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fairy tale  作者: トウリン
シュウケツの時
31/35

 おかしいな。

 あの人が、来ないな。

 どうしたんだろう……やっぱり、わたしが応えなかったから?

 もう、来ないのかな。来てくれないのかな。

 今度来てくれたら、ちゃんと応えるよ? ちゃんと、返事をするから。

 でも、やっぱり、玄関のドアは静かなまま。

 元の静かな日々に戻っただけなのに、何でこんな気持ちになるんだろう。

 まるで、心の真ん中にポカリと穴が開いたみたい。

 ソファの上に膝を抱えて座り込む――その穴を塞ぐように。

 この気持ちって、何て言うんだっけ……?

 ソファが消え、壁が消え、森が消え――優しく笑ってくれていたママとパパが消えた。

 ああ、そうだ、『寂しい』だ。

 せっかく、胸の奥に押し込めて、蓋をしていたのに。

 もう一回、やり直さなくちゃ。

 ――膝を抱えた腕に力を込めて、小さく小さく縮まった。


   *


 深青みおを奪われてから二日が過ぎた。

 その二日間、奴らからは何の音沙汰もない。来襲に備えて警戒していたが、まるで何もなかった。

「深青を手に入れれば、俺たちのことはどうでもいいってことか?」

 真也しんやがそうぼやく。彼の声は、やや精彩を欠いていた。

 ――こいつでも落ち込むことがあるんだな。

 七年付き合っている珂月かづきでも、初めて見る姿だった。みすみす深青を取られたことが、だいぶ堪えているようだ。

「深青から情報を引き出せていないだけじゃないか?」

 そう答えながら、深青が今どんな扱いをされているのかを考えると、珂月は今すぐにでも飛び出していきたくなる。それは、あれ以来、殆ど押し黙ったままでいる愛璃あいりも同じだろう。

 珂月の不安に追い討ちをかけるように反論するのは、恵菜えなだ。

「でも、所長は……多分、何でもするわよ? 欲しいものを手に入れる為には、何でもすると思う。逆に、欲しいものが手に入ったら、他のことはどうでもよくなるかも……」

 彼女の言葉に、隣に座る愛璃がビクリと身体を震わせて膝を抱え込んだ。珂月は、その細い肩を引き寄せる。愛璃は、すぐにでも深青の元に跳んで行きたいのを必死で堪えているのだろう。だが、珂月たちを信頼しているからこそ、ここに留まっていてくれるのだ。

 元々、深青と愛璃が逃げ出した時、暮林くればやしとやらが執着していたのは深青だけだったという。深青の力を借りた恵菜は、さもありなん、と頷いていた。あの力があれば無敵になれる、と。

「まあ、そろそろ、あっちの警戒も緩んでいる頃だろう。ボチボチ動くか」

 真也のその言葉に、愛璃がハッと顔を上げた。

「行くの!?」

「ああ。ゴメン、随分、我慢させたな」

 そう言いながら、よっこらせと真也が身体を起こす。クシャクシャッと愛璃の頭を撫でると、立ち上がって隣の部屋に行った。クローゼットの中から三つのバックパックを取り出すと、そのうち二つを珂月と悠一郎ゆういちろうの前に置く。金属が擦れる音が、いかにも重そうだ。

「これは……?」

 中身を覗いた悠一郎が、呆気に取られたような眼差しを真也に向けた。珂月は慣れているのでどうも感じないが、彼の反応は当然だろう。

「潜入七つ道具……七つじゃないけど。NLR(非致死性兵器)の詰め合わせだ。催涙スプレー、スタンガン、スタン・グレネード。それに、無線と暗視スコープ。あと、俺と春日さんのヤツには女の子達用の睡眠ガスとガスマスクね」

