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コキュートス  作者: 中遠竜
コキュートスからの脱獄
1/6

少女は国際的テロリストで囚人

 昔、書いた小説です。

 完成したものの、ストーリーが破綻しているので、推敲もせず放っておきました。

 これから少しずつ手を加えて直しながら、更新していくつもりです。


 基本、駄作だったので、あまり期待しないでください。

 東京湾アクアラインのサービスエリア、海ほたるから北東へ三キロほど行ったところにそれはある。人工島の上に造られた、東京湾上特殊収監施設。


 通称コキュートス。


 絶海の孤島にそびえる監獄である。そのたたずまいは一見いっけん城塞かと見間違えるような威風を放っていた。




 その監獄の面会室へと続く廊下を、警視庁公安部外事第三課の捜査官、兵藤ひょうどう一月いつき佐武さたけ俊哉としやの二人が並んで歩いていた。


「で、本当にそいつは事件の解決に協力してくれるんだろうな?」

佐武が兵藤にたずねた。


 百八十五センチの長身に、ガッシリとした筋肉質の体は、背広の着ていてもよくわかる。髪を短く刈り込んだ、強面の偉丈夫だ。


「それはこれからの交渉次第さ。はっきりいって捜査協力を拒否される確率の方が高いし、事件に介入させることで好転するともいえない。むしろ悪化する可能性の方が大きいかも……」


 成人男性にしては甲高く、そして抑揚よくようのない口調で兵藤は答えた。声変りを終えていない少年のような、ウィスパーボイスだ。


 佐武とは対照的に、一見すると女と見間違えるような中性的な顔立ちをしている。左目の泣きボクロが印象的な優男だ。また、童顔のせいもあって、スーツを着ていても高校生くらいの少年にしか見えない。


「おいおい何だよそれ。アテにならねーな」

 佐武が愚痴ぐちをこぼす。


「ならないよ。だから僕一人で行くと言ったんだ。何で強引についてきたんだい?」


「奴が一年前に起こしたブラッディウィーク事件で、俺はSATの突入チームを指揮していた。……が、ご存知の通り、作戦は失敗。犯人を取り逃がし、部下が三人も殉職した」


 兵藤は振り返り、厳しい目で佐武を見つめた。


「だが十四歳以下の未成年ということでマスコミはおろか、捜査した警官以外、警視庁の身内にすら顔も名前も明かされず、起訴きそされ……そして今ここにいやがる。というか、今回の事件が起こるまで、ここにいることすら知らなかったぜ」



「……佐武……言っておくけど……」


「別に何もしねえよ」


 佐武は兵藤の言葉をさえぎって言った。静かだが重く、圧迫感のある声だった。


「そんなことするように見えるのかよ、この俺が? 俺は周りが言ってるような短絡的な激情家じゃねえぞ。

 奴に会いたいっていうのは……ただ単に、あのテロ犯罪の中核にいた奴がどんな面してんのか、知りてえだけだ。……捜査に関わったいち警察官としてな……」



「……彼女は今回のテロ事件に関して、僕らが持っている唯一のカードだ。君の警察官としてのモラルと自制心を信じるよ」


「大いに信じてくれ。

 それはそうと、このコキュートスには国際的テロリストや凶悪犯罪者の他に、超能力者も収監されてるって聞くが、そいつもそのクチか?」


「まあね。公的、学術的にはpsi能力者、もしくは特異能力者っていうんだけど」


「学術的……? 世間にゃ超能力の研究施設があるのかよ?」


「そうだよ、知らないのかい? 学問として確立しているからこういう収容施設があるんだよ。心理学やカオス統計学、数学、物理学なんかの学者が熱心に研究していて、“超心理学”って呼ばれている。

