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fairy tale  作者: トウリン
シュウケツの時
30/35

 ああ、また来た。

 今日もノックだけかな。

 ちょっと、声を聞いてみたいな。

 そう思った時、ドアの向こうからその声が聞こえてきたの。

 それは、低い、男の人の声。とても優しい、声。

 何でだろう。

 聞いたことがない筈なのに、懐かしいの。

 思わずドアを開けそうになってしまって、ハッと気付いて留まった。

 この扉は開いてはいけないの。これを開いたら、怖いことが起きるから。絶対、絶対、開けられないの。

 ああ、でも。

 この声を聞いていると、いてもたってもいられなくなる。駆け出して、声の人に飛び付きたくなる。

 どうして、こんな気持ちになるの?

 いっそ耳を塞いでしまったらいいのかもしれないけれど、できない。

 と。

 不意に、声が聞こえなくなった。

 ……行ってしまった。

 そう思ったとたんに、悲しくなった。

 扉を開ければ良かったのかな。そうしたら、何かが変わったのかな。

 でも、やっぱり、怖くて仕方がないの。

 悲しくて、怖くて、懐かしくて……寂しくて。

 いろんな気持ちがごちゃごちゃになって、何故か解からないけれど、胸の奥に大事にしまってある名前を、そっと呟いた。


   *


 引き戻される少し前。

 悠一郎ゆういちろうの耳に微かに聞こえてきたのは、確かに彼女の声だった。

 八歳の時から、六年経っても同じ呼び方で。

 子どもっぽい舌足らずな声で呼ぶ時でも、少し低くなって大人びた声で呼ぶ時も、同じ。

 『ユウ君』と。

 悠一郎に対して呼びかけたというよりは、ただ呟いたという印象だった。だが、それでも、その声が彼女のものであったことに変わりはない。

 やはり、彼女は――アヤはいるのだ。

 初めて得られた確かな感触に両手をきつく握り締めた悠一郎は、皆の視線が一身に注がれていることに気付いてふと力を緩めた。

「いた。彼女だ」

 顔を上げ、グルリと皆を見回してから、そう言った。

「確かか?」

 そう問うてくる真也しんやに、悠一郎は深く頷く。あの声、あの呼び方は彼女に、アヤに間違いない。

「よし。じゃあ、これでガッチリスクラム組めるな」

 ニッと笑いながらの真也のその言葉に、悠一郎は一瞬ドキリとする。彼は、悠一郎の中に潜んでいた揺れる気持ちを見抜いていたようだ。

 一見軽佻浮薄なこの男は、その下に鋭い眼力を潜ませている。

 内心の微かな動揺を押し隠し、悠一郎は頷いた。

「オレは、もういつでもいい――いや、早い方がいい。一刻も早く彼女を取り戻したい」

「まあ、予定通り、今晩偵察に行ってくるよ。それ次第、だな」

 まるでどこかにハイキングにでも行こうかとでもいうような軽さで、飄々と真也が言う。

「やはり、偵察はしておいた方がいいか……」

「まあな。俺、女の子相手にはぜってぇ戦えないもん」

 おどけた口調の真也に、珂月かづきが呆れたような顔をするのが視界の隅に映った。愛璃あいりは思い切りバカにしたような顔をし、深青みおはくすくすと笑っている。

 そんな中で、漆黒の髪をした少女は、一人黙って部屋を出て行く。

 真也が目顔で「どうする?」と訊いているのが判ったが、悠一郎も彼女をどうしてやったらいいものなのか、決めかねていた。

 アヤを取り戻したら、恵菜えなといる必要もなくなる。そうしたら、彼女は独りになってしまうのか。

 たった独りで居場所を探して彷徨う少女の姿を想像すると、胸が締め付けられるようだった。

 悠一郎が一緒に行こうと誘えば、彼女は着いてくるだろうか。

 きっと、拒むだろう。

 プライドを支えにしてきた――プライドだけで自身を支えてきた恵菜にとって、同情は耐え難いものに違いない。

