表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
fairy tale  作者: トウリン
シュウケツの時
33/35

 悠一郎たちが行く場所は決まっていた。

 目指すのは、真也から聞いた所長室の奥にあるという部屋だ。

「所長室の中には、誰もいなそうよ?」

 中を探っていた恵菜が、皆を振り返ってそう言った。珂月は彼女を下がらせると、銃を手にした悠一郎に目で合図を送ってきながらドアノブに手を掛ける。

 悠一郎が頷くと同時に、珂月はドアを開け放った。

 右、左、中央。

 悠一郎は、素早く、だが確実に、部屋の中全てに銃口を向ける。廊下の光が差し込んだだけのその中は薄暗く、見通すことは困難だ。しかし、そこに息づくものがいないことは、確かだった。それでも警戒を解かずに室内に足を踏み入れ、手探りで部屋の照明のスウィッチを探す。

 明るくなってまず目に付いたのは、大きなデスクだ。その上には、何もない。というよりも、この部屋はいったい何に使っているのだろうかと疑問に思うほど、何もなかった。

「春日さん、あれ」

 珂月が顎で示した方向にあるものに、悠一郎も頷く。そこには、真也が言っていた通り、隣に続くドアがあった。

「あの向こうには、誰かいるわ」

 恵菜が眼差しを鋭くして断言する。

「所長、か?」

「違う。別の人。もっと若い感じ。一人だけ。警備員じゃないわね……研究員?」

「いずれにせよ、危険は少ないか。行くぞ」

 先ほどと同じ要領で、続き部屋への扉の前で身構えた。

 そして、一気に押し入る。

「な……なんだ!? 君たちは!?」

 中にいたのは恵菜が読んだとおり、白衣を着た若い男一人きりだった。彼は突入した悠一郎の姿に、後ずさる。だが、悠一郎の目が捉えていたのは、唯一つ――部屋のほぼ中央に置かれた、巨大な物体だけだった。彼は、それに、歩み寄る。

 ツルンとした、悠一郎でも余裕で横たわれそうなほどの大きさの、卵。

 それは金属でできていて、中を見ることはできない。

「おい」

「は、はい!?」

 悠一郎の短い呼びかけに、若い男は怒鳴りつけられたかのように、跳び上がる。

「これを開けろ」

「え……ええッ? それは、できません。所長の許可がなければ……」

「これは、許可の代わりにならないか?」

 言いながら、彼は銃口を男の頭にゴリゴリと押し付けた。研究員の顔は、蒼白である。だが、それでも、彼は小刻みに首を振った。

「そんな柔そうなふりして、意外と骨があるんだな」

 珂月が感心したように呟く。そして、恵菜に振り返った。

「恵菜、どうだ?」

「ふふ、ばっちり――これね」

 にんまりと笑い、恵菜がいくつかのスウィッチを押す。

「あ、あ、あ……ちょっと、待って! 何で!?」

 彼女の力を知らないのか、研究員は悲鳴混じりの声をあげる。だが、その甲斐なく、彼の目の前で、それは開かれた。狼狽する彼を、もう用はないとばかりに悠一郎は気絶させる。

 そして振り返った悠一郎の目は、その中に横たわるものに吸い寄せられる。

 年の頃は、二十歳ほどか。精緻な人形のように、整った顔。

 手を伸ばし、その頬に触れる――温かい。

 そのまま掬い取った髪は、殆ど銀色のような、白髪だった。

 これは、アヤなのだろうか。そう思い、頷く。ああ、確かに、彼女だ。

 年齢が違う。髪の色も違う。

 悠一郎の記憶の中の姿と異なるのに、何故か彼女だという確信は揺るがない。

「迎えに来たぞ」

 彼女の頬を両手で包んで、囁きかける。だが、アヤは睫毛を震わせる気配もなかった。

 悠一郎は目蓋を閉じて、奥歯を噛み締める。

 やはり、彼女は目覚めないのだろうか。

 そう思った時。

 そっと彼の肩に何かが触れる。顔を上げると、遥の静謐な視線が彼に注がれていた。

「やるんだよね」

 彼女のその言葉は、質問ではなく確認だ。その顔に、悠一郎は深い頷きを返す。

「頼む」

 彼のその返事と共に、どこからともなく、紫色の蝶が現れた。それはフワリと一回りしたかと思うと、軽やかに悠一郎の肩へと舞い降りる。

 その瞬間。

 悠一郎の意識は、どこかへと落下を始めた。

 深く、深く――どこまでも深く。

 ふと気づいた時、彼は何もない、ガランとした空間に佇んでいた。

 ――ここは……?

