Ⅲ
目をあけたとき、愛璃は自分が殺風景な白い部屋に入れられていることを知った。
充分に予想していた事態だったが、いざ現実となると、やはりつらい。囚われたことよりも、誰よりも大事な少女と離れてしまったことが、つらかった。
この部屋自体は、ただの箱に過ぎなかった。愛璃が跳ぼうと思えば、簡単に出られる。ここにいる能力者たちが脱走しようとしないのは、その気がないからだけなのだ。出たいと思いさえすれば、いくらでも方法がある。
瞬間移動に必要なのは、集中力だ。移動した先が気体や液体中であればいいのだが、もしも固体であれば、瞬時にその物体と自分の肉体とを入れ替えなければならない。跳躍先に何があるのかは何となくわかるのだが、殆ど勘のようなものだ。その点、遠隔視能力者と組むと、先を視てから動けるので、楽なことは楽だ。けれども、愛璃は、仕事で誰かと組んだことはない。彼女が一緒にいたいと思う相手は、ただ一人だけだったから。
今、あの子は――深青はどこにいるのだろう。
大事な、大事な、子。
彼女は逃げきることができたのだろうか。
愛璃はPK能力者なので、周囲の探索はできない。精神感応や透視の力があれば、ここに深青がいるかどうか知ることができるのに。
取り敢えずはこの部屋から出ないことには、何もできない。愛璃は意識を集中させて、跳ぼうとした――が。
何故か、感覚を乱される。
なんなのだろう、これは。
頭の奥深くで、羽虫が飛び交っているような、感じ。
一言で表現するなら、『不快』だった。
「何なの!? これ!」
思わず眉をしかめて、小さく罵る。
と。
まるでその声に応じたかのように、部屋全体に男の声が響いた。
「やあ、起きた?」
「!」
愛璃は天井を睨み上げる。グルリと見渡すと、隅に小さなレンズが見えた。
「暮林!」
姿が見えなくとも、その声で誰かは判る。
唇をギリ、と噛んでレンズを見据える愛璃に対して、暮林は愉快そうに続けた。
「おはよう。散歩はどうだった?」
その口調に、腹が立つ。
愛璃も、いずれ追っ手が近付くだろうことは予測していた。だが、最初にかなりの距離を跳んでいたから、取り敢えず、『研究所』のESP能力者の探索範囲からは逃れられたと思っていたのだ。だから、捕まるとしても、もっと先のことだろう、と。
何故、こんなに早く追い付かれてしまったのか。
愛璃のそんな考えを見抜いたのか、暮林が得意げに言う。
「捕まったことが不思議かい? 実はね、居場所を知ったのは、能力者の力ではないんだよ。文明の利器ってヤツさ。ちょっと前に、とっても貴重な子に逃げられちゃってね。それ以来、君たちには発信器を埋めさせてもらってるんだ」
まるで、家畜のような扱い。
いつの間にそんなことをされたのか、愛璃にはさっぱりその記憶がなかった。それに、そうなると、深青もやはり捕まってしまったということなのだろうか。
不安がこみ上げてくるが、愛璃は険しい目つきのまま、ジッと監視カメラを睨み返していた。うかつなことを言うよりは、暮林が何か漏らしてくれるのを待った方がいい。
そして、案の定、調子に乗った所長は、意気揚々と語り続ける。
「君と深青は一緒に逃げたんだよね? でも、何でか、あの子の発信器は山の中に捨てられてたんだ。だもんで、君が寝ている間に、ちょっと頭の中を覗かせてもらったよ? 深青とは東京で落ち合うことにしていたんだよね。ここから日本国中を探索させるのは、どんなに強力な精神感応能力をもってしても無理な話だけど、東京だけなら、何とかなる。何人か行かせたから、あの子が帰ってくるのも、時間の問題だよ」
彼の言葉に、愛璃の腹の中がゴポリと煮え立つ。
ここは、決して『帰る』場所などではない。ただの、檻だ。
力の発動を受けて、髪がフワリと浮き上がる。
瞬間移動は集中を要するけれど、念動力はもっと容易に使うことができる。
跳べないというならば、この檻を壊してしまえばいい。
ここを壊し、暮林を消してしまえば、少なくとも深青の身は守れる。
念じるほどに、部屋の各所からピシッと鋭い音が響く。
――壊れてしまえ!