 どうしたら、彼女にも安寧を与えてやれるのか。

 悠一郎には答えが見つけられなかった。


   *


 車の後ろの方で小さな物音がした時、愛璃は外からのものにしては妙に近いなと感じはしたが、気の所為だろうと思ったのだ。

 ここは、埼玉の山奥にあるキャンプ場――彼女が地図で示した『研究所』に最も近い場所にあるキャンプ場だ。東京から『研究所』までは距離がありすぎるので、ここまで車で移動し、残りを愛璃の力を使って『研究所』の間近まで跳ぶことにしたのだ。

 そして、今。

 トランクの中からひょっこりと起き上がった姿に、真也、恵菜、愛璃の目が集まっている。

 確かに、出発する時、見送り陣にいなかった。だが、きっとどこかで拗ねているのだろうと、皆が思っていたのだ。まさか、トランクの中に潜り込んでいようとは。

「深青……」

 愛璃はその名を呼んだきり、絶句する。恵菜は呆れた眼差しを注ぐだけだ。

「あらら。何だ、付いて来ちまったのかよ」

 真也がニヤニヤと笑いながら、深青の頭をポンポンと叩く。その様に、愛璃はカッと牙を剥いた。

「ちょっと、真也! あんた、気付いてたの!?」

「ええ? まさかぁ。そんなわけないじゃん」

 この上なく白々しい言いようだ。愛璃はギリ、と睨み付けたが、真也はその険しい視線を受け流し、深青の両脇に手を入れてトランクの中から持ち上げる。

 狭いトランクの中で身体を小さくしていたためか、一人で立とうとしてふらついた深青へ、愛璃は咄嗟に手を差し伸べる。ニコッと彼女が笑ったが、愛璃はむっつりと黙り込んだままだった。

 恵菜が真也を見上げて肩をすくめる。

「で、どうするの? 結局、連れてくの?」

 恵菜の台詞に、バッと愛璃は振り返る。

「そんなの、ダメだ! 深青はあそこには近付けさせない!」

「じゃ、ここに置いてくのか? 独りで?」

 真也にそう言われ、愛璃は唇を噛んで押し黙った。キャンプ場には家族連れも多いが、年端もいかない少女を独りでいさせられるほど安全な場所でもない。

 しばらく待って反論が出ないことを確認した真也は、車のトランクを閉めると鍵をかけた。

「じゃ、行くか? 少し奥に行って、人気がないところから跳んだ方がいいんだろ?」

 愛璃はそれでも動かない。

「愛璃……?」

 おずおずと深青がその名を呼び、そっと彼女の手を取る。

 それでもまだしばらくは動かなかったが――やがて大きな溜息をついた。

「……しょうがないな……」

 そう呟いて、愛璃は深青に取られている手を握り込む。

「行くよ!」

 言い置いて真也と恵菜に向けて顎をクイとしゃくると、深青の手を引いて歩き出した。


   *


 恵菜が導いて到着した場所から、一度後退した。

 監視カメラなどがあるかもしれない、と真也が主張したからだ。

 その場所から、恵菜は指を真っ直ぐに伸ばして前方を指差す。月明かりの他に光源はなく、それすらも、深い森が遮りがちだ。

「あそこの岩壁、あれが『研究所』なのよ。あのどこかに、入り口があったんだけど……」

 彼女自身、あの岩壁のどこから出入りしたのか、覚えていない。覚えていたとしても、あのカモフラージュぶりだと、きっと判らないだろう。

 言葉尻を濁した恵菜に、愛璃が疑わしげな声をあげる。

「本当に、あそこ? ただの岩じゃないの? 騙してたりしないだろうな?」

「――!」

「まあまあ、待てって。行ってみりゃ判るさ。ほれ、さっさと送ってくれよ」

 つかみ合いになりそうな二人の額をそれぞれ両の手のひらで押しやり、真也が促す。が、愛璃はそれに渋い顔を返した。

「だって、アレがただの岩だったら、あんたを送ったらエライことになるんだよ? 多分、死ぬよ?」

「でも、恵菜はあそこだって言ってるんだろ?」

「そうだけど――」

 ――信じるの?