 それから、特異能力っていうのは予知や瞬間移動や念力みたいなもの以外にも、霊感や呪い、気功なんかも含めた超常現象全般のことを言うんだ」


「ほう」


「この中には、呪いで人を殺した霊媒師なんかもいるよ」


「呪い? どうやって立件したんだよ、そんな奴」


「裁判にはかけてないって聞いた。

 でも、その人が呪術を行うと必ずターゲットが怪死するって評判になったから、調査したそうだよ。そしたら統計学上で偶然になる確率の特異点よりずっと上の値を示したから、緊急逮捕してここに監禁したらしい。

 もちろんマスコミには公表してないよ」


「……聞かなかったことにするぜ……」


「それが賢明だね」


                        ◆



 面会室の透明なアクリル樹脂の仕切り板の前には、兵藤がパイプ椅子に座って囚人を待っていた。

 佐武は腕を組み、ドア近くに立っている。


 佐武が口を開いた。

「俺のチームが突入に失敗した後、お前が単独で奴を捕まえたって聞いたが……?」


「……うん、もう一年前になるのか……。調書をとったのも僕だ。彼女を逮捕するのに君の部下だけでなく、公安の捜査官も五人殉職した……。僕も危うく二階級特進するところだったよ」


「地裁じゃ二百年以上の懲役ちょうえきを言い渡されたが、不服として現在上告中……か……」


「正確には懲役二三六年だよ」


「出所する頃には一般人も火星旅行をしてるだろうな」


「そういえば収監しゅうかんのときに見送ってから、一度も会ってないかな……。必ず面会に行くって約束したけど……。来たみたいだ……」


 仕切り板をへだてた対面側のドアが開き、看守に連れられて手錠をした囚人が入ってきた。


 囚人の姿を目にした佐武は、眉間にシワをよせた。


 若い……。というより、幼い……。


 灰色の囚人服を着ているのは、十代半ばの少女だった。それも黄金比のスケールを使って掘り上げた、一分の隙もない完成度をほこる彫像のような、美しい西洋人の女の子だ。

 十五歳だというが、小学生くらいに見える童顔で、華奢な体つきをしている。身長は百五十センチもないだろう。色素が極端に薄いのか、髪は光に照らされれば銀色に見えるプラチナブロンドで、それを腰の辺りまで長く伸ばしている。瞳は不思議な赤い色をしていた。また、透き通るように白い肌はどこか儚げで、見る者の庇護ひご欲を無条件にかきたてそうだ。


 あまりに非現実で浮世うきよ離れした髪や瞳の色彩は、少女の容姿を幻想的で神秘的に映す。神話かおとぎ話を描いた絵画の妖精がそのまま表れたみたいだ。


 少女は無表情かつ無言のまま、ロゼワインのように深く澄んだ緋色の瞳で、兵藤と佐武へそれぞれ当分に一瞥をくれると、手錠のはまった手で耳元にかかる長い銀髪を掻き分けながら椅子に座った。



「おい、こいつが?」


 佐武が兵藤に近付き、小さな声で訊いた。


「そう、この子だよ。この子が国内最右翼の活動家集団“たての会”元幹部、リーシャ・グリフィズだよ」


「マジかよ、たまげたな……。ちっこいし、小学生くらいにしか見えねえぞ……」


 警視庁の資料に書かれている彼女は、世界中の諜報機関が恐れるハッカーであり、また超能力を使って大量殺人を犯した国際的なテロリストでもある。


 佐武はここに来るまで、どんな陰険いんけん卑屈ひくつな面をしている奴なのだろう、と想像を巡らせていた。SAT時代の仲間を殺された恨みを、地獄の釜のようにぐつぐつと煮えたぎらせて……。


 しかし、実際に犯人と対面した今、佐武は困惑していた。その憎悪が霧散むさんしそうになっている自分自身に……。


 誰が見ても、彼女のことを、一年前のテロ事件で警視庁の捜査官を何人も殺し、捜査本部を混乱させ、東京中を恐怖のどん底に陥れたテロリストとは、到底思えないだろう。教えてもらったとしても、信じられないのではないか。それほどまでに無垢むくであどけない顔をしている。