そう、思いを込めた時だった。
「うあッ!?」
頭の中に大きな石を投げ込まれたような、強烈な不快感が押し寄せる。
それは先ほどの羽虫の唸りのような可愛らしいものではなく、頭蓋骨の中をミキサーで掻き混ぜられているような感覚だった。
頭を抱えてうずくまった愛璃に、呆れ返ったような暮林の声が届く。
「君ねぇ、跳べないことを変だとは思わなかった? その部屋は能力者を閉じ込めるのに作ったものでさ、集中を妨げるように、可聴閾外の低周波音を流しているんだよ。気分悪いだろ? もっと、強くできるよ? いいから、おとなしくしていてよね。元々、連れ戻したいのは君よりも深青の方なんだから。君のPKより、あの子の方がもっとずっと面白い力を持ってるんだよ」
最後の、君はエサなんだからさ、という暮林の台詞は、朦朧とした意識の片隅で聞いた。何も考えられなくなっていく愛璃の胸に、その言葉が突き刺さる。
――ああ、お願い、逃げ延びて……。
誰も聞いてくれるもののいないその祈りを最後に、彼女はフツリと何も考えられなくなった。
*
モニターの中でクタリと崩れ落ちた小さな身体を見下ろし、更に15分ほど待った後、暮林は低周波音のレベルを下げた。しばらく、彼女は目覚めないだろう。
――まったく。
暮林は心中で呟く。
深青とつながる者でなければ、こんな厄介な妖精はさっさと処分してしまうのだが。さし当たって、彼女を手に入れるまでは保険として取っておかなければならなかった。
確かに、愛璃は『研究所』でもトップクラスの力を示すPK保持者だ。だが、それ故に、反抗されれば強大な敵となる。能力者は、従順であることこそが、一番必要な条件なのだ。
その点、深青はいい。
彼女単独では、治癒とそれから転じた変身能力程度でたいしたことはできない。だが、その力は、使い方次第で素晴らしい効果を発揮することがわかっている。あの二人がそれに気付かなかったのは、幸いだった。
今、2人の精神感応能力者、3人の遠隔視能力者を使って東京中を探索させている。だが、未だ良い報告は届いていない。
時間的には、もう深青は東京に着いていてもよい頃だ。
精神感応能力者であれば、探索をガードすることができる。しかし、深青にその能力はない。
とすれば、いったい、誰が撹乱しているのだろうか。
暮林の頭の中を、ふと、二人の妖精がよぎった。いや、正確には、一人は失われているか。
――遥、お前の仕業なのか……?
あるいは。
紫。
稀有なる力を持っていた彼女に、暮林はこの『研究所』に連れてきた時から、何かを感じていた。何か、不穏な予感を。
当然、彼には特殊能力などないので、虫の報せというやつだったのだろう。
その予感はありがたくないことに的中し、あれほど従順だった遥は紫に唆され、共に行ってしまった。
果たして、紫には『その力』があったのだろうか。
暮林の前で示したことはない。だが、予知能力はESPだ。しばしば、ESP能力者は複数のESP能力を、PK能力者は複数のPK能力を有する。愛璃は念動力だけでなく瞬間移動の力を持っているし、深青も治癒だけでなく弱い精神感応能力を持っている。優れた予知能力を持っていた紫が同時に遠隔視や精神感応能力などを持っていたとしても、不思議ではなかった。
恐らく、紫は隠していたのだろう。暮林は予知能力という素晴らしい力に気を取られ、精神感応という平凡な能力を持っていることは見逃してしまったのだ。
こうなると、益々あの二人を失ったことが惜しくなる。だが、幸いなことに彼女たちのゲノム解析はできているので、あとは『彼女』を一から作り出すことさえできれば、暮林が焦がれた妖精を生み出すことができる。最高の、妖精を。
『今の彼女』は、そろそろその肉体に限界が来ている。『彼女』に様々な能力を組み込んだところで、たいしてもたないだろう。それに、何もわからない状態から仕込んでいけば、それこそ、彼の望むままに育て上げることができるのだ。
「医療グループのやつら、早くやってくれないかな」
暮林は、唇を尖らせてぼやく。
門外漢の分野に自ら手を出すこともできず、他グループの成果を待つばかりの身がもどかしかった。
彼は『恋愛』というものを経験したことはない。しかし、『彼女』に向けるこのひたむきな気持ちは限りなく恋に近いのではないかと、暮林は思った。