「これは拳銃……いや、テイザー?」

「そう。その大きさで五発の連発式で、しかもワイヤレス。電撃だけじゃなくて、弾数は五発だけだけど、ゴム弾も使えるぜ。スゴいだろ。そっちの警棒タイプのスタンガンは普通に警棒としても使えるから。それと、愛璃と恵菜には、こっちのハンディタイプのスタンガン。けどな、基本、戦うのは大人だけ。お前たちは、とにかく自分を守ることに徹しろ。電流上げてるから、うっかり自分たちに当てないように気を付けろよ? 気ぃ失っちまうぜ」

 そう言って、真也がニッと笑う。

「俺も、もうこれ以上は我慢できねぇからな。そもそも、性に合わねぇんだよ、待つってのは」

「子どもみたいね」

 急に生き生きとし始めた真也に、恵菜えなが呆れた顔を珂月に向けたが、なんともコメントしようがなく、彼女は肩をすくめて返すにとどめた。

「まあ、深青はいないけどな、だいたいは当初の予定通りで。この間みたく近くのキャンプ場まで行き、そこから少し歩いて、二回に分けて愛璃と跳ぶ。『研究所』の近くに行ったら、まずは俺と春日さんを中に跳ばしてくれ。で、女の子達を眠らせたら、無線で合図するから、跳んでこい。俺たちが中にいれば、恵菜をナビゲーターにして俺たちのところに跳んでこられるんだろ? 例のカメラがある場所とやらではなく。このくらいなら、力を使っても特に問題ないな?」

 真也の指示に、爛々と目を輝かせる愛璃が、深く頷く。

「よし。で、これが中の見取り図だ。地下と一階はいいが、二階は回りきれなかったところもある。大人の生活スペースは確認できていないから、残っているのは、だいたいは居住用の部屋だとは思うが、な。警備員の人数は、少なくとも、七人は確認した。巡回は二人一組が少なくとも二組。監視室には三人詰めてた。恐らく十二時間交替での警備体制なんだろう。確認できていない部屋で、同じ数が待機している可能性が高い。倒した警備員の数は、その都度報告し合おう。この間やりあった感じじゃぁ、そこらのビルの警備員とはレベルが違う。多分、プロだな。注意しろよ」

 最後の一言は、珂月と悠一郎に向けられたものだ。

「大人は、見たら倒せ。研究員、警備員の区別なしだ。まあ、夜中だし、研究員がうろついていることはないと思うが」

 もとよりその気だった珂月には言われるまでもないことだったので素っ気なく頷いたが、元自衛隊員の悠一郎には非戦闘員に手を下すことにためらいがあるらしい。少し眉をひそめて真也に返す。

「研究員は、いいのではないか……?」

「戦いにはならないだろうが、警報にはなるだろ? 声でも出されたら厄介だからな。別に、殺せとは言っちゃいねぇよ。ただ、騒げないようにしてくれたら、それでいい――警備員もな」

「……わかった」

 まだ複雑な顔をしているが、真也の言うことにも一理あると感じたのだろう。少し逡巡した後に、悠一郎は首を縦に振った。

「よし、じゃぁ、今晩決行だ。昼過ぎになったら、車を出すぞ」

 それを合図に、ひとまず解散になる――筈だった。

 不意に鳴らされた玄関のインターホンに、それぞれに動き始めていた皆の動きがピタリと止まる。今、事務所には『休業中』の看板を掛けてある。一同が集まっているここは真也の居宅だが、こちらを訪問するものは、滅多にいない。