 辺りを見回すが、何一つ、ない――いや、遠くの方に、何かがある。

 アレは何だろうか。

 黒い床、黒い空。暗くはないが、黒い世界。

 その中に、ポツンと、白いものがあった。

 目を細めてその正体を見極めようとする悠一郎に、唐突に声が掛けられる。

「悠一郎」

 振り向いた先にいたのは、一人の少女だ。肩までの真っ直ぐな髪は金色で、明るい紫色の目が真っ直ぐに彼を見上げている。

「君は……?」

「早く行こう」

 彼の問いには答えず、少女はニッコリと微笑むと、先に立って歩き出した。彼女が進む方向には、あの白いものがある。

 悠一郎は、ええいままよと、その不可思議な少女の後を追う。

 遠く離れているように思えた『それ』に、二人は意外なほどあっという間に辿り着く。間近で見ると、それは、卵そのものと思われた。わずかな傷も染みもない、大きな、純白の卵。

「さあ、『彼女』に触れて?」

 その卵の隣に立ち、少女が促す。言われるがまま、悠一郎は手を伸ばした。触れたそれは、ほのかに温かい。

 卵の上に置かれた彼の手に、少女の小さなそれが重なる。

 と、同時に。

 悠一郎の手は卵の殻をすり抜け、その中へと入り込む。強いめまいに思わず目を閉じた彼は、いつしか、また別の場所にたった一人で立っていることに気がついた。もう、ただ、暗いだけの場所に。少女の姿は消えていた。

「誰も、いない……?」

 そう呟いた悠一郎の頭に、先ほどの少女の声が響く。

 ――あなたが思う方に、進んで? あなたの大事な人のことを、想いながら。ほら、声が聞こえるでしょう?

 彼は、耳を澄ます。

「聞こえない……何も……」

 ――諦めたら、ダメだよ。あの人は待っているんだから。そこに入れたっていうことは、あの人に望まれているっていうことなんだよ。

 励まされて、悠一郎は必死でその『声』を探す。彼女が求めてくれているのならば、応えたい――応えたいのだ。

 悠一郎は、目的を定めることなく、一歩を踏み出す。

 どれほど歩いたことだろうか。

 やがて、いつしか周囲がほのかな明るさを帯び始めていたことに気付く。

 見え始めてきたのは、葉が青々と茂る木々。

 彼には、見覚えがある光景だった。

 ――この先だ。

 そう思うと気が逸り、自然と小走りになる。そしてじきに、全力疾走で『いつもの場所』を目指していた。そして、彼は辿り着く。

 そこに、彼女は、いた。

 白いワンピースを着た少女が、背中を向けて立っている。年の頃は、十四、五だろうか。柔らかそうな栗色のクセ毛が、腰の辺りまで覆っていた。

 悠一郎の気配に気付いたのか、彼女が振り返る。が、彼の姿を認めた途端、溢れんばかりの笑みが、ふっと怪訝そうなものに変わる。

「おじさん、誰?」

 その目も、鼻も、声も、全て彼の記憶の中にある彼女の――アヤのものだ。

「アヤ」

 思わず一歩を踏み出した悠一郎に、彼女は一歩を後ずさる。

「何で、わたしの名前を知ってるの?」

「オレは……オレは悠一郎だ。お前を、連れ出しに来たんだ」

 手を差し伸べながらの悠一郎の言葉は、しかし、彼女に一蹴される。

「ウソ! ユウ君はまだ大学生だもの。あなたみたいなおじさんじゃないわ!」

 騙されないんだから! と言わんばかりに、彼女はプイと顔を背けた。が、チラリと横目で覗いてくる。

「でも、イヤな感じじゃないのね……何でか判らないけど、わたし、あなたのこと好きかもしれない。『悪いヤツら』じゃ、ないよね。ママとパパが、その人たちが来たら、すぐに逃げなさいって言うの」