「見た目にだまされないでくれよ」

 兵藤が小声で忠告した。

「これでもCIAに所属していた頃は、電脳魔女サイバーウィッチのコードネームで恐れられていたんだからね。他にも第五の戦場の女帝アテナって通り名がある」


「第五の戦場だあ?」


「陸、海、空、そして宇宙に続いて五番目の戦場……ネット世界のことさ。彼女を手にした国家は、第五の戦場を牛耳れるとまで言われているよ」


 彼は咳をひとつし、微笑みながら声をかけた。

「やあリーシャ、久しぶりだね。約束してたのに、なかなか会いに来れなくてゴメンね。忙しくてね。でも元気そうで何よりだ」


 リーシャは屈んで合成樹脂のアクリルガラスから半分だけ顔をのぞかせた。そしてその小さな唇を動かした。


「……気にしなくても結構なのデス、ブタ野郎。自分をパクッた人間のツラなんて、普通は見たくないものなのデス」


 兵藤は苦笑いしながら後ろを振り向いた。するとそこには、清明せいめいな美少女の口からかれた毒舌に、唖然あぜんとしている佐武がいた。


「見たかい? こういう子なんだよ」


「……なるほど。んで、かがんで頭半分だけ出してるありゃ何だ?」


「引きこもりの人見知りだからね。初対面の人は警戒するんだ」



 リーシャはツンドラよりも冷たい眼差しを兵藤に向けながら言った。


「ここに他人を連れてくるなんて不愉快なのデス。このEDのオカマ野郎」


「……彼は今、一緒に捜査をしている佐武巡査部長だよ」


「お前は聴覚がおかしいのデス? そこのゴリラの名前などいったい何時いつ、誰が訊いたのデス」


「ご、ゴリラ……」

 佐武の口元が引き攣った。


「私は超、超、超~~~不愉快なのデス。面会時間は終わったのデス。帰る」


「まあ、待ちなよリーシャ。せっかく来たんだから」


「一年間も放っておいて、今更いまさら何なのデス?」


「悪かったよ。でも僕の仕事が忙しいのは知っているだろう」


 リーシャに振り向いてもらおうと、必死になる兵藤の姿が、佐武には面白くなかった。


「そういえばずいぶん日本語が上手くなったね」


「私にとって、これぐらい造作もないのデス」


「日本語は世界一難しいって言われているんだ。一年間でここまで話せるようになるなんて、やっぱり凄いよ」


「ふんっ」

 兵藤の褒め言葉に、リーシャは少し機嫌を良くしたようだ。得意気に鼻を鳴らした。

「まあ確かに。

 このちっぽけな島国に、ゴテゴテとケバくて趣味の悪い高層ビル群を建てた、せせこましい先住民どもの言語は難解なのデス。まるで外国人を排斥するかのような確信犯的意志すら感じるのデス。きっと何百年も前から、文化そのものが排他的で鎖国的で非国際的だと思うのデス。

