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fairy tale  作者: トウリン
シュウケツの時
34/35

 一行と別れた真也しんやは、まずはデータ室を目指した。何はともあれ、まずは情報を手に入れなければ。

 データ室の位置はすでに把握していたので、そこに行くのは容易なことだった。真也は五台あるうちのパソコンの一つの前に陣取ると、ナップサックからUSBを取り出す。

 スリープ状態のパソコンのキーを叩くと、当然のことながらパスワードを要求される。真也はUSBを挿し込んでエンターキーを押した。パスワード入力スペースでは様々なアルファベットがめまぐるしく明滅していく。やがて画面にはアスタリスクが記され始め、七つが埋まった時点で止まった。最後の仕上げとばかりに真也がエンターキーを叩くと、画面がパッと切り替わる。

「さあって、と。うはぁ……『Fairy Data』……やっぱ、これかね。ネーミングセンス最悪。『Still』――『Already』……そういう意味、なんだろうなぁ」

 ぶつぶつ言いながら、真也は『Still』のフォルダを開く。少女の数は二十人ちょうど――偵察した時から一人増えていた。深青みおの分だろうか。

 案の定、深青のファイルは末尾にあった。記載されているのは生年月日と能力についてぐらいで、まるで朝顔の観察日記だ。どこの生まれだとか、どんな性格だとか、少女たち自身についてのことは何一つ書いていない。ファイルにはそれぞれ添付データがあり、開いてみるとA,C,G,Tがランダムに並んでいた。それが塩基配列であることは、真也にもわかる。

「胸糞悪いな」

 そう吐き捨て、もう一つの『Already』のフォルダを開いた。少女の数は、百を越えている。基本的には、『Still』のデータと同じだったが、もう一つ、年月日の記載がある――没年月日なのだろう。生年月日からその日付までの期間は、どれも二十年に満たなかった。

 その中の一つに、真也の手が止まる。その生年月日、能力は、彼が珂月かづきから聞いていたものと同じだ。もう一つの年月日は、一年以上前のものだった。

「……」

 真也はそのデータだけを印刷すると、先ほどとは違うUSBを取り出した。そこには、強力なコンピューターウイルスが入っている。ここにつながるパソコン全てのデータを、完膚なきまでに壊し尽くしてくれるだろう。

 ここで得るべきものは、得た。

 あとは深青本人がどこにいるかなのだが。

 奥の方に、まだ探索していない部屋がいくつかある。恐らく、研究員や警備員の居住区域なのだろうが、行ってみないと確かなことは言えない。

 真也はデータ室を後にして、所長室の前も通り過ぎる。そこから先が、未知の領域だ。

 だが、さほど行かないうちに、あからさまに怪しい部屋が目に留まった。その部屋だけ、外付けで南京錠が取り付けられている。いかにも、急ごしらえのものだった。

 針金を取り出すと、真也はチョイチョイと鍵をいじる。それは、いとも簡単に開錠された。深青がいることを想定してはいたが、真也は銃を片手に、慎重に扉を開ける。

 果たして、そこにいたのは。

 真也は咄嗟に銃口を向ける。しかし、その相手は泰然とした様子で声一つあげることがなかった。

「あんた……」

 照準は合わせたまま、真也は眉をひそめる。彼には見覚えがあった。確か、愛璃あいりを助けに来た時に遣り合った相手で、結構腕が立つ男だった記憶がある。それが何故、こんなところに閉じ込められているのか。

 不審人物に銃を向けられているにも拘らず、男はフッと口元を緩めた。

「やはり、来たのか」

 真也の意図を承知でも、彼は一向に騒ぎ立てようとする気配がない。これは、どう対処すべきなのか、流石に判断に困る。

 そんな彼の心中を察したのか、男が自らの意図を明かす。

「私は柴山しばやまだ。ここの警備主任だ……った」

「過去形か?」

「まあな。所長とぶつかった」

「所長と?」

「ああ。だが、そんなことよりも、君はあの子を迎えに来たのだろう?」

「……」

 無言を返した真也に気を悪くするふうもなく、柴山が淡々と続ける。

「だったら、早く連れて行ってやってくれ。あんな扱いはあんまりだ。私も、もうついていけない」

「あんな扱い?」

「そうだ。元々『まとも』とは言いがたかったが、彼は、どんどんおかしくなる一方だ。今の所長は、もう常軌を逸している。あの子たちは、まるで彼のオモチャだ。彼が最終的に望んでいるものが何なのかはわからないが、ろくでもないことなのは、確かだろう。そして、その望みを叶えるためなら、手段を選んでいない」