 真也の目配せを受けて珂月は立ち上がると、玄関に向かった。

 ドアスコープを覗く。と、扉の向こうでジッとこちらを見つめているのは、少年とも少女ともつかない、愛璃や恵菜と同年代と思われる子どもだった。

「どうした?」

 反応を示さない珂月に、真也が尋ねてくる。

「いや、それが……」

 何と言ったらいいものなのか。

 『研究所』からの追っ手なのだろうか。そうだとすれば、いったい、どんな力の持ち主なのか。

 彼女が迷っている間も、その子どもはおとなしく佇んだままだ。

 真也の指示を仰ごうと振り向いた時、唐突に恵菜が立ち上がった。

「……あなた……もしかして……そうなのね」

「恵菜?」

 何事かを呟いている恵菜に、悠一郎が心配そうに声を掛ける。そんな彼には取り合わず、彼女は珂月に視線を向けた。

「その子を入れて」

「え?」

「その子――はるかは大丈夫よ」

 確たる口調で、恵菜がそう断言する。珂月はそれでもわずかに逡巡したが、覚悟を決めて玄関のドアノブに手を掛けた。そして、押し開く。

「こんにちは」

 外に立っていた子ども――能力者である限りは、少女なのだろう――は、珂月を見上げると無愛想な口調でそう言った。

「こんにちは。……どうぞ」

 何となく挨拶を返し、身体を引いて恵菜が遥と呼ぶ少女を招き入れる。彼女は身構えることなく、自然な動作で入ってきた。

 リビングの入り口で一度立ち止まると、中にいる者をグルリと見回す。一瞬だけ、悠一郎で視線が止まったように思われたのは、気の所為だろうか。

 立ち止まったままの遥に声を掛けたのは、恵菜だ。

「あんた、『研究所』から脱走したんでしょ? ここに何の用なの?」

「脱走?」

 珂月がその言葉を聞き咎める。恵菜は肩をすくめてそれに返した。

「そう、初めてあそこから脱走した子よ、遥は。愛璃と深青は、二番目。立て続けに逃げられたから、所長がカリカリしてた……」

 恵菜が『彼』のことを口にする時、いつも少し顔を曇らせることにはその場の誰もが気付いていたが、それを声に出す者はいない。口を噤んだ恵菜を引き継ぐように、真也が遥に尋ねた。

「で、君はどんな力を使うんだい?」

 彼女はその問いに、無言で答える。

 右手で鈴を取り出し、一つ二つと振るう。その澄んだ音色が響く中、左手をスイと伸ばした。と、そこに紫色の何かが凝り、やがてそれは一匹の金色の斑紋を持つ紫の蝶へと姿を変えた。

 その場に居た誰もが、その蝶を見て、ふと首を傾げた。珂月も同じだ。何かを感じたが、それはまるで夢の中のもののようにあやふやなもので、そのまま受け流してしまう。

「それは……? 綺麗だな」

 思わず、珂月が呟く。彼女のその言葉に、遥はフワリと微笑んだ。そうすると、硬質だった彼女の印象が、一変する。

「良かったな」

 遥は蝶がとまっている左手を口元に寄せると、えも言われぬ優しげな声で囁きかけた。それに対する愛情が、否が応でも伝わってくる。だが、その柔らかな表情を見せたのはほんの短い間だけで、すぐに彼女は笑みを収めると再び人形じみた硬い顔に戻ってしまった。そして、己の力について説明を加える。