 でも隣の監獄かんごくに入っている受刑者は、その先住民の中においては珍しく親切で、色々と教えてくれるデス。この間も新しい単語を覚えたのデス」


「へえ、何て言葉だい?」


 リーシャはすっくと立ち上がると、胸を張って言った。


「“勃起ぼっき”!」


「……………………………………………………………………………………(凍)」


 面会室の時間が凍り付いた。


 兵藤も佐武も口を真一文字に結び、死んだ魚のような白い眼で美少女を見つめている。


「最初に“ぼっ”と力強く発音するイントネーションがいいのデス」


 しかしリーシャは、そんな二人の様子など全く気にすることなく、力説しだした。


「そそり立つ力強さと暴力性、さらには卑猥ひわいさを兼ね備えた実に的確で精練された言葉なのデス。かなり気に入ったのデス。勃起、ぼっき、ボッキ……」


「あの……連呼するの、やめてくれないかな……」


「では、これで話し合いは終わりなのデス。Goodbye Forever、兵藤警部補」


「まだ終わってないよ。それから今はもう警部だ」


「流石はキャリア官僚。出世も早いのデス。願わくば、とっとと殉職じゅんしょくしてほしいのデス」


「それはよかった。ちょうど今、殉職しそうになった一年前の事件と関わりがありそうなネタを抱えている」


「……」


「そう、日本国内最右翼団体である“盾の会”がらみでね」

 兵藤は射抜くようにリーシャを見据えて、少女の表情を伺った。

「興味あるんじゃないかな、リーシャ」


「……私が“盾の会”にいたのは、国外のテロ組織やマフィアから匿ってもらうためなのデス。ただの腰かけにすぎないのデス。

 思想には最初から全く興味なかったし、今は盾の会以上に安全が保証されている場所にいるのデス。

 もう何の思い入れもないのデス」


「そりゃあ、コキュートスの防犯設備は世界屈指だろう。

 でも、こんな海底でずっと引きこもっているのは退屈じゃないかな。少しでも話を聞いてみないか?」


「別に退屈などではないのデス。誇りあるニートとしては、ここでの生活はなかなか気に入っているのデス」


 コキュートスはテロリストや重犯罪者専用の特殊監房だ。全て独房であり、しかも囚人に労役はない。故に、働かなくとも食べさせてくれるコキュートスの暮らしは、ニートにとって確かに楽園だろう。

 しかも世界中のテロ組織から命を狙われているリーシャにとっては、その身を守ってくれる鉄壁の要塞でもある。外の世界に興味を失ってしまうのも道理だ。自堕落な人間にとっては、世間で生きる方がよっぽど面倒で、危険が多いのだから。


「本当にそうかな?」

 しかし兵藤は食い下がる。

「君みたいなネット中毒者が携帯電話はおろか、トランジスタひとつない牢獄ろうごくの暮らしを気に入っているとは思えないな。逆に耐え難い苦痛だと思うけど?」


「……何が言いたいのデス?」

 リーシャは静かにパイプ椅子に座った。


「こっちには司法取引の準備が出来ている。ゲーム機でもノートパソコンでも、好きな電子機器をプレゼントするよ。もちろん厳重なフィルタリング機能付きだけどね。

 代わりに捜査に協力してくれないか?」


「捜査協力? 私がオマエに?

 ……中国にはこういうことわざがあるのを知っているのデス? ”敗軍の将、兵を語らず”。

 私を捕まえた人間に、私がアドバイスなどする必要ないのデス。自慢の頭脳で解決したらいいのデス」


「そう言わないで。IQ200の天才ハッカーである君の力がどうしても必要なんだ」


「天才……? IQ200……? ふんっ、それで私のことを持ち上げたつもりなのデス? オマエに言われると、皮肉か嫌味にしか聞こえないのデス。遠まわしに自分の方がスゴイと言っているみたいで。益々不快なのデス」


「そんなつもりはないよ。僕は君を本当に天才だと思っているんだ。僕が君を逮捕できたのは、たまたま運が良かっただけだ……」


「運が悪かったせいで、私は凡人に逮捕されたというのデス?」

 リーシャは急に語気を強めた。

「この私を? 超能力を持ち、CIAやFSBの捜査からだって逃げ伸びてきた、このリーシャ・グリフィズを? 何の能力も持っていないオマエが、運だけで捕まえたと言うのデス?

 そんなの私のプライドが許さないのデス。

 私が天才だというのなら、イツキ、オマエはさらにその上をいく世界でも非常に稀有な天才なのデス。

 オマエのことは生理的に世界一嫌いでも、そこだけは認めているのデス。認めているのに……私は認めているのに……オマエは私などどうでもいいのデス……」


 リーシャは頬を膨らませ、上目遣いで兵藤を見る。ちょっとワザとらしくいじけているようにも見える。


「いつか必ず会いに来ると言っていたくせに……、一年間もほったらかしにしておいて、やっと来たかと思えば、司法取引で捜査に協力しろ?

