を始めても、計画に支障がないと……」
「選択肢がまたひとつ削られましたか。残るは……犯人の要求を呑む以外ないわけですね」
「……残念ながら」
「しかし兵藤さん、総監が先ほど私に提案したんですがね。最悪の場合、リーシャ・グリフィズを解放することになったら、むしろ犯人を逮捕できる最大のチャンスが訪れると……。もし彼女が解放されたのなら、犯人は必ず彼女に接触しに現れるだろう。そこを狙えば……と」
それは誘拐事件などでの常套手段だった。犯人が身代金を受け取るには、必ず姿を現さなれなければならない。そこを逮捕するのだ。
だが……。
「確かに、海外への逃亡を手助けする仲間が接触してくるかもしれません。しかしクラッカー自身が姿を現すことはないでしょう。そして手出しをすれば、再びカスケードの攻撃を受けることになります。最悪、犯人から二度と連絡が来なくなることもありえます」
長官も総監も黙っていた。兵藤の言う通りだったからだ。リーシャを解放しても、現れるのは恐らく下っ端で、主犯格やクラッカーは安全な場所に隠れている公算が大きい。
例え下っ端を逮捕して尋問しても、主犯のいる場所は知らないだろう。知っていたとしても、兵藤の推理どおり海外にいたら手出しは出来ない。
「我々の選択肢は最早、黙って見ているしかないというわけですか……」
「いえ、それだけでは終わりません」
「まだ何かあるというのか?」
長官が頭を振った。
「リーシャを国外に逃亡させるため、新たな要求をしてくることが考えられます」
十分ありえることだった。
「……それをすべて受け入れていたら、日本はテロに屈したと諸外国から叩かれるぞ。70年に起きたよど号ハイジャック事件のように……」
そして警察庁長官と警視総監のクビが飛ぶだろう。いや、安堂も内閣総辞職をするか、解散選挙に追い込まれるかもしれない。
「さきほども言いましたが、この女の本当に恐ろしいのはクラッキングの技術ではなく、綿密にたてられたテロ計画と話術です」
兵藤は忌憚なく言った。
「カスケードという強力なカードがあるのなら、制限時間など設けずもっと脅してきてもいいのに、あえて一歩引くことでより多くのものをこちらから引き出そうとしています。ふざけた喋り方も、相手の冷静さや判断力を失わせるための手段に思えてきます。
ここまで我々は、交渉しているつもりで、徐々に選択肢を削られ、犯人のシナリオ通りに動いています。この後この女がどんな要求をしてくるのか、どうやってリーシャを海外逃亡させるのか、見当もつきません。さらに相手の人数も、異能力者の有無もわかりません。
このまま交渉を続けても、情報や証拠物から追跡をしても、きっと徒労に終わるでしょう。また後手に回り、テロリストのシナリオ通りに進む可能性が高いです」
それは警察として、国家としての敗北を意味していた。
「しかし……」
と兵藤は続けた。
「抜け出せないシナリオでも、イレギュラーを加えることはできます」
「イレギュラー……?」
「いわゆるシナリオの脚色です。テロリストの思惑から外れた、テロリストも予想していなかったトラブルを起こすのです。それは犯人のシナリオとのズレを生じさせ、時間が進むにつれ大きくなり、やがて計画の破たんに繋がるはずです」
「トラブル? 具体的にはどうするつもりだ?」
「リーシャを警察主導で解放するのではなく、彼女自らの意思で脱獄させます」