「あたしは、こうやって力を具現化して使役する。これは、予知と精神感応の力だ」

 遥の説明に何故か恵菜が怪訝な顔をしたが、彼女の台詞の内容に気を取られていた珂月は、それに気付かなかった。遥の発した一言を、繰り返す。

「予知……?」

 遥は、無言で頷いた。その眼差しは、何かを試すような色を帯びている。何故そんな目で見るのだろうと思いながらも、珂月は一縷の望みを掛けた問いを投げる。

「同じ力を持つ子を、知らないか? ゆかりといって、ほら、この写真の子だ。今は、十四歳になってる筈なんだ」

 遥は彼女の手の中の小さな写真をジッと見つめていたが、やがて小さく首を振った。

「知らない」

 きっぱりとしたその答えに、珂月の肩が落ちる。もしかしたらと思ったのだが、そう簡単にはいかないらしい。

 と、不意に遥の左手から蝶が飛び立ち、珂月の周りを回り始める。それに促されるように手を上げると、そこにフワリと舞い降りた。

 そこから伝わってくるものを、何と言ったらいいのだろうか。

 温かく、心地良く、そして、切ない。

 遥はこれを『具現化した力』と言っていたが、ただの『力』ではなく、どこか意志を持っているように感じられた。

 食い入るように蝶に見入る珂月に代わって真也が遥に質問を始めるのを、頭の片隅で聞く。

「で、君はどうしてここに? 追っ手でも?」

 真也の台詞に、彼女は首を振った。そして、悠一郎にヒタと視線を据える。

「彼に手を貸しに来た。『彼女』を目覚めさせる為の」

「『彼女』……アヤか?」

「そう。――あたしの精神感応の力は、恵菜よりも強い。あなたが彼女に直接触れて、あたしの力を使って彼女の中に潜れば、きっと、応じる」

「本当か? それは予知能力で知ったのか?」

 悠一郎が、信じたい、けれども信じられないという声でそう問うた。

 少女は、静かな表情でジッと彼を見つめるだけだ。肯定も否定もせずに。それは、まるで信じるも信じないも彼自身、と言っているようだった。

 悠一郎が目を閉じ、やがて、再び開いた。そして真っ直ぐに真也を見つめる。

「頼む。彼女も連れて行ってもいいか? オレは彼女の言葉を信じたい」

 真摯な悠一郎の眼差しに、真也はあっさりと肩をすくめて返した。

「いいんじゃない? でも、彼女にはここにいてもらって、アヤさんを奪還してから、ゆっくりとそれにチャレンジするって手もあるぜ?」

「ああ、確かに……」

 頷きかけた悠一郎を遮ったのは、遥だ。

「それでは、ダメだ」

 男二人の目が、彼女に注がれる。

「何でだ?」

「何でも。彼女をあそこで目覚めさせられるかどうかで、全てが決まる」

「全てって?」

 そう問い返した真也に、遥は静かな目を向けた。

「全ては、全て」

 珂月は彼女のその様に、どこか妹を思い出させるものを感じる。自分には見えない何かを見ていた、妹を。と、彼女の気持ちが自分から逸れたのを感じ取ったかのように、蝶はフワリと舞い上がり、遥の元に戻ってしまう。

 ――あ……。

 珂月は思わず手を伸ばして捕まえかけ、とどまる。そのまま手を握り込んだ。

 あれは、あの蝶は、妹ではないのだ――妹の筈が、ないのだ。

 そう思う珂月の胸の中は、しかし、妙にざわついて収まらなかった。何か、大事なものを失おうとしているような気がして、ならない。

 そんな珂月の胸騒ぎをよそに、真也は相も変らぬ軽い口調で、遥に頷く。

「まあ、いいか。元々深青も行く筈だったんだし。だが、春日さんは大丈夫か? ある意味、お荷物が増えることになるけど?」

 それには、悠一郎が答えるよりも先に、恵菜が口を開いた。

「大丈夫よ。精神感応能力者がいれば、人が寄ってきたらわかるから。先手を取れたら、たいてい勝てるでしょ?」

「まあ、それは、そうだが……少し、作戦変えるか。一か八かで、警備員にも催眠ガスを使ってみるか? 任務中のやつらは、それで制圧できるかもだぜ。その代わり、残りの奴らは一斉に攻撃してくるかもだけど。出会ったヤツから個別撃破と、どっちがいいかな。待機中のヤツがどのくらいいるのかがはっきりしたらいいんだが……ま、やってみるか」

 しばらく独りでブツブツ言っていた真也は、顔を上げると悠一郎に笑顔を向ける。

「女の子達を眠らせたその足で、二階の監視室なんかのヤツらも眠らせるか。警報鳴らされたら、その時はその時」

 ――むしろ暴れたいんじゃないのか? と珂月は心の中で彼に突っ込む。

 と、まるでそれが聞こえたかのように、真也がどこか嬉しそうな笑みを彼女に向けた。

「ということで、これで決まりな。遥だっけ? 君も休んどけよ。ここでもいいが……珂月の部屋の方がいいか。珂月、頼む」

「あ……ああ」

 悠一郎は中身を詳しく確認する為か、ナップサックを持って出て行った。愛璃も出発までは部屋にいるつもりなのだろう。同じように立ち上がって玄関に向かう。珂月も遥を部屋に案内しようと彼女に手を差し伸べた。と、恵菜が愛璃の後を追うようにして玄関の方へ行くのが視界の隅に映った。

