Ⅱ
先に立って歩いていく珂月の背中を見つめ、深青は一瞬迷った。
鳥になれば、窓からでも逃げ出せる。けれども。
――この人は、大丈夫。
心の中で、そう囁く声がする。
信じても、いいのかな。
確信とまではいかないまでも、何となくそう思えて、深青は意を決して彼女の後を追った。
眼が覚めた直後は状況が掴めず、てっきり連れ戻されたものだと思い込んでしまったけれど、よくよく見れば、この部屋はあそことは全く違う。珂月という女性も、整った顔立ちと切れ長の目が一見冷たさを感じさせるけれど、深青に向ける眼差しは優しかった。
ソファに座って待っていると、やがてトーストの焼けるいい匂いが漂ってくる。
「たいした物が無くて、すまないな」
言いながら、珂月は深青の前にトーストとサラダ、ホットミルクを置く。
食べ物を前にすると、深青はいかに空腹だったかを知らされた。厚切りの食パン2枚をペロリと平らげ、ようやく一息吐く。
少し甘くされたホットミルクを舐めるように飲んでいると、珂月が小さく笑いを漏らした。
「……?」
「いや、猫舌なのか?」
「はい……少し、熱いの苦手です」
「そうか。――妹も、そうなんだ。よく似た飲み方をするな、と思って」
「妹さん、ですか? お幾つですか?」
「そうだな、12、いや13歳になるかな」
妹の事を話す珂月の眼差しは、この上なく優しく、そしてどこか辛そうだった。
「とても可愛い、いい子なんだよ」
深青の気遣うような眼差しに気付いて、珂月は笑みを浮かべてそう締め括る。妹に向ける彼女の気持ちがうらやましくて、深青はもう少し話を聞いていたかったけれど、珂月にはそれ以上続ける気がなさそうだった。
「さて、実は、君を拾ったのは私ではないんだ。だから、どんな状況だったのか、わからない。ただ、一つだけ訊きたいんだけど、いいかな」
「わたしに答えられることなら……」
改まった珂月の口調に、深青はホットミルクを置く。
「君を拾った男が――最初に君を見たときは、今の姿ではなかった、と。」
普通であれば、何を言っているんだか、と笑い飛ばされるような台詞だ。実際、そうしたところで何の疑問も抱かれず、やっぱりそうか、で済んでしまうだろう。けれど、深青は、何の心構えも無く一番の秘密を暴かれて、それを咄嗟に誤魔化すことができるほど、人間がすれてはいなかった。
パッと血の気の引いた顔が、何よりも雄弁に答えてしまう。
「本当、なのか。いったい、どういう能力なんだ?」
「信じるんですか……」
「ああ、信じる。不思議な力を持つ者が確かに存在することを、知っているからな」
「知っている人が、何か力を……?」
「ああ、――妹が。妹は、未来を視る力を持っていた」
「予知……」
「妹は、7年前に何者かに連れ去られた。ある朝、目が覚めたらいなかったんだ。父と母はあの子を捜していて、多分、殺された。その時に残していった言葉が『研究所』だ」
深青の細い肩が『研究所』の一言にビクリと震える。それを、珂月は見逃さなかった。
「やっぱり、君もそこから逃げ出してきたんだな? 君や妹のような特殊な力を持った人達を集めているんだろう、『研究所』ってところは?」
畳み込むように問われても、深青は唇を噛んで俯くばかりだ。
珂月が顔を覗き込んでくるようにして続ける。
「『研究所』ってのは、いったい何なんだ? どうして存在する? ――頼む、教えてくれ。私は、あの子を助けたいんだ」
真摯な珂月の眼差しに、偽りも、揶揄もない。
「……あなたの妹さんがあそこにいたかどうかは、判らない。持っているのが予知能力だったら、すごく珍しい筈。多分、わたしとは――『普通の』能力者とは違うところに入れられてたんだと思う」
「そうか……」
「ごめんなさい」
肩を落とした珂月に、何故か申し訳なさそうに深青が謝った。珂月は苦笑しながら首を振る。
「いや、気にするな。それで?」
「『研究所』っていうのは、力を持つ者が集められるところ。あそこでは、みんな、独りだった。家族から引き離されたり、逆に、親が連れてくることもあったの」
「親が、連れてくる?」
「そう。親が怖がって、手放す子も多いんだって」
深青の大事な人も、そう言っていた。面と向かって『化け物』呼ばわりされたものだと、嗤いながら言っていたのだ。
滅多に見せない彼女の笑顔が見られたのに、無性に悲しくなったことを、はっきりと覚えている。
その時の想いが顔に出てしまったのか、珂月がそっと問い掛けてきた。
「君は……?」
「え?」
顔を上げた深青に、珂月が言葉を変えて尋ねる。
「君も親に連れて行かれたのか?」
気遣う眼差しに、深青は首を振って答える。
「ううん。わたしは違うの。珂月さんの妹と同じ。わたしは……治癒能力を持っていて……わたしが病気や怪我を治して、それでお金をもらってたから……たぶん、わたしがいなくなって、お母さんは困ったと思う」