 そんな愛璃の心の声が、力を使わなくても恵菜には聞き取れた。思わず唇を噛んで顔を伏せる。

 だが、愛璃の心配――あるいは疑いを、真也は笑い飛ばしただけだった。

「大丈夫だって」

 額に当てていた手を頭にずらし、愛璃と恵菜の頭を同時にクシャクシャと撫で回す。

「ちょ、止めろって!」

「止めてよ!」

 二人は同時に同じ抗議の声をあげた。

「な、ほら、送れよ」

 真也が能天気に再び促す。まだ少し逡巡した後、愛璃は覚悟を決めたように頷いた。

「わかった。じゃあ、やる」

 そう言って手を伸ばし、真也に触れ、目を閉じる。

 一瞬にして、彼の姿は恵菜たちの目の前から消え失せた。

「どこに送ったの?」

 深青が少し不安そうな色を含ませた声で愛璃に訊く。

「あたしたちが最初に会ったところ」

 愛璃の答えに、深青がフワリと微笑んだ。

 お互いを想い合う二人の姿を目にしても、以前ほどは心の中が波立つことはない。けれども、やっぱり目の当たりにしていると微かに胸が締め付けられ、恵菜は彼女たちから少し離れたところに腰を下ろした。あとは、真也から帰りの合図が来るのを待って、彼を『引き寄せ』たら帰還するだけだ。それまで、『研究所』のヤツらに見つからないようにしていればいい。

 恵菜は膝を立てて、そこに顔を埋める。

 愛璃と深青が何かゴチャゴチャ言い合っているのが耳をかすめたが、頭の中から閉め出した。

 『自分の居場所』というのは、どうやったら手に入るものなのだろう。

 誰も彼も、彼女に『ノー』と言うのだ。あの警備主任も、悠一郎も、愛璃も、深青も――そして、叔母も。初めに彼女を否定したのは、叔母だった筈だ。たとえ言葉だけだったとしても、恵菜を認めてくれたのは、所長だけ。

