Ⅰ
夜明けが早い季節とは言え、太陽が顔を見せるまでにはあと数時間は待たなければならい頃合。山間の曲がりくねった道を、人間的にやや難アリな依頼主から解放され、黒木真也は3日振りの我が家へと車を走らせていた。
真也が探偵という名の『よろず屋』稼業を20歳で親から引き継いで、もう8年にもなるか。失せ物捜し、人捜し、護衛にその他、面白そうだと思えばたいていのことは引き受ける。
今回の仕事、内容的には盗まれた亡夫の形見を取り返して欲しい、というタダの失せ物捜しで、実際、物を手にするまではたいした苦労はいらなかった。真也を疲れさせたのは、その後の展開である。形見と引き替えに依頼料をいただき、さあ帰ろう、としたところで、突然未亡人に引き倒されたのだった。
絡み付いてくる腕をかわし、その気の無いことを丁重に伝えた真也に、彼女はそれまでの清楚な様相を一変させた。美しい唇から流れる、驚くような言葉に背を叩かれながら、彼は帰途に着いたものだった。
――アレまでは結構好みだったんだがな……。
心中でボヤきつつ、真也はタバコを咥える。
本音を言えば、仕事を引き受けたのは未亡人が気に入ったからだった。
実際、喪服の良く似合う楚々とした美人であったし、時と場合によっては、彼の方から口説いていたかもしれない。だが、流石に、旦那が亡くなって2週間の相手とどうこうしよう、という気にはなれなかった。
変な疲れがあったせいかもしれない。
ひらりと目の前をよぎった何かに、ほんの一瞬、気を取られた。
「……!」
仄かに輝きを放っていた鮮やかな紫色の『ソレ』が何だったかを考える事も無く、真也は反射的に思い切りブレーキを踏む。直後、ドンと、車の横っ腹に衝撃。衝突したのは、かなり大きなモノらしい。すぐにドアを開け、グルリと車を回った。
「ンだぁ? これは」
思わず呟いた拍子に、口の端からポロリとタバコが落ちる。
彼の視線の先にあるもの。
それは、獣だ。
純白の身体に大型犬ほどの大きさのそれは、今まで見たことのあるどんな生物にも当てはまらず、だが、それでいて明らかに猫科であることが断定できた。
珍種だろうか。少なくとも、日本国内でよく見る生物ではないことだけは確かだ。
停まった車に、自ら突っ込んできただけである。パッと見たところ、大きな怪我は無さそうだった。息はあるし、どうやら脳震盪を起こしているだけらしい。
「ペットにしていたのが逃げ出しでもしたのか……?」
まあ、考えていても仕方が無いし、放置しておくのもナンだ。
「明日の朝にでも、新聞に出るだろう。金取られなきゃいいけどなぁ」
真也はできるだけ静かに車の後部座席に寝かせ、ジャケットを脱いで上に掛けてやる。
車が走り出して5分と経たないうちに自分の背後で起きた現象に、彼は気付かなかった。
*
これは、いつもの夢だった。
両親と、小さな妹と、まだ12か13歳の自分。
全員が揃っていた、最後の記憶。
鈴を振るような軽やかな笑い声に、珂月の胸は幸せな想いにはち切れそうになる。もう何年も前のことなのに、夢はいつでも鮮明だった。
珂月は暗闇の中で目を開け、幸せだけれども、哀しい余韻を味わう。
年の離れた幼い妹が紡ぐ、言葉。
普段のあどけなさを一掃して、どこか遠くを見るような眼差しで発せられるそれは、大きなことも、小さなことも、必ず現実となった。両親はその力のことを受け入れていたが、珂月には決して誰にも妹のことを話さないようにと何度も念押ししていた。
その力の代償なのか彼女は身体が弱く、療養の為にと、都会の喧騒から離れ、別荘地ですらない山奥で暮らしていた。
父と、母と、不思議な妹と。
誰も来ない土地で、平凡とは言えないけれども穏やかに過ぎていく日々。
そのか細い命の糸が、今日切れるか、明日切れるかと危ぶまれながらも、何とか迎えることができた6歳の誕生日の朝、彼女は忽然と姿を消した。前の日の晩、ベッドの中からいつものように笑顔でおやすみを言われたのが、最後だった。
何者かが侵入した形跡もなく。
争った形跡もなく。
残っていたのは、ただ一枚の紙切れ。そこには、こう、書かれていた。
――さがさないで。