深青が心配だったのは、自分がいなくなって母親がどうしているのか、だった。彼女は5歳くらいで攫われたのだけれど、『家事』にしろ『仕事』にしろ、記憶に残る限り母親が働いている姿は見たことがなかった。独りきりになって、お金も入らなくなって、いったい、どうしているのだろう。
捜す手段があるならば、見つけ出して元気にしているか確かめたい。
そう思っていた深青だったが、何故か複雑な顔をしている珂月に首を傾げた。
「どうしたの?」
「え、あ……君は――いや、なんでもない。で、今、君は治癒能力、と言ったけれど、私の相棒が見たという『姿が変わった』というのは?」
深青は怪訝に思いながらも、切り替わった話題に答える。
「『研究所』で、力を変えられたんです」
「そんなことができるのか?」
「うん。攫われて、しばらくは血を採ったり色々検査されたりして、それが終わったら、何かをされて。わたしは、よく覚えてないけど……それから、力が変わったの。それまでは『治す』だけだったのだけど、自分が考えた形に、身体を変えられるようになってたの。たぶん、皆されてたんだと思う。愛璃も、前よりも何倍も力が強くなったって言ってたから」
「愛璃?」
誰なのかと目で問うてくる珂月に、深青は自然と微笑んだ。
「わたしの、大事な人」
けれど、そう答えて、彼女が今隣にいないことを実感する。いつも隣にあった温もりが、今は感じられない。
「……一緒に逃げたのに、離れてしまったの。ずっと一緒にいるって、言ったのに……」
思い出して、唇を噛み締めた。彼女を離してしまった自分に腹が立つ。
「わたし、愛璃を捜しにいかなくちゃ」
深青は顔を上げて、そう、宣言する。悔やむだけではなくて、自分に何ができるのかをちゃんと考えないといけない。
「ここって、東京?」
「ああ」
唐突にそう尋ねた深青に、戸惑いながらも珂月が頷く。答えを得ると、無性に気が焦ってきた。
「わたし、もう行かないと」
「行くって、どこへ?」
「愛璃を捜しに。わたしたち、東京を目指していたの。人がたくさんいるところなら、紛れ込めるだろうからって。きっと、愛璃もここに来てる。だから、行かなくちゃ。ご飯、ありがとう」
そう言うなり、立ち上がった。
「ちょ……っと、待てって。いったい、何をする気だ?」
珂月が、ベランダに走り出た深青の腕を掴んで引き止める。
「鳥になって、空から捜すの」
「はあ? ここでそんなことをしたって、見つかるわけがないだろう? 大草原じゃないんだぞ? だいたい、どんな鳥に……!?」
言いかけて、珂月が絶句する。
深青が思い描いたのは、猛禽類だ。強い翼と、よく見える目。それが、愛璃を見つけるために必要なもの。
彼女が望むままに、身体は見る見る形を変える。純白の羽毛に、碧玉の眼を持つ鷹の姿へと。身体を震わせて服を払い落とし、翼を広げる。
今にも羽ばたこうとした深青を、珂月が抱きとめた。
「待てよ! こんなのが飛んでたら、大騒ぎになるって!」
バタつかせる翼が珂月の頬を打ち、細かい羽毛が辺りに舞い散ったが、それでも彼女は腕を放さなかった。
「落ち着け! そんな方法じゃ、絶対に見つからない。私が、手伝うから!」
――でも、急がなくちゃ!
深青の声は、ただのピィッという甲高い鳴き声にしか聞こえない筈だ。けれども、珂月はその言葉を聞き取ったかのように、更に言い募る。
「焦っても、見つからない。がむしゃらに動くだけでは、決して見つからないんだ。私も……妹を捜している。あの子に会いたいよ。この手に、取り戻したい。あの子が戻ってくるなら、なんでもする。でも、ただ闇雲に動くだけでは、ダメなんだ」
搾り出すような珂月の声が、深青の心に届く。彼女がそう考えられるようになるまでには、きっと、何度も挫けそうになったに違いない。でも、諦められないから、捜し続けて。
――ああ、この人も、わたしと同じなんだ……。
いや、大事な人がいないという状況に、自分よりも遥かに長い間、ずっと耐えてきているのだ。
そう思った瞬間、深青の身体から力が抜けた。羽毛が消え、翼から変わった手で、自分を抱き締める珂月の腕をギュッと握る。
「わたし、寂しいよ。愛璃がいないと、ダメなの」
「ああ、解かる。解かるよ」
珂月の腕の中で深青はクルリと身を翻し、彼女にしがみついた。
温かな腕が、しっかりと抱き締め返してくれる。けれど、それは、深青が焦がれているものと似通ってはいても、違うもので。
その温もりに、深青は涙を一つ、こぼした。
*
寂しさを埋めるように抱き合う二人を眺めながら、ひらりと蝶が舞う。
はためくたびに、鮮やかな紫色の翅は仄かに光を放った。
そして、名残惜しげに2、3度その場を巡った後、何かに呼ばれたように一方向に進路を定めた。
