危険な任務
コキュートスに戻ってきた兵藤は受付の刑務官に訊いた。
「トイレ借りれませんか?」
「は?」
「いや、向こう岸に着くまで間に合いそうもないんですよ」
貸せるが刑務官が一人同行すると言った。
「規則ですので」
ということだ。
受付のすぐ先には金属探知機のゲートと、面会者の荷物を預かるテーブルがある。外来者用のトイレは金属探知機の前の廊下を、右に折れた先だった。
ちなみに、金属探知ゲートの先には三十メートルほどの細長い廊下がある。人一人しか通れない狭い回廊だ。囚人が脱走しにくいようにするための通路なのだが、ここの防弾ガラスの窓からは海と東京の高層ビル群がよく見渡せる高架歩道になっている。
そこを通り抜けると囚人との面会室。さらに先にはエレベーターがあり、海底に造られた牢獄へと続いていた。
刑務官に案内されてトイレに来ると、兵藤は上着のポケットからスタンガンを取り出した。前を歩く刑務官の首筋に素早く当てて失神させると、個室に連れ込みドアを閉めた。
数分後、奪った刑務官の服に着替えた兵藤は、トイレから出てくると何食わぬ顔で受付の横を通り、階段を上っていった。
コキュートスの一階は受付と面会室、二階には看守の控室と倉庫、そして三階には会議室と所長室がある。
兵藤は所長室の前に立つとノックした。部屋の中から返事を貰うと、速やかに入室してドアを閉めた。
所長室の席には、前頭部が禿げあがったメガネの男が腰かけていた。書類に目を通していて、入室者にはあまり気を止めていない。
足音もなく、兵藤は所長に近づいた。
所長が顔を上げようとした瞬間、スタンガンを首に押し当てた。
トイレの時と同じように気絶させると、まず所長の首回りを探った。目的の物が指の先にぶつかる。チェーンリングのネックレスだ。それを首から取り外した。ネックレスにはボールペンのような細長い金属の棒がついている。
コキュートスの所長しか持つことの許されない、世界に二つしかない希少な電子ロックキーだった。ついでに懐から所長のIDカードも掏っておいた。
次に、自身の胸元から拳銃を取り出した。日本警察が採用しているニューナンブM60ではない。コルト社のM1911、通称コルト・ガバメントだった。45口径の大型自動拳銃で、38口径のニューナンブと比べたら過剰殺傷能力を備えたバケモノ銃である。
戦後、アメリカの占領軍から警視庁に払い下げられたものだ。百年もの間、警視庁の保管庫で管理されてきた骨董品だが、兵藤はこれを丁寧に整備して愛用していた。
とりあえず一発、窓に向かって撃った。窓ガラスが粉々に砕け、建物内に銃声が響き渡った。陸地から遠く離れたこんな孤島では、狙撃の心配もないだろうと、この部屋は防弾ガラスにはしなかったのか。税金も無駄には出来ないからな。
兵藤は廊下に出て叫んだ。
「不審者だ。所長が倒れているぞ!」
三階に不審者がいる、所長を助けろ、と大声で言いながら彼は階下へ降りていった。
何人かの刑務官がすれ違い、急いで階上へ上っていく。
これで刑務官たちの注意は上へ向けられたはずだ。案の定、受付室の刑務官も上へ向かったようで、誰もいなかった。
兵藤は受付から、面接室へと続く高架歩道を悠々と走り抜けていった。防弾ガラスから見える東京のビル群は爽快な眺めだが、今は見入っている場合ではない。
急いで面会室の横を通り抜け、海底牢獄へと繋がっているエレベーターの前まで来た。エレベーターには開閉ボタンの他に、カードリーダーがある。エレベーターを動かすにはセキュリティカードが必要のようだ。
兵藤は慌てることなく、内ポケットからセキュリティカードを取り出した。さっきの刑務官から奪ったものだ。カードリーダーにカードを通す。
階層を示すディスプレイに『ERROR』の表示が出た。
一瞬の狼狽。さらに……
「そこで何をしている」
不意に後ろから声をかけられた。しかし、焦りも驚きの声も全て飲み込んで、無理矢理平静を装った。振り向くと、佐武くらい身長のある刑務官がいた。
「その海底に行けるのは矯正処遇官以上だ、看守では行けない。知らないわけじゃないだろう」
なるほど、そういうことか……。兵藤が着ている制服と、今目の前にいる刑務官の制服と階級章は微妙に違う。あの刑務官は海底監獄に行ける階級ではなかったのか。
そう思案していると、高架歩道からパンツ一丁の男が現れた。制服を奪ったあの刑務官だ。
「おい、そいつは……」
裸の刑務官が言い終わる前に、兵藤は銃を抜いて発砲した。当てる気はなかった。床や壁を狙って威嚇しただけだ。それだけでも怯ませるには十分だった。
「アドバイスありがとう」
今度は所長から奪ったセキュリティカードを使った。案の定エレベーターの扉が開いた。乗り込むとすぐに閉鎖ボタンを押した。
「ふう……」
溜息をついた。でも安堵するのはまだ早い。任務は始まったばかりなのだから。引き返すことのできない、命がけの任務が……。
◆
今から遡ること約5時間前。正午少し前、兵藤は外部第三課長の澤田と共に首相官邸にいた。警視総監 自らの指名で呼び出されたのだ。
二人が通された部屋には首相の他に、官房長官、内務大臣、法務大臣、外務大臣、国防大臣、財務大臣、そして警察庁長官と警視総監がずらりと居並んでいた。国家安全保障会議、いわゆる日本版NSCと呼ばれるメンバーだ。