 深青が奪われて愛璃が落ち込んでいるためか、彼女がいなくなってからの愛璃と恵菜は静かなものだ。それまでは、顔を合わせるたびに何かしら言い合っていたが。

 そう考えて、珂月はいいや、と思い直す。

 恵菜の雰囲気も変わった。出会った当初のキリキリと張り詰めた空気が薄くなっている。まだ、時々、ピンと張った細い弦のようになる事もあるが、それでも、随分穏やかな表情を見せるようになった。何か心境の変化があったのだろうか。

 今の二人なら放っておいてもいいだろう、と、珂月は改めて遥に視線を戻した。


   *


「あ、愛璃!」

 自分の部屋に入ろうとしていた彼女を咄嗟に呼び止めてしまい、恵菜は一瞬、どう続けようかと迷った。

 振り返った愛璃は、目で「何?」と問い掛けてくる。

「えっと、その……良かったわね、やっと動けて」

「ああ、うん。早く、取り返さなくちゃ」

 ギュッと握り締めた拳が愛璃の心の内を物語っているようで、恵菜はやっぱり我慢していたのか、と思う。

「あんた、変わったのね」

「え?」

「だって、あそこに居た頃は、あの子にがっちりしがみついていたじゃない。あの子には自分だけって感じで」

 恵菜の言葉に、愛璃はああ、と頷く。その時微かに見えたのは、苦笑だろうか。恵菜は、苦笑にしろ別のものにしろ、愛璃が笑っているところを見たことがなかった。

「あそこじゃ、ホントに気を許すどころじゃなかったし」

「ここなら、いいの?」

「まあね。もしも……もしも、あたしが先にいなくなっても、珂月と真也になら、あの子を任せてもいい。そう思える」

「ふうん」

 頷きながら、恵菜の心の中には、やはり「何故」という気持ちが沸き起こる。

 何故、自分にはそういうふうに想える相手ができないのだろう。

 何故、自分には、そういうふうに想ってくれる相手ができないのだろう。

 自分は、こんなにも切実に誰かを、あるいは何かを、求めているのに。何故、手に入れられないのだろう、と。

 押し黙ってそう自問していた恵菜だったが、自分に注がれている愛璃の視線に気付き、たじろいだ。その眼差しは、精神感応能力者でもないのに、不思議と彼女の中に切り込んでくるような気持ちにさせた。

「あたし……もう、行くわ」

 そう言って、身を翻す。立ち去りかけて、背中に投げられた声に、立ち止まった。

「あんたさ、欲しい欲しいっていうだけじゃなくて、ちゃんと動いたら? 少なくとも、深青はそうしたよ」

「え?」

 恵菜は、振り返る。だが、目に入ったのは、閉められていく扉だった。

「……動く……?」

 ポツリと、呟く。

「動けば、手に入るの……?」

 だが、どう動けばいいというのか。

 恵菜には、それがさっぱり思いつかなかった。


   *


 目の前に立つ少女に、柴山は《しばやま》は微かに目を見張った。

 彼女は、いったい、何をされたのだろう。

 この少女――深青を捕まえた時、彼女の抵抗は激しかった。全身で、立ち向かってきた。

 だが、今の彼女は。

 茫洋とした碧い目は、確かに柴山に向けられているのに、彼を見てはいない。ただ、彼の姿を映しているだけだ。

 自白剤を使って、彼女をかくまっていた人物たちの居場所を聞き出そうとしたが、それが成功しなかったことは知っている。自白剤を投与しても、彼女の治癒能力があっという間に解毒してしまうということだった。