 自分は、いったい、何故いるのだろう。誰からも認めてもらえないのなら、いる必要などないではないか。

 己を否定する言葉は際限がない。かつてあれほど自信に溢れていられたのが、今では不思議で仕方がなかった。

 鬱々と負のループにはまり込んでいた恵菜は、いつの間にかすぐ傍に来ていた愛璃と深青に気付かなかった。

 落ち葉を踏むカサリという音で目を上げると、目の前に二人の脚があった。

「何?」

 恵菜は怪訝な顔で愛璃たちを見上げる。彼女の視線を受けて、愛璃は気まずそうに何やらもぞもぞしている。そんな愛璃を、深青がつついた。

「えぇっと、その……この間は、悪かった」

「は?」

「だから、この間は言い過ぎた。悪かったって……」

「ああ」

 そんなこと。

 恵菜は内心で呟く。

 普段自分の主張を曲げることは滅多にない愛璃が謝ったことを意外には思ったけれど、大方、深青にでも言い含められたのだろう。心中はイヤイヤながら、に違いない。

 肩をすくめて返しただけの彼女の態度が気に障ったのか、愛璃は声を荒げた。

「ちょっと、何だよその態度!」

「愛璃!」

 すかさず入った深青の制止に、愛璃は幼い子どものように口を尖らせる。そして、クルリと向きを変えると離れて行った。

「あれ、あんたの差し金? ご苦労なことね」

 恵菜がそう言うと、深青は苦笑して首を振る。

「違うよ。ちゃんと、愛璃が自分から悪かったって思ったの。でも、素直じゃないから……」

 深青よりも愛璃の方が年上の筈なのだが、微笑んだ彼女は数歳大人びて見えた。どれだけ毒を吐いても深青は受け流してしまうから、吐きかける毒も底を突いてしまう。

「まあ、いいわよ。あたしだって、色々考えるようになったし……一万歩ぐらい讓って、愛璃に言われたお陰とも言えるし……」

 最後の方はボソボソとした呟きのような声になってしまったが、深青にはしっかり届いていたようだ。彼女の笑みが、深くなる。

「……ねえ」

「何?」

「……あんたは、どうやって、愛璃を見つけたの? どうやって、あいつを手に入れたの?」

 自分は、どうにしたら『大事な相手』を――『居場所』を、手に入れられるのだろう。

 恵菜の問いに、深青が困ったように少し首をかしげる。

「うぅん……手に入れたっていうか……初めは、偶然だったよ。わたしが庭の隅っこで泣いていたら、愛璃が来たの。で、何で泣いているのかって訊いてくれて。『研究所』で初めてわたしのことを気に掛けてくれた人だったから、嬉しくて、ずっと後に付いて回っていたわ。最初のうちは、愛璃もうっとうしがっていたんだけど、段々、相手をしてくれるようになって」

 その時のことを思い出したのか、深青は嬉しそうに微笑む。

 もしも彼女に声を掛けたのが自分だったなら、今の愛璃が立つ場所に立っていられたのだろうか。

 そう思って、恵菜は自嘲する。

 きっと、自分なら声を掛けなかった。陰でコソコソ泣いている女々しいヤツなんて、バカにするだけだっただろう。

 けれど、愛璃は声を掛けた。

 そして、深青は応えた。

 きっかけは偶然でも、そこから何かを作れるかはその人それぞれなのだ。

「あたしは、どうしたらいいんだろう……どうしたら良かったんだろう……」

 顔を伏せて、地面に向けて吐き出した小さな小さな呟きだったが、深青の耳はちゃんと捉えたらしい。彼女の手がそっと自分の頭に触れるのを、恵菜は感じていた。

 と、その時。

 ――危ない、気を付けて!

 唐突に頭の中に響いた、声。

 見れば、深青も辺りを見回している。

「愛璃は……?」

 見ると、薄ぼんやりと彼女の立ち姿があった。少し、岩壁に近付いている。

 恵菜が彼女の姿を探している間に、隣で深青がスルリと姿を変える――一瞬後にそこにいたのは、猫科の動物だった。それは身体を震わせてまとわりつく衣服を払い落とすと、頭をもたげて周囲を窺った。と、岩壁の方を見つめてハッと息を呑んだかと思うと、唐突に駆け出し、数蹴りのうちに再び変化した。純白の羽毛に包まれた夜行性の猛禽類が、夜闇の中を音もなく羽ばたいていく。

「ちょっと、深青はどうしたんだ!?」

 駆け戻ってきた愛璃が、深青の姿を目で追いながら、声も荒く恵菜に問い掛ける。

「判らない……なんか、声が――あ!」

 白いふくろうを見守っていた恵菜は、思わず声をあげる。

 彼女の姿が、岩壁の中に吸い込まれるように消えたのだ。

「え……なんで……深青!?」

 驚愕と戸惑いに満ちた愛璃の声。

 咄嗟に、恵菜は彼女の身体を捕まえた。

「ちょ、愛璃、どこに跳ぶつもりよ!?」

「深青を……深青を追いかけないと!」

「待ってよ、そんなの、ヤツらの真っ只中に決まってるでしょ! 落ち着きなさいって!」

「落ち着いてられるか! 手を放せ! お前も連れてくぞ!」

 そう言いながら、念動力を使う事も忘れているのか、闇雲に腕を振り回して恵菜の拘束を解こうとする。

 完全に取り乱している愛璃に業を煮やし、恵菜は手を振りあげると力いっぱい彼女の頬を張った。パン、と高い音が響き、愛璃がポカンと恵菜を見る。愛璃の頬が見る間に赤くなったが、恵菜の手のひらもジンジンとしびれていた。