 柴山の言葉に、真也の中には不安が募ってくる。一度皆の元に戻った方がいいのだろうかと、彼にしては珍しく、迷いが生じた。と、その顔色を読んだかのように、柴山が眉をひそめる。

「他にも、来ているのか?」

 彼の問いに、わずかに逡巡した後、答える。

「ああ」

 真也の肯定に柴山はしばらく考え込み、再び口を開いた。

「ここに来て、どのくらい経った?」

「え?」

「時間は、結構経ったのか?」

「それなりには。お宅の警備員たちも片付けたりしていたし」

「でも、所長は姿を現していない?」

「そりゃ、出てこないだろう。ひ弱な研究者が侵入者の前に出てきてどうするってんだ? だいたい、愛璃に八つ裂きにされるぞ」

「あの子も来ているのか。他にもいるのか? 他の者は、何をしている?」

 眉を潜めた柴山が、矢継ぎ早に訊いてくる。その様子に怪しい気配はなく、単純に、こちらの事を案じているように思われた。

 ここまで聞いたら、もうこちらの手の内を明かしてしまってもいいのかもしれない。そう、真也は腹をくくる。これが罠なら、その時はその時だ。

「もう一人、助けに来た子がいるんだ――『子』ではなく、『女性』だな。かなり昔に連れてこられたらしい。十年位前かな。その彼女を助けたいという男も一緒だ」

春日悠一郎かすが ゆういちろうか?」

 にわかに、柴山の顔が険しくなる。

「知っているのか?」

「所長が最も執着している能力者の関係者だ。『彼女』への入れ込みようは、他の子たちの比ではない……まずいな」

「何が?」

「信じ難いかもしれないが、所長は、何らかの方法で『能力』を手に入れたらしい。少なくとも、念動力と精神感応は持っている筈だ」

「そんなことができるのか?」

「私は、身をもって味わった。君たちが来ていることにあの人は気付いている筈だ。そして、対抗する為の力も手に入れている。それでも何も仕掛けてきていないということは、何か意図があるに違いない。所長は眠り続ける『彼女』を起こそうとしていたんだ。恐らく、春日悠一郎が『彼女』を目覚めさせるのを待っているのだろう」

 真也は、嫌な予感が『予感』ではなくなったことを悟る。即座に身を翻して、他の皆がいる筈の所長室へと走った。柴山が追いかけてきていることには気づいていたが、構っている暇はない。

 彼らに何も起きていないことを、心底から、祈った。


   *


 恵菜えなに助け起こされながら、愛璃は射殺さんばかりの眼差しを暮林くればやしに向ける。彼が使ったのは、明らかに念動力だ。そして、その力は深青によって増幅されているに違いない。だが、いったい、どうやって彼は『力』を手に入れたのか。

 いいや、それよりも。

 人形のような目で暮林の隣に立つ深青に、愛璃の胸の中は怒りで焼き尽くされそうになる。彼は、深青に何かをしたに違いない。そうでなければ、彼女があんな目であんなふうにおとなしくしている筈がなかった。

「深青!」

 愛璃は彼女の名前を叫ぶ。その碧玉のような目が一瞬苦しげに揺れたが、それだけだ。

「深青! あたしを見なよ! 迎えに来たんだよ!」

 彼女の目から、コロリと雫が零れ落ちる。聞こえている――愛璃の声が届いてはいるのに、何かが邪魔をしている。奥歯を砕きそうなほどに噛み締めた愛璃に、暮林はやれやれと言うように肩をすくめる。