 そこで彼女は、ふっと視線を彷徨わせる。何かを探すように。

「この間ね、『悪いヤツら』が来たの。わたしだったらやっつけられるのに、ママとパパは絶対に人を傷付けたらダメだって言うから。だから、わたし、逃げたんだわ。そうしたら、ママたちとはぐれちゃったの。わたし、ここでずっと待ってるんだけど、なかなか来てくれないんだ。おじさんは、知らない?」

 その言い方はどこかあやふやで、眼差しは途方に暮れた迷子のようだ。アヤの時間は、どこで止まっているのだろう――両親が亡くなる前か、後なのか。

 悠一郎は、また一歩前に出る。今度は、彼女は動かず、ジッと彼の動きを見守っているだけだ。

 彼は一つ息を呑んで、拳を握る。

「……お前の親は、来ない」

「ウソ! そんなウソ言わないで! ママもパパも、ちゃんと来るんだから!」

「嘘じゃない。だから、オレが迎えに来たんだ。一緒に、ここから出よう。オレがお前の好きなところに連れてってやるよ」

「いや……いや! わたしはここにいるんだから! ここでママたちを待つんだから!」

 そう叫ぶなり、アヤは頭を抱えてしゃがみこむ。悠一郎はそんな彼女に歩み寄ろうとしたが、不意に一瞬視界がぶれた後、二人の間に彼ら以外の者が現われる。

 それは、どこか、板の隙間から覗いているような光景だった。背景は洋風な応接間だ。そこで、一組の男女がむさくるしい男たちに捕らわれている。二人を拘束している者の他にも五、六人の男がおり、彼らは皆黒いスーツを着用しているが、どう見てもサラリーマンではない。あろうことか、その手には拳銃まで握られているではないか。

 男たちはウロウロとそこいら中を家捜ししている。そのうちの一人が、悠一郎の間近までやってきた。

 と、唐突に。

 捕らわれていた男性が、暴れ出す。がむしゃらに四肢を振り、近くの男に体当たりをする。細身の身体にも拘らず、それは狂った猛獣のようだった。

 男たちの怒声。

 響いた銃声。

 崩れ落ちる男性。

 女性が悲鳴をあげ、床に倒れ付した男性に縋りつく。

 男たちのうちの一人が腕を捕らえて引きずり上げようとしたが、彼女はそれを振り払うと身を翻らせて、男に掴みかかった――銃を持った男の腕に。

 あまりに、無謀すぎる行動だった。

 だが、何を護ろうとしているのか、必死な彼女の抵抗は、屈強な男も持て余すほどのもので。

 再び響いた破裂音。

 先ほどの男性と同じように、倒れこむ、女性。

 彼女は一瞬――ほんの一瞬だけ、悲しそうな眼差しを悠一郎の方に向けた。それきり、動かなくなる。

 凍り付いていた悠一郎の身体は一気に沸騰し、口からは悲鳴が飛び出す。それと共に、目の前を遮っていた板が、吹き飛んだ。

 部屋の中の男たちが、一斉に振り返る。何か言っていたが、悠一郎の耳には届かなかった。彼の頭は何も考えることができない。

 男たちは悠一郎の方に押し寄せてこようとしたが、部屋のあちこちで物が破裂し、炎が噴出したのを見て、右往左往し始める。そして、ソファやテーブルが浮き上がり、飛び交い始めたところで、収拾がつかなくなったことを悟ったらしい。彼らは我先にと部屋から、家から飛び出していった。