この会議が開かれるということは、今まさに国家を左右する事態が起こっているのだ。そしてその会議の末席に招かれたことに、兵藤は腸が締め付けられるような思いがした。
澤田がこの御前会議に来たのは進捗の報告と、リーシャに捜査協力を申し込むことについての判断を仰ぐ為だ。ワームがリーシャの造ったものと酷似しているのがわかった時点から、兵藤が常々提案していたことだ。そのため今回は首相直々に兵藤も呼ばれていた。一年前、リーシャを逮捕した実績も踏まえて……。
司法取引がからむとなると、いくつかの法的処置が必要だ。取り扱う書類も多い。こんな仰々しいことをやっていては時間が足りないというのに……。兵藤は逸る気持ちを抑えた。
「リーシャ・グリフィズの案件の前に、ちょっと聞いてほしいものがある」
総監の言葉に、澤田が「聞いてほしいもの?」と問い返した。これ以上まだ何かあるのか? 時間は無いのに……。
「一時間ほど前、災害時用の非常回線からこの首相官邸にかかってきた電話の内容だ」
そう言うと総監はデジタルボイスレコーダーを再生した。
『もちも~ち、安堂総理ですか~ん?』
甲高い女の声だった。澤田が「何だ?」と、眉をひそめる。
『はじめまして~ん、そうり~ん。さあ、あたしは誰かな~ん。大事なだ~いじな非常回線を乗っ取っちゃったあたしわ~ん』
やや間があってから総理は答えた。
『誰ですか、君は?』
『んふふ、防衛省にワームをばらまいた張本人で~っす』
「なに?」
澤田の顔が一気に険しくなった。兵藤も唇をキュッと引き締めた。
『先に言っておくけどぉ~、逆探なんてしてもムダムダよ~ん』
『ちょっと待ってください、本当に君が……?』
『嘘じゃないわよ~ん。だって~ん、サイバーテロのことを知っているのわ~ん、政府関係者でも警察庁でもぉ、一握りの人たちだけなんでしょ~ん。マスコミには、ホームページにつながらないのはぁメンテナンスのためって、発表してるんだから~。部外者は知らないはずでしょ~ん。なのに~、何故あたしは知っていると思うの~ん?』
『……』
『それに~ん、この回線から電話をしていること自体ぃ~、ありえな~い。違う~? でもぉ、サイバーテロを起こしたクラッカーならぁ~……』
『可能でしょうね』
『じゃあ、信じてくれる~ん?』
『……いいでしょう、信じましょう』
『うれし~ん。でね、でね、そうり~ん、さっそくお願いがあるの~ん』
『お願い……ですか?』
『そう、お・ね・が・い~』
『……内容によりますね、匿名希望さん』
『じゃあ、聞いてくれる~?』
『話だけでしたら』
『話だけ~ん? う~~~~ん、ぜ~ったい聞いてもらうことになるんだけど、まあいっか~。あのね~ん、そうり~ん、実はあたしのお友達が捕まっているの~ん。お外に出して欲しいな~ん。そしたらワームの悪戯止めてあげる~ん』
『……囚人の解放が目的ですか?』
『そうよ~ん。そうりんには~、コキュートスにいる~、リーシャ・グリフィズちゃんを解放してほしいな~ん』
『……それは、誰ですか?』
落ち着いた口調で総理は答えた。
『あっら~、とぼけてもムダムダ~、一年前のブラッディウィーク事件を忘れたわけじゃないでしょ~ん。その主犯のリーシャちゃんよ~ん』
『その事件なら知っています。しかし犯人が何処に収監されているのかということまでは、いかに総理大臣でも細かく知っているわけはありません。特にコキュートスは日本一厳重な刑務所です。囚人の情報も厳しく管理されていて、誰がいるのかなんて容易にわかりませんよ』
総理もなかなかのタヌキだな。そう思いながら兵藤は眼の前の男を見た。
『あらあらぁ~、あんまり惚けたフリしているとぉ、また日本の外交官や工作員を殺しちゃうぞ~』
『…………今、何と?』
『中国とアラブでお仕事していた外交官が何人撃たれて死んだの~ん、そうり~ん?』
『……あなたが?』
『ピンポ~ン、外交官さんたちの情報、あたしが反政府組織の方々に教えちゃいました~。てへぺろ~ん』
『何故、そんなことを……。彼らは何の関係もないはずです』
『だって~、あの人たちあたしのお友達をいじめるからきら~いなんだも~ん。でもぉ、今度は公務員じゃなくて一般人を狙っちゃおっかな~ん、総理があたしのお願い聞いてくれないなら~』
『……』
『あら~、黙っちゃった。混乱してるの~ん、そうり~ん。じゃあ、少しだけ落ち着く時間あげるね~ん。また連絡するわ~ん、よく考えておいてね~ん』
『待ちなさい!』
そこで通話は途切れた。
「どう思う?」
ボイスレコーダーを停止させ、総監が訊ねた。
「どう、と言われましても……」
澤田が言葉に窮した。
悪酔いしそうなほどふざけた女の口調を聞いた後の問いかけでは、総監の真顔が滑稽に映った。
「この電話から30分後、同じ女がまた電話をかけてきた」
今度は警察庁長官が言った。
「要求が呑めなければ国内の空港の管制塔を乗っ取るとな。急に離陸予定や空路を変えても、要求を拒否したと見るそうだ」
「総理は返答をまだしておられないので?」
澤田が訊ねると、長官は頷いた。
「警察庁の交渉人の指示の下、総理が粘り強く交渉をしてくださった。それで、何とか時間が稼いでもらった。閣僚との話し合いがあるとか、書類上の手続きがあるとかでな。午後6時に返答することになっている」
「ナンセンスの極みだ……」
ポツリと兵藤が呟いた。聞こえていたのか、その場の全員が彼に視線を向けた。