 痺れを切らした暮林は、彼女を別の部屋に連れて行ったのだ。そこから先のことについては、柴山の与り知らぬことだった。

「あなたは……いったい、この子に何を……」

 非難を含んでいる筈のその言葉を、暮林くればやしはただの質問だと受け取ったようだった。むしろ得意げに、惜しげもなく自分がしたことを披露する。

「ちょっと、条件付けだよ」

「条件づけ?」

「そう。ネズミなんかの実験でね、エサを取ろうとした時、電気ショックを与えるんだ。何度も何度も。そうするとね、ネズミはエサを取りに行かなくなるんだよね」

 この男が言わんとすることを、聞きたくなかった。だが、暮林は揚々と続ける。

「同じ要領でね、深青の『大事な人』をすり替えたんだ。『君の大事な人は?』って訊いて、間違えたら『ビリッ』てね。結構時間かかったけど、ほら、今はご覧のとおり。……深青? 君の大事な人って、誰だっけ?」

 そう問われた少女はぼんやりと暮林を見上げ、答える。

「所長です。所長がわたしの大事な人です」

「ほらね!」

 柴山には、何故、暮林が何の臆面もなくいられるのかが、さっぱり理解できなかった。何故、己の行動を恥じずにいられるのか。

「所長!」

 思わず声を上げ、彼に向けて一歩を踏み出す。と。

 静かに立っていた少女が瞬時に姿を変え、暮林と柴山の間に立ちふさがった。彼の前では、一匹の獰猛な狼が唸りを上げている。

「深青、イイコだねぇ」

 そう言いながら、暮林が彼女の首筋に手を置いた。彼は、薄笑いを浮かべながら柴山に目を移す。

「君、何を今更イイヒトぶってんの? 僕がこういうことしてるの、ずっと知ってたじゃない。それとも、急に良心が目覚めちゃった?」

 バカにしきった言い方に、柴山は深青に構わず一歩を踏み出した――出そうとした。が、身体が動かない。

「!?」

 上げようとした腕も、ピクリともしなかった。

「いったい、何が……」

 この所長室にいるのは、柴山と、深青と、所長だけ。深青には念動力はなかった筈だ。では、他に、誰が。

 ――まさか。

 驚愕に目を見開く柴山に、暮林は小気味良さそうに目を細める。

「スゴいだろ? 科学の為せる業、だよ。まあ、ドーピングだから一時的なものだけどね。しかももっとスゴいのはね、こうやって深青と共振させると、ただ力が強くなるだけじゃなくって、何も失うことなく力を揮えるってことなんだ。君に言ってあったっけ? この子達はね、力を使えば使うほど、寿命が縮まる。それは細胞そのものの寿命が縮まるからなんだけど、深青のこの力は、副次的な効果でそれを修復するんだよ。ま、元々短いものを伸ばすことはできないけどね」

 彼が得々とそう説明する間に、柴山の身体は天井近くまで吊り上げられる。ネコがネズミをいたぶるように、ゆっくりと。

「この子たちには生殖能力がないから、この貴重な力も失われてしまう。それは、あまりに勿体ないだろう? だけど、僕の『女王』を使えば、その問題は解決するんだよ。僕のタイターニアを使えば、どんな力も、永遠に繋いでいける」

 不意に柴山を捕らえる力が失せる。と、同時に、彼の身体は硬い床に叩きつけられた。予期せぬことに受身を取り損ね、背中を強打した痛みに漏れる呻きをこらえる。

「君、僕のすることを良く思っていないみたいだね。警備主任は他の人と交代してもらうから、君の役目は終わり。次の人が来るまで、部屋から出て来ないでよ」

 形ばかりの笑みすら消し去った、蛙を射すくめる蛇のような眼差しが柴山に注がれる。

「僕の邪魔は誰にもさせないよ。……どんな手を使ってもね」

 この白衣の男が『おかしい』とは、柴山も以前から思っていた。だが、再び見えない力で床に押さえつけられながら、今初めて、この男は『異常』だと認識した。

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