 たった独り残った中で、破壊は続く。

 木やガラスが砕ける音に、鼓膜が破れそうだ。

 だが、彼の目は、ただ一点だけを見つめている。床に伏せてピクリとも動かない男女の姿がある、その一点を。

 際限なく破壊が続く中、フラフラと彼らに近付き、触れて、揺する。

 どちらもまだ温かいのに、動かない。呼びかけても、答えない。

 ――どうして。

 その呟きを最後に、彼の視界は暗転した。

 ハッと目を開けた悠一郎は、うずくまったままの少女を見下ろす。周りには、もう、何もない――木の一本すらも。

 たった今まで目にしていた光景は、アヤが『あの日』経験したことなのか。

 何故、その時、自分は彼女の傍にいてやれなかったのか。

 当時十八歳の――何の取り柄もない若造がいたところで、何の役にも立たなかっただろう。自分も巻き添えを食って、むしろ、アヤの傷を増やしただけだったかもしれない。

 だが、それでも悠一郎は、絶望の淵に追いやられてしまった彼女の傍にいて、抱き締めて、自分が傍にいるから、と言ってやりたかった。

 アヤは、全てを拒むように、小さく縮こまっている。

 元の半分――いや、十分の一でもいい。

 軽やかな彼女の笑顔を、取り戻したい。

 その衝動に駆られて、悠一郎は手を伸ばす。もう少しで、アヤに触れようとした、その時だった。

 不意に、彼女が顔を上げる。そこにいるのは、もう、少女ではない。成人した女性だ。

 髪は新雪のような白銀に、目は紅玉のような深紅に、変わっていた。そして、その眼差しは、暗い。

「触らないで。わたしに近寄らないで。放っておいて」

「アヤ……」

 彼女が、立ち上がる。と、悠一郎の身体が、何かの力でグイと後ろに追いやられる。

「わたしに関わらないで」

 また、一押し。

 近寄ろうとしても、強固な壁が悠一郎を阻む。

「わたしがこんな『化け物』だから、ママとパパは死んじゃったのよ。わたしなんかが生まれなければ、二人とも、死なずに済んだのよ――わたしが殺したんだわ!」

「アヤ!」

 彼女の慟哭と共に、周囲の空気が唸りを上げる。逆巻く風に、悠一郎は懸命に踏ん張ったが、その場に止まるのがやっとで、アヤに近づくことなど到底できない。

「イヤ……もう、イヤなの……もう、誰かを失うのは、イヤ……それくらいなら、誰もいらないの……」

「アヤ、頼む、オレの声を聞いてくれ」

 張り上げた声は、彼女に届いているのか、いないのか。

 アヤは、虚ろな目を返すだけだ。

 叩きつけるような風が、悠一郎をなぎ倒す。膝をつき、両手をついて、血がにじむほどに唇を噛み締めた。あまりに圧倒的な力に、我が身の無力を思い知る。

 だが、諦めるわけにはいかなかった。同じ後悔を、繰り返すわけにはいかない。

 悠一郎は、這いつくばったまま、進む。身を低くし、爪を立てて。

 カタツムリのような速度で、少し近付いては、何度も吹き飛ばされた。

 けれども、悠一郎は進む。

 どれほど時をかけたことだろう。

 いつしか、彼はアヤの足元まで到達していた。

 疲れきり、立ち上がることはできない。もう二度と追いやられないように、膝立ちで、彼女の腰にしがみつく。

 そして、必死な言葉で訴えかけた。

「アヤ。オレは、この十年、ずっと後悔し続けてきたんだ。お前がいなくなって、何もできないから、とすぐに諦めた。諦めて、形だけは強くなって」

 グッと腕に力を込める。苦しかったのか、アヤがピクリと身を震わせたが、悠一郎は力を緩めることができなかった。

「オレは、もう諦めたくないんだ。お前を二度と見失いたくない。お前がここにいたいと言うなら、それでもいい。オレもここにいるよ。でも、本当は、お前を連れ出したい。こんな何も無いところに、いさせたくないんだ」

 彼女からのいらえは無い。

 今の悠一郎の状態は、抱き締めるというよりは縋りつくといった方が正しいだろう。この上なくみっともない姿だが、何かが返ってくるまでは、放すつもりは無かった。

「なあ、オレはお前に笑っていて欲しいよ。だから、あんなこと言うなよ……」

 ただそれだけが、彼がアヤに望むこと。

 恐らく、初めて出会ったあの時から、悠一郎はアヤの笑顔に魅せられていたのだ。

 魅せられて、可愛く思うようになって、愛しさを覚えて。

 そして、それは護りたいという願いになった。

 長いこと離れていたというのに、同じ気持ちを同じ強さで抱いているのは、単なる思い込みか、あるいは、満たされないままに予期せぬ形で奪われてしまった為なのかもしれない。