「しっかりしなさいよ。迂闊に行ったら、二人揃って実験材料でしょ!? そんなんで誰がアイツを助けるって言うのよ! いいから、さっさと真也を戻しなさいよ」

 愛璃は何度か瞬きすると、真っ直ぐに手を差し伸べる。数秒後には、腹ばいになった真也が怪訝な顔で二人を見上げていた。

「何だ? 何かあったか? ……深青は?」

 立ち上がるうちにあるべき姿がないことに気付いたのか、真也の顔がにわかに険しくなる。

「急に走り出して、鳥になって飛んでいって、岩壁の、あの辺りで消えたわ」

 真也は暗視ゴーグルを取り出して恵菜が指差す辺りを見ていたが、やがて首を振った。

「何もない――取り敢えず、一度撤退だ」

「深青は!?」

 愛璃が蒼褪めた顔で真也に縋りつく。彼は愛璃の両肩をつかんでその目を覗き込んだ。

「今は無理だ。今の状況じゃ、闇雲に突っ込んでもいい結果は出ない」

「でも! でも……深青をアイツのところに置き去りなんて……」

 ガクガクと震えだした深青の肩をつかむ彼の手に力が込められるのが見て取れた。

「いいか、アイツは必ず助けてやる。絶対だ」

 そう言って、真也が愛璃の身体を引き寄せ、抱き締めた。

「絶対、約束する。だから、今は引き上げるんだ」

 彼の腕の中で氷の彫像のように微動だにしなかった愛璃が、やがて小さく頷く。そして無言で後ろに立つ恵菜に向けて手を差し伸べた。

 恵菜はその手を取る。

 と。じきに世界は揺らぎ始めた。


   *


 愛璃の力によって真也が送り込まれた場所は、庭だった。いや、庭のようなもの、だ。植えられている木の葉に触れると、それがまがい物であることが判る。

 ――悪趣味だな。

 内心で呟いて、真也はそこを後にする。

 『庭』から出るとそこはすぐに廊下になっていた。パッと見、古風な洋館のようだ。

 以前に潜入した方とは異なり、もっと『人の住まい』らしいが、よくよく見るとどれもこれもが模造品だった。ここに住む少女たちのことを思ってか、それとも彼女たちをごまかす為か。

 監視カメラは見当たらないが、かなり頻回に警備員の巡回があった。恵菜たちの話では、見回りは一晩に一回程度と聞いていたが、立て続けの脱走と真也たちの襲撃で、警備を強めたらしい。今回は片っ端から倒せばいいというわけではない。その度に身を潜めなければならず、探索には意外に時間を要した。

 岩壁をえぐって作ったのか、屋敷を作った後に岩壁のようにカモフラージュしたのかは判らないが、敷地面積は意外に広い。

 一階には、キッチン、食堂、娯楽室、浴場など、一通りの生活に必要な設備が揃っていた。

 そして、少女たちの私室は、四人一組で使っているらしい。それが、六部屋。だが、そのうち一つは空室で、少女たちの人数は十九人だった。深青たちからは二十人程度と聞いていたので、それで全員なのだろう。

 一階はさほど気を引かれる部屋はなく、次に地下へと移ったが、そこも発電設備とボイラー、食料品や備品の貯蔵室があるくらいだった。『B』の方にはアヤシイあれやこれやがあったものだが、ここはまともな居住施設に見えた――今のところは。

 特に不審な場所は見つからないまま、真也は二階に移る。今回は少女たちの状況を確認するのが一番の目的だった為、あとはおまけだ。

 この『A』という施設にはあまり疑わしい場所はないと聞いていたが、二階は明らかに『普通』ではなかった。少女たちが入ったことがなかった為か、それとも、彼女たちが出てから変わったのか。

 深夜だというのに煌々と灯りが点けられ、随所に監視カメラも設置してある。作りは一階と同じように洋館風だが、雰囲気が殺伐としていた。

 監視カメラが設置されている分、人手は減らしているのか、巡回する警備員の姿は見当たらない。

 ――機械に頼ると、いいことないぞ?