「今のこの子には、僕しかいないよ。ね、深青? 君の『大事な人』は誰だい?」

「所長です」

 顔を覗き込んだ暮林に向き直ることもなく、条件反射のように深青が答える。彼女が正気でないことなど、一目瞭然だった。

「あんた! 深青に何をしたんだよ!?」

 そう叫びながら、愛璃は再び力をぶつける。だが、やはり、それは何の効果ももたらさなかった。だが、おそらく、暮林一人であればたいしたことはないのだろう。深青を引き離すことさえできれば、いいのだが。

 目の前にいるのに助けられないもどかしさに、愛璃は歯噛みする。と、唐突に、強烈な力で床に押え付けられる。見れば、銃を取り出した珂月かづきも、まるで見えない手で捻り上げられているかのように、右腕を高く掲げていた。

 このまま、何もできずに敗れるのか。

 愛璃が悔しさに唇を噛み締めた、その時。

 悠一郎ゆういちろうの腕の中にいる女性――アヤが、スッと腕を伸ばした。と同時に、愛璃の身体にかかっていた力が緩む。

「流石、僕のタイターニア。深青の力を使っても、敵わないのか」

 そう言った暮林の声に悔しさはなく、どこか嬉しそうですらあった。そして彼は白衣のポケットに手を入れると、何か小さな装置を取り出す。

「君には、こっちの方がいいよね」

 その台詞と共に、彼がその装置をいじる。何が起きたわけでもない。だが、暮林のその動作で、アヤが不快そうに微かに顔を歪めた。

「どうだい? 愛璃なら解るかな。あの低周波音発生装置の改良版さ」

 暮林が得意げにそう言うが、他の者には何の影響も出ていない。何故、彼女だけが反応しているのか。

「アヤ?」

 悠一郎が心配を滲ませた声をかける。それには答えず、彼女は顔を顰めたまま、後頭部の辺りに手を当てた。そしてその手を握る。

 と、アヤの近くにいる者が、一様に軽く顔を顰めた。

「何だ?」

 珂月が呟きながら、耳を擦る。

 遥や悠一郎も、耳が気になるようだ。

 一同が怪訝な顔をする中、アヤが手を開く。そこにあったのは、大豆ほどの大きさの、金属製の何かだ。彼女の手の上で、それは唐突にはぜる。

 暮林に目をやれば、呆気に取られたようにポカンと口を開いていた。その隙をかいくぐって、紫色の蝶が真っ直ぐに深青の元に飛んでいくのが見える。蝶は深青の頭の上にとまると、何かを言い聞かせでもしているかのように、ゆっくりと翅を開閉させた。

 そして――

「お前! まさか!」

「……――!」

 暮林が蝶に気づくのと、深青の目が輝きを取り戻すのとは、ほぼ同時だった。

「クソッ!」

 暮林の短い罵りと共に、蝶が叩き落とされたかのように弾き飛ぶ。

ゆかり!」

 遥がその名を叫ぶ。珂月がハッと振り向いたが、遥は手の中に連れ戻した蝶の様子を確かめるのに全神経を向けていて、彼女の驚愕と――幾何かの納得を含んだ眼差しには気付いていなかった。