 だが、それでも、こうやって彼女を抱き締めているとこみ上げてくるものは、以前と変わらず――いや、より一層身に迫ってくる。

 ふと気付くと、いつの間にか、嵐は凪いでいた。

 何もない空間に、悠一郎の声だけが響く。

「オレはお前を諦めたくない。お前にも、お前自身を諦めて欲しくない」

 それを最後に、静寂がその場を支配する。

 やがて。

 パタリと肩に落ちた何かに、悠一郎はアヤの腹に押し付けていた顔を上げる。彼女の頬を転がった雫は、そのまま悠一郎の頬に滴り落ちた。それは、後から後から、深紅の目を揺らして溢れ出てくる。

「ユ……ウ、君……」

 艶やかな大人の女性の声で、昔と変わらぬ呼び方。

 悠一郎はゆっくりと立ち上がり、彼女を腕の中にしっかりと包み込む。彼の胸にしがみついてくる儚い力が、感じられた。

「行くんだよな?」

 悠一郎の問いに、しばらくの間を置いて、アヤが小さく頷く。そして、伏せていた顔を上げて、真っ直ぐに彼を見上げてきた――屈託のない笑みを浮かべて。

「ありがとう。わたしを見つけてくれて」

 その言葉と共に、全てが揺らいでいく。アヤも、彼自身も。だが、悠一郎に不安はない。ゆらりと浮き上がっていくような感覚に、彼は全てを任せた。


   *


 目を開けると、悠一郎は軽い酩酊感に襲われた。彼を取り囲むようにして、珂月、愛璃、恵菜、そして遥が覗き込んでいる。遥の肩には、フワリと紫色の蝶が舞い降りるところだった。

「大丈夫ですか?」

「ああ……」

 珂月が気遣わしげにそう尋ねてくるのへは、生返事をしただけだ。悠一郎の目は、カプセルの中のアヤへ、一心に注がれている。

 不意に、彼女の睫毛が震えた。

 一同が、ハッと息を呑む。

 アヤの眼瞼がゆっくりと上がり、そこから深紅の宝石のような目が現われる。

 彼女は何度か瞬きをすると、悠一郎に視線を定めて、微笑んだ。そして、両手を真っ直ぐ彼に差し伸べる。彼はその窮屈な代物からアヤを引き起こすと、全身で包み込むようにして抱き締めた。

「おかえり」

「……ただいま」

 嬉しそうな彼女の声が、耳朶をくすぐる。そうやって、生の声に触れて、ようやく彼は全てが現実なのだと実感する。

 珂月や少女たちもホッと表情を緩めた、その時だった。

「お疲れさん」

 奇妙に浮かれた声が、彼ら以外には誰もいない筈の空間に響き渡る。一斉に皆が振り向いた先にいたのは、中年の男と、彼に手を取られた一人の少女。

「所長……」

「深青!!」

 恵菜と愛璃が、同時に声を上げた。

 それに答えるかのように、男――暮林くればやしがニッコリと微笑む。それはまるで『優しい父親』のようだったが、けっしてそうではないことを、この場の誰もが知っていた。

「僕のタイターニアを起こしてくれて、ありがとう。じゃあ、もう用はないからお引取りいただけるかな」

「何言ってんだ! お前こそ、その手を――深青を、放せ!」

 人を食った言い方に、愛璃がカッと牙を剥く。それと共に、不可視の力を彼に叩きつけた――が、しかし。

「――なんで?」

 微動だにしない暮林に、愛璃は一瞬ポカンと呆気に取られる。と、間髪を容れず、彼女が吹き飛んだ。

「愛璃!?」

 慌てて恵菜が彼女に駆け寄る。恵菜が愛璃を抱き起こすのを目の隅で確認しながら、珂月は銃を取り出す。

「どういうことだ……?」

 眉を寄せて呟いた彼女に答えを返したのは、蝶を肩に止まらせた少女だった。

「あれが、『あの子』が恐れていたこと……」

「『あの子』?」

 遥は、応えない。ただ、目の前の男を、睨み据えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