 花の一輪も持ってこずに、何と味気のない話なのデス。

 しかも会いに来れなかった理由が“忙しかったから”? 遅刻をしたのは宇宙人に連れ去られたからだ、という言い訳をされたのと同じくらい馬鹿にされた気分なのデス。

 所詮、私はオマエにとって便利な道具か手駒、もしくは散々もてあそんだ挙句に使い捨てる都合のいい女なのデス。可哀かわいそうな私……なのデス」


「そんなつもりはないよ、リー……」


「Fuck! Do not feel free to call of my name.(気安く私の名を呼ぶな)」


 リーシャの怒気を帯びた英語に、兵藤は思わず口を噤んだ。


「今までここに来なかったのは、私に会いたくないからだと、素直にそう言えばいいのデス。今更そんな作り笑いで機嫌をとりにこられると……何と言いましたカ……そうそう、キモいのデス」


「敵わないな……。でも訂正させてもらえるのなら、僕は君のことが嫌いってわけじゃないよ。

 そうだな……少し恐ろしい、っていうのは確かだけどね……。何せ一年前、僕は君に殺されかけたわけだから……」


 リーシャはバツが悪そうにうつむいた。


「寂しい思いをさせていたのなら謝るよ。ごめん、リーシャ」


「別にオマエに会えなくて寂しかったわけではないのデス。自惚れないでほしいのデス」


「おい兵藤、ちょっと下手したてに出すぎじゃねえか? 調子づくぞ」

 佐武が渋い顔で言った。


「佐武、例えピエロになってでも、今は彼女の協力を取り付ける必要があるんだ」



「……イツキ」

 リーシャが指先で自身の長い銀髪をくるくるといじりながら、いじらしそうに兵藤を呼んだ。しかもびるような視線を送っている。

「捜査協力……してもいいのデス……」


「本当かい?」


「その代わり、司法取引には別の物を払ってほしいのデス」


「別の物? え……?」


 リーシャは顔を赤くさせ、気恥ずかしそうにしながらアクリルガラスに手をつき、顔を近づけて、目を閉じた。


「えー……っと、どういうこと?」


「鈍いのデス、このボケナス。ガラス越しで我慢がまんしてやると言っているのデス」


 兵藤は固まった。



 ドゴンッ!



 突然、コンクリートを金槌かなづちでぶったたいたような大きな破砕音はさいおんとどろき、兵藤は後ろを振り向いた。

 それまで黙っていた佐武が、拳槌けんついで壁をぶっ叩いている。白い壁には蜘蛛くもの巣のようなヒビが走っていた。


「だから調子づくって言っただろ、兵藤。そんな馬鹿げた司法取引があるか! このジャリん子、ふざけたこと言いやがって。

 だから俺は最初からこの話しに乗り気じゃなかったんだ!」


 リーシャをにらむ佐武の声は、かなりドスが利いていた。


 少女はまたかがんで、アクリルガラスから顔半分だけを出した。


「何なのデス、あのヒステリーゴリラは? ああいう腕力にモノをいわせた、脳みそのシワが少なくて自己顕示欲の強いゴリラには、恐らく言葉が通じないのデス」


「何だとぉ、このクソガキぃっ」

 佐武が詰め寄った。


「何なのデス、キングコングの突然変異」

 リーシャは、顔半分だけしか出して逃げ腰だったが、口では引き下がらなかった。


「キ……っ、な……何ぃ……」


「私は日本語も含めて七ヶ国語話せるのデス。が、流石に霊長類の言語までは知らないのデス。

 発情期の雄叫びを上げたいのなら、外で吼えてきてほしいのデス。お前の遠吠えは人類には大変耳障りで迷惑なのデス」


「ああっ……?」


「兵藤警部、珍奇ちんきなペット自慢をしたいのはわかりますが、ちゃんと人前でえないよう、しつけはきちんとしてきてほしのデス。そのうちところ構わず糞尿ふんにょうを垂れ流されたら、ここの所長に私が申し訳ないのデス」