 正気を取り戻した深青は、自分の眼前の状況に目を見開く。

「所長――愛璃!? あ……いやッ! 放して!」

 腕を掴む暮林の手を振りほどこうとしてもがき、それが叶わないことを悟って姿を変え始めた深青の頭を、暮林の拳が強打する。

「深青!」

 咄嗟に駆け出そうとした愛璃に、恵菜がしがみつく。

「もう、ちょっとは頭を使ってよ! また痛い目見るだけでしょ!?」

 脳震盪で意識を手放した深青を小脇に抱え、徐々に手札を失いつつある暮林が一同を睥睨した。

「まったく。まあ、いいよ。こつさえ掴めば、共振させるのなんて簡単だからね」

 それが虚勢なのか、本物の自信なのかは判らない。だが、いずれにせよ、彼に退く気がないのは明らかだった。

 もう一度、珂月が暮林に銃を向けかけたが、銃口が上がりきらないうちに吹き飛ばされ、奥の壁に叩き付けられる。

「かはッ!」

 背中から全身に広がる衝撃に、珂月が一瞬呼吸を止めた。その彼女に向かって、更に、重厚な机が飛んでいく。

「珂月!」

 愛璃は咄嗟に阻止しようと試みたが、完全には制止できず、それは投げ出された珂月の脚の上に圧し掛かった。ボキリと、鈍い音が響く。

「グウッ」

 呻き声が、堪えようもなく彼女の口から漏れた。

 暮林の目が珂月に注がれている隙に、悠一郎が銃を探る。だが、それすらも彼には容易に見破られた。

「無ぅ駄だよ」

 唇を引くようにして笑った暮林の眼差し一つで、銃を手にした悠一郎の右腕が吊り上げられ、そのまま天上付近へと持ち上げられる。

「さぁて? ただ落としただけじゃ、たいしたことないよね。少し、勢いつけようか」

 暮林の台詞と共に、悠一郎の身体がぐらりと揺れ――落ちる。が、彼の言葉とは裏腹に、それは雲の上にでも下りるような、フワリとした軟着陸に過ぎなかった。次いで、珂月の脚の上にある机も見えざる手に持ち上げられ、そっとどかされた。

「!? ――ああ、君か」

 苦々しげな呟きと共に、暮林の目は相手を違えることなく向けられる。それを受け止めたのは、深紅の眼差しだった。

「もう、やめて。その子を放してあげて」

 静かな声で、アヤが言う。その声には、驕りも優越感もない。だが、その場にいた誰もが、彼女の有利を感じていた――理屈ではなく、直感で。

 だが、暮林は嗤う。

「イヤだね。この子も、君も、僕のものだ。誰にもやらない。今ね、君のクローンを作ってもらっているところなんだ。素晴らしいだろう? 『それ』に色んな力を組み込んでやれば、最高の妖精ができ上がる。ああ、君の守護者が必要だからね、僕もクローンを作って、いつまでも君を護ってあげるよ」

 うっとりと、まるでそれがアヤにとっても最高の幸せだと信じてやまない声音で言う。狂信的で己の妄想に浸りきった男に、その場の誰もが怖気を震わずにはいられなかった。

 だが、己に集まる皆の視線に、暮林は全く頓着しない。彼の頭の中にあるのは、ただ、自分の目的を達成することだけのようだった。

「まあね、『今の』君は身体さえあればいいわけだから、ね」

 小さくそう呟いた彼から何かが迸り、真っ直ぐにアヤに向かう。が、それは彼女に到達することはなく、ちょうど二人の中間辺りで、音にならない音となって空気を震わせた。

 拮抗する力に、他の者はただ固唾をのんで見守るだけだ。

「無理よ、あなたでは勝てないわ」

 気負いのない穏やかな声で、アヤが言う。対する暮林は奥歯をギリと噛み締めた。

「やってみなければ、判らないだろう? もっともっと深青の力と共振させれば……」

 それは、肯定なのか、それとも否定だったのか。暮林の台詞に、アヤは微かに目を伏せ、そしてまた、真っ直ぐに彼を見つめた。

 と同時に、暮林が何かに押されたように、一歩後ずさる。

「ぐぅ……」

 堪えるように呻き声を上げ、その場で脚を踏ん張っている。また、しばらくの膠着。

 だが、次第に情勢は明らかになってきた。

 ツッと、暮林の鼻孔から血が滴り落ちた。それはポタリポタリと、床に模様を描く。そして、彼の外見にも明らかな変化が現れ始めた。髪が白く、そして、皮膚には皺が刻まれて。

