Ⅲ
紫は闇の中、ただ天井を見つめていた。
ヒタヒタと刻限が迫ってきていることを、感じながら。
自分の命はもうじき尽きる。だけど、不安はなかった。
遥は、きっと、自分自身の意志で選んでくれる。彼女が進む道を。
その確信は、決まった未来を見たから得たものではない。
紫はただ、人は皆、自分が進むべき道を自分で選ぶことができる筈だと信じているだけだ。
他人が敷いたレールの上を走るだけなら、機械にだってできる。
けれども、人はそうではない。
自分以外のものを感じ、関わり合いを持っていくことで、何かをしようと思い、進む道を決めていく。紫は、誰もがその力を持っていると信じている。
だから、『彼』が不当に道を奪っていくことを、許せない。
レールの上を走ることを強いるのが、許せない。
そう思う紫自身、傲慢な考え方をしているのかもしれない。
でも、知ってしまったのにただ見ているだけなんて、できなかった。
時が来るのを待っていて、もう、たくさんの子たちが道を奪われてしまった。
『過去』は取り戻せないけれど、『これから』は護ることができる。
そう、放っておけば、第二、第三の『彼』が連綿と続いていく。それを、紫は断ち切りたい。
それが、彼女の選んだ道だった。
*
自分は、どうしたらいいのだろう。
遥はベッドにひっくり返り、そう自問した。この問いを、いったい何度繰り返したことだろう。
あのペンダントの一件の後、すぐに紫の元に行った。数日ぶりに目にした彼女は更に細くなっていて、見た瞬間、冷たい手で心臓を握り締められたような心地がした。けれども、目の光は少しも変わりがなくて。いや、より一層、強くなっているような気さえした。
まるで、燃え尽きる前の炎のような、輝き。
もうすぐなんだ。
それが、解った。
紫の声で答えて欲しくて藁にも縋る気持ちで問い掛けたのに、彼女は微笑んで、言った。
「わたしは、答えをあげられないよ」
――なんで!?
紫が「こうしろ」と言えば、「こうして欲しい」と言うならば、遥はそれを選ぶつもりだったのに。たとえそれが暮林に背く道であろうとも。
「遥の道は、遥自身が選ばないといけないんだよ」
――それが、判らない。正しい道を教えて欲しいんだ。
「多分、『正しい』道なんてないんだよ。ただ、選ぶ道があるだけ。それは、色々なことを感じたその人自身が決めるものなんだから」
紫の指先が、そっと薄紅の翅を撫でる。
「わたしが遥の道を決めちゃったら、それはあの人と同じコトをすることになってしまうでしょ?」
それはしたくないんだよ、と彼女は笑う。
「遥は、ペンダントの女の子を見た時、何を感じた? どうしたいと思った? わたしといて、どんなふうに感じて、どうしたいと思う? そうして選んだ道が、わたしが進みたいと思っている道と重なっているといいな、とは思うけど」
――紫が選んだ道って、どんなもの?
「それは、まだ教えられないよ。教えちゃったら、それを選んじゃうでしょ?」
そう言うと、彼女は蝶を軽くつついた。
「ほら、そろそろ帰らないと。でも、覚えておいてね。わたしの時間は、もうあまり残ってないことを」
――……。
遥は、渋々浮かび上がる。紫が疲れてきていることが、見て取れたから。
そうして部屋を後にして。
あれから、また、3日が過ぎた。
その3日間、ひたすら考えた。
けれども、まだ、答えは見つからない。
紫は、自分に何かを望んでいる。それは、判った。だけど、いったい何を望んでいるというのか。
彼女は、どうしたい?
……自分は、どうしたい?
何度も何度も繰り返した問いを、更に重ねる。
と、不意に。
部屋のインターホンが高い電子音を鳴り響かせた。緊急時の呼び出しだ。
ぎくりと身体を強張らせ、受話器に手を伸ばす。
そこから聞かされる言葉は、わかっていた。
いつもと変わりのない口調での暮林の呼び出しに、遥は頷く。
「わかった。すぐ行く」
ついに訪れた、『その時』だった。
遥は、鈴を握り締める。
そして、部屋を出た。
*
自分自身の身体で紫の部屋に入るのは、初めてだった。そして、自分自身の目を通して彼女を見るのも。
蝶を通して見ていたのよりも、ずっと、小さくて華奢だった。
遥が近付くと、閉じられていた紫の眼瞼がわずかに開いた。その目がゆっくりと動き、遥を捕らえる。
今、この時でさえも、彼女のその目は変わらない。
最初に遥が囚われた光のままだった。
「さあ、頼んだよ、遥」
ベッドサイドに立つ暮林が、にこやかにそう言う。まるで、待ち望んでいた玩具を手に入れようとしている子どものような、顔で。
遥は無言で鈴を取り出す。
紫は、かすかに微笑んだように見えた。そして、何かを呟いたかのように。
最期の、一呼吸。
それきり、彼女は動きを止めた。
遥は鈴を振る。
リィン、と清らな音が静かな室内に響く。
リィン、リィン、と。
その音色と共に、遥の前には何かが凝り始めた。
それは、夜が明け始めた群青と、朝焼けの紅の、中間の色。
やがて、もやのようなものだったそれは一つの形を取り始める。『彼女』の名前そのものの色をした、一匹の蝶の形を。
確かな姿を得たそれは、ゆっくりと遥の周りを一巡する。
誘われるように、遥は手を上げ、指を伸ばす。
蝶はその先に止まると、優雅に翅を羽ばたかせた。
遥は、その美しさに目を奪われる。それは、まさに彼女の魂そのものだった。
彼女の肉体が失われてしまったことを悲しむと同時に、これからずっと共に在れることに、悦びを覚えた。
が。
「うまくいったな」
暮林の声が、静かな時間を打ち破る。
遥は、目だけを彼に向ける。
「さあ、これからは彼女にもどんどん働いてもらえるね」
暮林の、言葉。
その瞬間、遥は歩む道を選んだ。
*
深夜のヘリポート。
遥は一人、佇んでいた。
精神感応、遠隔視、透視、遠隔聴覚の力を駆使すれば、監視装置をすり抜けて動くことなど、なんでもないことだった。誰にも咎められることなく、立ち入り禁止のこの場所まで辿り着けた。多分、能力者たちにとっては、ここから抜け出すのなんて容易なことなのだ。
ただ、しようとしないだけで。
さほど待たずして、男が姿を現した。彼の前には、浅葱色の蝶がはためいている。彼女は、催眠の力を持つ者だった。
ヘリコプターの操縦士である彼は、操られるがままに機内に乗り込み、操縦桿を握る。
遥は周囲を舞う薄紅、山吹、浅葱、萌黄……と、色とりどりの蝶たちに向けて、囁く。
「もう少し、手伝って欲しい。そうしたら、解放するから」
そうして、ヘリコプターに乗る。
「飛んで」
遥の言葉で、プロペラが回転を始める。
次第に風と音を撒き散らし始めたが、浮いてしまえばこちらのものだ。
少し揺れながら、機体がゆっくりと浮かび上がった。
眼下に遠退いていく島を眺めながら、遥は紫色の蝶に語りかける。
「あたしは紫と一緒にいて、紫のしたいことを助ける。それがあたしの選んだ道。紫は、どうしたい?」
それに応えるかのように、彼女は一つ羽ばたきをする。
「……そう。わかった」
遥は、彼女に向けて頷く。
取るべき道は、決まった。