「てんめぇ、このクソガキぃ、口の利き方教えてやらあ。俺は兵藤のように甘くねえぞ」


 怒り心頭の佐武はボキボキと指を鳴らした。


 だがそれを兵藤が両手で制した。

「佐武、落ち着いて。それにこの件は僕が一任されているはずだ。邪魔をするならここから出て行ってもらうよ」


 佐武は舌打ちをすると、口をへの字に閉じ、また腕を組んで壁際に仁王立ちした。


「イツキ、喜ぶのデス。オマエのことは世界一嫌だったけど、今この瞬間から世界二位になったのデス。

 あのゴリラの乱暴な言葉使い、きっとトイレに行っても手を洗わないと見たのデス。だからSATは嫌いなのデス」


「ゴメン、リーシャ。気を悪くしないでくれ。彼はちょっと気の荒いところがあってね。でも悪い人じゃないから、見た目以上に怖がることはないよ。

 ……あれ、彼がSATだって言ったかな?」


「見ればわかるのデス。椅子に座らない、壁に背をもたれない、ポケットに手を入れない、かかとに体重を乗せない、常に臨戦態勢でいるのデス。

 特殊部隊シールズから中東の武装組織に傭兵まで、ああいうたぐいの男を何人見てきたと思っているのデス」


「なるほど、いい観察眼だ。でも彼は”元”だから。今は僕と同じ公安だよ」


「ふーん。……で、司法取引するのデス? しないのデス?」


 リーシャは自分の唇を指さした。


 兵藤はこめかみに指を当て、少し悩んだ末に答えた。

「……わかった、するよ」


「よせ、兵藤。俺はお前が汚されるところなんか見たくない」

 佐武が口をはさんだ。


「ゴリラは黙っているのデス」


「佐武、これも捜査のためだ。それにガラス越しなんだし……」


「ばかばかしい。見てられん」

 佐武は目を掌で覆った。


「見なければいいのデス。さあ、イツキ、一年分の想いをこめた熱いヴェーゼを!」


 リーシャはぷっくりとしたつややかな唇を、ガラス越しに突き出した。ピンク色で扇情せんじょう的な唇だ。


 兵藤は、ごくりと生唾を飲み込んだ。リーシャの身長に合わせるためにしゃがむ。そして顔を近づけていった。目を閉じ、唇をアクリルガラスに押し付けた。


 冷たい感触がした。


 後ろでは、佐武が指の隙間から、その様子を見ている。


 少ししてから兵藤は目を開けた。だがそこにリーシャの顔はなかった。


 リーシャはパイプ椅子に座って、ニヤニヤと冷笑れいしょうを浮かべながら兵藤を見下ろしている。リーシャはガラス越しにキスなどしていなかったのだ。


「なかなか可愛いキス顔だったのデス」

 彼女の声はえつに入っていた。

「特に、きちんと目を閉じているのがよかったのデス。

 携帯やデジカメがなかったのが唯一残念なのデス。が、まあ余韻だけでも一ヶ月間は楽しめそうなのデス」


 そしてリーシャは口を両手で押さえ、肩を震わせながらケタケタと笑った。



「ナンセンスの極みだ……。僕には自殺ものの思い出が出来たよ」


「むふっ、いいものが見れたお返しに、とりあえず話だけは聞いてやるのデス」


 兵藤は振り返って、佐武を睨んだ。

「無駄死にじゃなかっただろう?」


「ああ、名誉の戦死だ。決っしてピエロで終わってねえぞ」


 兵藤は再びリーシャに向き直った。途端に背後から、笑いを必死に堪える声が聞こえた。


 兵藤は怒りを押さえながら咳払いをひとつすると、気を取り直してパイプ椅子に座った。

 この後、説明する予定ですが、架空の刑務所コキュートスは、東京湾の人工島に造られ、地下が牢になっています。そしてより重罪、より危険な犯罪者ほど、地下深い階層に収監されます。

 リーシャは……真ん中からちょっと下くらいの階ですかね。

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