驚くほどやる気の無い捜査の後、警察は、自分で出て行ったのだと、断定した。
まだ6歳で、生まれてこの方、独りで庭にすら出たことの無い妹だったのに。
父も母も、懸命に捜した。
捜して、捜して、捜して。
手がかり一つなくても、決して諦めなかった。
永遠に続くかと思われた捜索は、2年後、珂月が16歳の時に、唐突に打ち切られた――両親の事故死という形で。
父親の居眠り運転による事故ということで片付けられたが、珂月はそうでないことを知っていた。なにしろ、『その時』まで、助手席にいたであろう母と電話が繋がっていたのだから。
母は切羽詰った声で一方的に『研究所』とだけ告げ、その後は悲鳴になった。
両親の身体は歯型でしか判別がつかないような状態で、珂月には二人が死んでしまったのだという実感が持てなかった。だが、その不自然な両親の死で、確信したことがある。それは、妹の生存だった。両親は、何かを掴んだに違いない。
手がかりは、『研究所』という、その言葉一つ。
いったい、何の研究所なのか。どこの研究所なのか。
両親がどれほどの情報を得ていたかは謎だったが、彼らが亡くなったことで、またゼロに戻ってしまった。けれども、確かに、『何か』はあるのだ。
珂月が引き継いで、両親が費やした時間の何倍もの年月が過ぎようとしていたが、彼女もまた、諦める気は無かった。
あの子を見つけるまでは、自分の中では何も始まらない。
今の珂月には、妹を取り戻すことだけが全てだった。
再び、珂月は目を閉じる。
明日へと繋がる夜を明かすために。
だが、程なくして、彼女はその浅い眠りを破られることになるのだ。
*
「おい、さっさと開けろよ!」
インターホンに向けてそう言いながら、珂月は容赦無く呼び鈴を連打する。内側からドアを開けたのは、仕事の相棒である黒木真也だ。
「よう、寝てた?」
ヘラッと気の抜けた真也の笑顔に、珂月はイラッと腹の中が沸き立った。
一般的には、殆どの勤め人が電車の中にすし詰めにされているか、歩行者よりも遅い車の流れにいらいらしている時間である。つまり、多くの人間が覚醒し、活動している時間だ。しかし、彼女にとっては『早朝』の範疇に入る時間に呼び出された珂月は、寝起きの不機嫌この上ない様子を隠そうともしていなかった。
「寝付いて1時間てとこだったよ。くだらない用件なら、蹴り倒すぞ?」
冷ややかな微笑を口元に貼り付け、珂月は足で真也を部屋の中へ追いやりドアを閉める。
慣れた様子でリビングへ行くと、どっかりとソファに腰を下ろした。うっかりすると、そのままそこで寝てしまいそうだ。
「くだらないかどうかは、俺のベッドで寝ているモンを見てから決めてくれ」
「ベッド?」
珂月は薄目を開けて、真也を見やった。拾いものが人間の男であれば、そもそも拾ってこないか、あるいは、何かの気紛れで拾ったとしても、その辺の床に転がしておくだろう。
「女、か……?」
「まあ、女に見えない事も無い」
彼にしては歯切れの悪い言い方に、珂月は眉を片方持ち上げる。
「取り敢えず、見てみてくれ。俺にもよく解らん」
らしくない彼の様子に好奇心を刺激され、珂月は奥の寝室へと向かった。
だが、部屋に入り、ベッドからシーツを剥ぎ取ったところで、そこにあるものを認めて、切れ長の彼女の目がいつもより五割増しに見開かれる。
「おい、返答如何ではお前との付き合いは金輪際断たせてもらうからな。……正直に答えろよ」
地を這うような珂月の声に真也は肩を竦める。
「では訊くが、ベッドの中のあれは何だ……?」
そう言う彼女の指す先には、小さく丸めた背中を絹糸のような黒髪で覆った少女が、昏々と眠っていた――そう、第二次性徴が発来しているかどうかも怪しいような少女が、全裸で。
全身から殺気を漲らせている珂月から心持ち後ずさりながら、真也が答える。
「拾ったんだよ。だから、お前を呼んだんだ」
「本当か?」
「俺が嘘を吐いたことは無いだろう?」
「腐るほどある。何ならそのツケを、今、払ってもらってもいいのだがな」
まさに藪蛇。
「まあ、そうだったかもしれないが、今回は本当だ。マジで拾ったんだって」
「……」
無言のまま注がれた視線が、冷たく突き刺さる。
「信じろよ……」