「所長! もうやめて! それ以上やったら……!」

 恵菜が悲鳴をあげるのへ、彼はチラリと目を走らせることもしなかった。その頭の中にあるのは、欲しいものを手に入れたいという妄念だけなのか。

「恵菜、ムダだよ」

 愛璃はそう囁いて、恵菜を抱き寄せる。所長が、恵菜に限らず、少女たちの声にほんのわずかでも耳を傾けるような男であったなら、ここは全く違う場所になっていた筈だ。もしかしたら、愛璃と深青も、ここを安住の地にできたかもしれない。だが、彼の妄執だけから生まれたこの場所は、最初から歪んでいた。いずれ、崩れ落ちる運命だったのだ。

 その時が、今、訪れたのだ。

 アヤと暮林の無音の戦いに気を取られていた一同は、そこに介入せんとしている人物に気付かなかった。唯一、同じPKを持つものとして、この戦いの先を悟っていた愛璃を除いては。

 愛璃は、勝ち目がないにも拘らず勝利にしがみつこうとしている暮林から目を逸らす。と、戸口の陰に身を潜ませている真也と目が合った。彼は、人差指を立てて、唇に当てる。アヤと対峙するのに必死な暮林は、彼の存在に気付いていないようだった。

 獲物に飛び掛る猫の素早さでパッと真也が飛び出し、背後から深青を奪い取る。

 驚愕に瞠目した暮林が真也と深青の姿を目で追うのと、その身体を不可視の何かが襲ったのとは、ほぼ同時であった。

 アヤの力に対抗する術を失った瞬間、暮林の身体はまるで大砲で撃たれたかのように飛ばされ、遥かに離れた壁に衝突し、ズルズルと崩れ落ちる。うつむいた顔から滴り落ちている血は、鼻からのものなのか、それともまた別のものなのか。

 深青を抱いたまま、真也が壊れた人形のように壁にもたれかかる暮林に歩み寄る。彼が辿り着く前に、もう一人、男が暮林の前に跪いていた。確か、警備員の一人ではなかっただろうかと、愛璃は首を傾げる。そんな男が、何故、この状況であんなふうにしているのだろう、と。

「よう、お疲れさん」

 隣に立つと、真也は何事もなかったかのようにそう言い、腕の中の深青を愛璃に渡してくる。彼女は眉間に軽く皺を寄せているが、大きな怪我はなさそうで、ホッとする。思わず、強く抱き締めた。

「所長……?」

 駆け寄ってきた恵菜が、床にぺたりと座り込んで暮林を覗き込む。四十歳そこそこだった筈の彼は、今、八十歳の老人と言っていい様相になっていた。

「所長?」

 もう一度、恵菜が呼びかける。と、ぐったりと落ちていた暮林の肩がピクリと震えた。そして、薄っすらと目を開ける。

「やあ……恵菜?」

 彼の目が恵菜を捉え、名前を呼ぶ。そのことに、恵菜の顔がパッと輝いた。だが、続いた暮林の言葉は、彼女を全く見ていないものだったのだ。

「ああ、残念。もうちょっとだったんだけどなぁ……悔しい……ああ……僕の、タイター――……」

 そして、それを最後にピクリとも動かなくなる。完全な、静止。

 真也が跪いて首筋に触れると、無言で首を振った。

「恵菜……?」

 凍りついたように動かない彼女に、愛璃はそっと声をかける。すぐには、何も返ってこなかった。だが、やがて、恵菜は小さな笑みを漏らす。

「フフッ。結局、所長はちっともあたしのことなんか頭になかったんだな。最期の最期で、何か言ってくれるかと思った」

 ばかみたい、と最後に呟いて、彼女は勢いよく顔を上げる。その頬は乾いていた。愛璃の眼差しに含まれているものに気付いて、バカにしたように片方の眉を上げる。

「何よ、泣いているとでも思ったの? そんなわけないじゃない」

 一瞬、愛璃はむっとしたが、小さく続いた「とっくに諦めてたわよ」という彼女の呟きに、押し黙る。本心なのかどうなのかは判らない。けれども、彼女がそう言うなら、そういうことにしておこう、と思った。