蝶は、その優雅な羽ばたきにはそぐわない速度で所狭しと並ぶ建物の間をすり抜け、やがて、ビルの屋上に一人佇む少女の指先へと舞い降りた。
「お帰り」
少女は、感情の起伏の乏しい眼差しを和らげ、そう囁く。そして、蝶が来た方へと視線を投げた。
「まずは、うまく引き会わせられたな」
あの女性、そして男と深青が出会うことが、最初の小さな一投。
これによって、新たな『道』ができた筈だ。
遠くを見つめていた少女が、ふと目を手元に戻した。
「あの人に、自分のことを教えないのか?」
――まだ、ダメ。
響いたのは、彼女のものとは違う、涼やかな少女の声。
「なんで? 大事にしてもらってたんだろ?」
――だから、だよ。
苦笑するような、その声。
家族との縁が薄かった少女には、よく解からない。彼女が家族についておぼろながらに覚えていることと言ったら、自分の言葉で恐怖に顔を引きつらせる母親らしき女のことだけだ。それしか覚えていない相手では、別に、恋しいとも会いたいとも思わない。けれど、大事にしてもらっていたなら、会いたいと思うものではないのだろうか。
眉間に皺を寄せる少女の耳に、微かな笑い声が届く。
――わたしと同じか、もっと大事に想う人ができるまでは、会えない。わたしが『生きる為の全て』になっちゃってるうちは、会いに行かないよ。でも、いつかは、ちゃんとわたしを『思い出』にできる。それは、そう遠くないうちに、成るから。
断言するその声には、確信が満ちていた――そして、わずかな寂しさも。
少女は、そっと手の中に蝶を包み込む。
自分には理解し得ない、その想いを分かち合うことを望んで。
*
珂月に自分の部屋から追い出され、真也は取り敢えずあの少女を拾った所まで戻ることにした。
「まったくよぉ、俺独りで手に負えないような奴が来たら、どうしてくれるんだか」
裏を返せば、それだけ珂月が真也の事を信用しているということになるのだろうが、単純にそれだけとは思えない。少女にまつわる不思議な現象の事を話した時、微かに珂月の眼の色が変わった事に、真也は気付いていた。
珂月が両親を同時に亡くし、放心状態で繁華街を歩いているところを拾ったのが、真也だった。「女は大事にしろ」というのは、父から受けた唯一の教えである。
しばらくの間は、食事をするのがやっと、という状態だった。だが、やがて彼女は己を取り戻し、真也の生業を聞くと人捜しのノウハウを教えて欲しいと言ってきた。どう見ても未成年だった珂月など、普通であれば、相手にする筈がない。だが、あまりに必死なその眼差しに、真也は折れた。手を放してしまえば、彼女は潰れてしまいそうに見えたから。
「あの頃は、まだ可愛げがあったのになぁ」
ボヤきながら、真也は車を路肩に停めると外に出て、しばらく木々の間を歩いた。道路が見えなくなるまで進んだところで、丁度よさそうな茂みが眼に入る。
「あの辺でいいか」
発信器を取り出して茂みの根元に隠すようにして投げ込んだ後、少し離れた場所に身を隠した。妨害装置の効果は二メートルも距離を置けばなくなってしまう。後は相手が現れるのを待つだけだった。何処から駆け付けるのかは知らないが、数時間は掛かるだろうと悠長に構えていた真也だったが、30分ほどが経った時、その異変は起きた。発信器を置いた茂みの辺りの空気がユラリと歪んだような気がしたのだ。真也は軽く眼をこすり、そして、眼を開けたときには……
――おいおい、止めてくれよ。
思わず、心の中でそう呟く。
そこに佇んでいたのは、14歳程の、二人の少女だった。栗色のクセ毛を肩ほどで切った少女と、金色に近いストレートの髪を腰まで伸ばした少女。クセ毛の少女は手の中の何かの装置――恐らく受信器――をしげしげと見つめ、小さく首を傾げている。金髪の方が何かを言うと、ザワザワと茂みが動き始めた。それはまるで、見えない巨大な手で掻き分けられているかのようで。完全になぎ倒された茂みの中から、クセ毛の少女が発信器を拾い上げる。
二人はなおも何かを話し合い、やがてクセ毛の少女が金髪の少女に向けて手を差し伸べる。両者の手がつながれるとクセ毛の少女が、目を閉じた。数秒間その姿が揺らめいたかと思うと、次の瞬間、消え失せた。
「あれを、どうやって捕まえろって?」
流石に真也も、気を取り直すのに多少の時間を必要とする。が、やがて彼は隠れていた場所から出ると、形を変えられた茂みに近寄った。
かなり太い枝も、力任せに押し倒されている。それは、あんな華奢な少女の力でできることだとは思えなかった。
「マジかよ」
そう呟いた彼だったが、すでに、『普通ではないこと』を一つ経験しているのだ。真也も仕事柄、様々な経験は積んできている。だが、今回は、完全に自分の守備範囲を超えていた。
「取り敢えず、戻るか」
何の収穫もなく戻らなければならないことは業腹だったが、仕方がない。
真也は小走りで車に向かった。