そう呟いて肩を落とした真也を尻目に、珂月は少女の様子を検めた。傷らしい傷は一つもない。ただ、眠っているだけのように見えた。
この少女は、いったい、素っ裸で何をしていたというのか。
訝しげな視線を向ける珂月に、真也は溜息をつく。
「納得いかないだろう? 俺もだ。ついでに、拾った時は違う形をしていたって言ったら、どうする?」
「……はぁ?」
珂月は、思い切り間の抜けた声を出してしまう。
「拾った時はな、猫だったんだ。というより、猫科の何か、か」
「お前、寝ながら運転してたんじゃないか?」
「俺もこっちの姿を見た時に、一瞬、そうじゃないかと思っちまった。だが、違う。確かに猫だった。毛皮の感触まで覚えている」
目の前の人間を良く知らなければ、今すぐ医者に行け、と言っていただろう。しかし、真也との付き合いは6年に及ぶが、その間、ふざけたことをほざくのは日常茶飯事でも、本気でイカレたことはない。
腕組みをして考え込んだ珂月に、更に真也は小さな器械を取り出してみせる。それは小豆ほどの大きさの薄っぺらいものだった。
「発信器?」
「そう。ここに埋め込まれていた」
そう言いながら、真也は少女の髪を持ち上げ、右の肩甲骨の辺りに張られたガーゼを示す。傷はごく小さなものなので、ガーゼに血が滲んでくることもない。
「ちょっと、穏やかじゃないな」
「ああ。妨害装置を常備しているからこの場所がバレてるって事はまず無いが、厄介な事態だよ」
変身する少女の存在は百歩讓って受容することができるが、少女の身体に発信器を埋め込むような存在のことは、一万歩讓っても容認することはできない。
「まず間違いなく、どこかから逃げ出してきたんだよなぁ」
ボヤく真也に取り合わず、珂月は少女の身体に他に異常が無いかを調べた後、真也のシャツを着せてやった。そうしている間も、少女はピクリともせずに眠り続けている。
「サッパリ起きないな」
乱暴に扱ったつもりは無いが、これだけ弄り回しても全く反応がないとなると、流石に心配になってくる。珂月は少女の口元に耳を近づけたが、呼吸は穏やかそのものだった。まさに、ただ寝ているだけ、という風情だ。
身体に問題が無いことを確認し終え、今度は少女自身の観察に移る。
陶磁器のような滑らかな肌は、不健康に見えるわけではないが、東洋人としては少々白すぎるような気がする。そうかと言って、白色人種のような白さとも違っていた。反対に、腰の辺りまで届く長い髪は他の色を全く含まない漆黒で、掬い上げて手掌から零したらサラサラと音がしそうなほど、真っ直ぐな癖の無いものだった。安らかな寝顔はまだまだ幼さを残しているが、まろやかな甘い顔立ちだ。
年の頃は――妹と、そう変わらないだろう。12か、13歳。人捜しを請け負うことも多い仕事柄、年齢を見誤ることはない。
意識しないままに手が伸びて、珂月は少女の艶やかな髪を撫でていた。記憶の奥にしまっていた妹の髪の手触りがよみがえる。手放し難くて何度も繰り返しているうちに、少女がモソモソと動いて、珂月の手を探し当てる。眠ったままだと思った口元が不意に緩み、キュッと手を握り締めてきた。
懐かしい、その感触。
珂月の胸には、甘い痛みがこみ上げてくる。
少女の手をそっと外し、毛布の中にしまってやる――昔、よく、妹にそうしてやったように。
もう一度、少女を見つめ、真也に向き直った。
「それで、どうするんだ?」
珂月の視線を受けて、彼はニヤリと笑う。
「まずは、敵の事を知らなきゃな」
基本的に全ての女性の味方を自任している彼女の相棒は、すでにやる気満々のようだった。
*
「それで、どうする?」
珂月が少女を調べている間に用意したらしい、わざわざ豆を挽いて淹れたコーヒーを前に、彼女は切り出した。
真也は発信器を取り出すと、珂月の方へ指で弾いてよこす。
「こいつで、誘き出してやろう」
「壊してないのか」
「ああ。単に、こいつが出してる信号を妨害しているだけ」
仕事柄、発信器や盗聴器といったものに対する対策は万全だ。真也も珂月も、発信器などの信号を感知し、自動でその信号のみを妨害する電波を発信するという優れものの一品を常備していた。