 恵菜と暮林から目を逸らした愛璃の腕の中で、深青が小さく何かを呟いた。視線を落とすと、彼女の目蓋が上がり、そこから碧玉が覗く。先ほどとは違い、ちゃんと愛璃を見てくれる光を宿して。

「……愛璃?」

 名前を呼び、フワリと微笑む。その笑みが、どれだけ愛璃の胸を温めるものであるのかを、深青は知っているのだろうか。ギュッと抱き締めると、深青も同じ強さで抱き返してくれる。

「もう! 何だってあんなことしたんだよ!? あんたが捕まって、あたし……」

「ごめんなさい。危ないって思ったら、飛び出してた。心配掛けて、ごめんね」

「もう! ……もう、いいよ。ちゃんと、取り戻せたから……。でも、あのまま別れ別れになってたら、ただじゃおかなかったからな!」

「うん、判ってる。……ごめんね、もう離れないからね」

 その約束は、今度こそ、二度と破られないだろうと、愛璃は思った。


   *


 珂月は、遠目に一連の出来事を眺めていた。

 多分、脚は折れているのだろう。しばらくは難儀するに違いない。深青に言えば即座に治してくれるだろうが、そうする気はない。彼女たちの『特殊な力』に珂月自身が頼るつもりはなかった。

 やがて、全てが終わったらしく、真也が珂月の方に歩いてくる。

「よ、調子どう?」

「痛いよ」

「おや、ま。ちょっと診せてみ」

 そう言って、しばらく珂月の脚をいじっていたが、適当な棒を探してくるとそれを副木にして、手早く脚を固定した。

「取り敢えずは、これでいいか」

 そう言ったきり、しばらく黙って珂月の顔を見つめてくる。

「ナンだよ?」

 怪訝な顔でそう訊くと、真也は小さく息を一つ吐いてポケットの中を探った。取り出した紙を、無言で珂月に差し出す。

 受け取ったそれに書かれていたことに、彼女は、目を閉じた。そんな珂月に、真也が呟く。

「すまねぇな」

 いったい、何に対しての謝罪なのか。

 もたらしたものが悪い報せだったことか、それとも、あの子を助け出せなかったことなのか。

 珂月は、視線を巡らせて遥を探す。彼女は、離れた場所からジッと珂月を見つめていた。しばらくその眼差しを受け止めて、やがて頬を緩める。

 彼女が『その名』を呼んだ時、全てを理解した。いや、その前から、薄々気付いてはいたのだ。妹は――珂月の妹である紫は、もういないのだと。

 今日を最後に、自分は新しい道を歩き始める――そうしなければ、いけない。

 すぐには切り替えることはできないだろう。けれども、ゆっくりでもいいから、変わっていくべきなのだ。

 ――そうだろう、紫。

 すぐ近くにいるだろう彼女に、珂月はそっと心の中で囁きかける。その囁きにいらえがあったと思ったのは、気のせいだろうか。

 ――そうだね。大好きだよ、お姉ちゃん。でも、さよなら。

 その声は、記憶に残るものよりも大人びていて。でも、少し甘えるような口調は、紫そのものだった。

 微かに笑んだ珂月に、真也が首を傾げる。

「珂月?」

「なんでもない……なんでもないんだ」

 そう言って首を振った珂月に、真也は「そうか」と答えただけだった。

「じゃ、行くか」

 真也はその言葉と共に珂月の隣に屈んだ。てっきり肩を貸してくれるのかと思った彼女は、真也の肩に素直に腕をまわす。が、彼はそのまま珂月の背中と膝裏に腕を入れると、一息に立ち上がった。

「ちょ、お前、何のつもりだよ!」

「え? お姫様抱っこ」

「はぁ!?」

「だって、お前歩けないじゃん」

 もがいて下りようとしても、完璧な真也のホールドは崩せない。

「肩を借りるだけで充分だ! 下ろせ!」

「ま、いいからいいから」

 真也の腕に力がこもり、よりいっそう身動きが取れなくなる。この格好で皆の近くに行くのは、はなはだ不本意だ――不本意だが、まあいいか。珂月は、諦めの溜息を腹の底から吐き出した。

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