「よし、じゃあ、どこかでやって、誰か一人連れて来い」
「俺独りでぇ?」
「やれるだろう」
嫌そうな声を出した真也に、珂月はにべも無い。それどころか、さっさと玄関から蹴り出しそうな雰囲気だ。いや、5分後にはきっとそうするだろう。
「ま、仕方がないか」
まだ眠ったままの少女を独りで置いていく訳にはいかないのも、当然といえば当然だ。真也はさほど食い下がることなく肩を竦めると、コーヒーを飲み干して立ち上がった。女性全般を大事にはするが、子どもの扱いは守備範囲外だ。彼としても、子どもを宥めすかすのより、気に食わない野郎をシメる方が遥かに得意だった。
「それじゃ、ちょいと行ってくる」
まるでタバコを買いにでも行くような軽い口調で片手を振り、真也はリビングを後にする。
「さっさと行って来い」
すげない珂月の言葉に、苦笑しながらも真也は玄関を出て行った。
実際、彼にとってはさほど難しいことではあるまい。仕事仲間としてそれなりに信頼しているからこその、珂月の態度だ。
そして、彼女が真也だけを行かせた訳は、もう一つあった。
それは、あの少女と、二人きりで話をしたかったからだ。
少女の持つ不思議な能力のことを聞いた時、珂月の脳裏を過ぎったのは妹を連れ去った奴ら――『研究所』のことだった。もしかしたら、この少女も『研究所』から逃げ出してきたのかもしれない。もしも彼女がそうであれば、妹の事を知っているのではないか。そんな一縷の望みがあったのだ。
真也には、「行方不明の妹を捜している」とは説明しているが、その妹が特異な力を持っていることまでは教えていない。全てを話してもいいかもしれないと思えるようになってはいるが、なんとなく伝えそびれたきり、今に至っているのだ。
珂月はベッドの傍に椅子を運び込み、座る。手を伸ばし、毛布の上から少女の肩に触れた。そこには微かにガーゼの厚みが感じられる。
この少女が妹の事を知っているとしたら、それは一つの光明ではあるが、同時に酷く暗い気持ちにもなった。
――年端もいかない少女にこんなことをする連中に、あの子も捕らえられているのだろうか。
姿が消えるその直前までは、傷一つつけないように、大事に護っていられたのに。
両手に顔を埋め、妹の名を呟く。
と、それがきっかけになったのかのように、少女から小さな声が漏れた。珂月はハッと顔を上げ、少女を見つめる。その睫毛が震え、ゆっくりと眼瞼が上がった。
現れたのは、不思議なほどに鮮やかな青。整った顔立ちに、陶磁器のような白い肌、漆黒の髪に青玉のような眼。作り物のような少女はぼんやりと珂月を見つめ、次の瞬間、ベッドから飛び降りた。焦りと恐怖で血の気が引いた顔で室内に眼を走らせる。危うく窓から飛び出しそうになったところを、珂月の手が辛うじて捕まえた。
「落ち着け。何もしない」
腕の中で暴れる少女をギュッと抱き締め、低い声で耳元に囁く。
彼女のあまりの怯えようが、胸に突き刺さった。
心の底からの想いを込めて「大丈夫だから」と何度も繰り返すうちに、徐々に少女の身体から力が抜けていく。充分に落ち着くのを待って手を放すと、恐る恐るという風情で少女が振り向いた。
「落ち着いたか?」
問われて、彼女は小さく頷く。まだ大きな黒目は揺れていたが、恐怖は消えているようだった。
「私は椎名珂月。……君は?」
それに答えようとするように、何度か桜色の唇が開きかけるが、なかなか声を発するところまでいかない。会ったばかりの人間をすぐに信用しろという方が無理な話で、珂月は焦ることなく、ジッと待った。
何度かの逡巡の後、少女はようやく意を決したようにキュッと唇を結んだ。
真っ直ぐに珂月を見上げ、名を口にする。
「――深青、です」
「そうか。で、深青、腹は空いていないか?」
「お腹……? 減っています」
軽く腹を撫でて、小さく首を傾げたその様子は、まるで空腹であることを訝しんでいるようであった。
「じゃあ、こっちへおいで。何か食べられそうなものを用意するから」
もう、窓から飛び降りるようなことはなさそうで、珂月は背を向けてリビングへ向かった。まずは、少女――深青の身体を万全にしてやる方が先だろう。
根掘り葉掘り訊くのは、それからでいい。