 そう独りごちて、真也はカメラの死角を狙って進む。住居の体裁を保とうとしていることもあって、意外に凹凸があって隠れやすい。

 じきに、真也は探していたものを見つけた――トイレだ。

 中に人の気配がないことを確認すると、スルリと忍び込む。個室の一つに入り、天井にある通風孔に目を走らせた。便器の上に立ち、取り出したナイフでねじを手早く回してフィルターを取り外す。縁に両手をかけて、グイと身体を持ち上げてダクトの中に入ると、つけておいた紐を引張り、フィルターを持ち上げた。特殊瞬間接着剤を使えば元通り、だ。

 どこかでファンが回っているのだろう。微かな風を感じる。

 一階の構造を頭に思い浮かべながら、ダクト内を匍匐前進で移動する。時々フィルターを通して下を覗いてみると、一階とは打って変わって、生活感のない部屋ばかりだった。

 パソコンが並んでいる部屋はデータ室だろうか。

 モニターが幾つも設置されている部屋では、数人の男が画面を見たり、ヘッドフォンを耳に押し当てたりしている。真也が次の部屋に移ろうとした時、誰かがその部屋に入ってきたようだったが、早く第二の目的を果たしたかった真也は、そのまま前進した。

 その第二の目的の相手は、なかなか見つからない。だいぶ進んできた筈だが、一番奥なのだろうか。

 と、真也は眼下の光景に目を留めた。そこに置かれていたのは、一際ご立派なデスクだ――社長室やら何やらにありそうな。

 そこが『所長室』であることは、間違いないだろう。

 だが、人はいない。就寝しているのか、他の部屋にいるのか。天井から部屋の中を見回した真也は、そこに、廊下への出口以外に扉があることに気が付いた。続き部屋だろうか。

 そちらに移った真也の目に入ってきたのは、明らかに異質な装置の群れだった。そこに設置されているものはこれまで目にしたことがないような機器ばかりで、どんな用途なのかの予測も付かない。

 部屋の中にいるのは、白衣を着た若い男と、中年の男。中年の方は、若い男に何やら指図している。

 ――アレが『所長』なのか……?

 男を目で追いながら、真也は背中に手を回し、腰に挿したコンバットナイフのグリップを握ると親指で鞘のスナップを外す。

 あの男が『所長』であれば、今、この瞬間に終わらせることができる。

 さて、どうするか。

 そう真也が思った時だった。

 不意に視界が揺らぎ、一瞬後には暗い森の中で腹ばいになっている事に気付く。

 目の前には、愛璃と恵菜。

 合図もしていないのに、引き戻されたのか。

「何だ? 何かあったか?」

 そう二人に尋ね、気付く。なにやら嫌な予感が胸に沸き起こってきた。

「深青は……?」

 真也のその問いに答えてくれたのは、恵菜だった。愛璃は蒼白な顔をしてピクリとも動かない。

 真也は自分の認識の甘さに歯噛みする。離れさせていれば安全だと思っていたのだ。だが、敵はこちらの予想以上に警戒を強めていたらしい。

 彼は愛璃の両肩を掴み、その目を覗き込む。普段は強気な色を失わないその緑の目は見開かれ、不安に揺れていた。その様に、心臓が握りつぶされるような物理的な痛みを覚える。

「いいか、アイツは必ず助けてやる。絶対だ」

 真也の手の下の愛璃の細い肩は激しく震えている。それを引き寄せ、強く抱き締めた。深青を取り戻す為なら、腕の中のこの震えを止める為なら、なんでもしてやる――そう、何でも。彼は歯を食いしばり、そう誓う。

「絶対、約束する。だから、今は引き上げるんだ」

 腕の中で小さく頷いた愛璃に、そこに込められた自分への信頼を確かに感じていた。


   *


 柴山しばやまの元に報告をしてきたのは、外の警戒を担当している警備員の一人である。監視室へ赴いてみると、警備員はヘッドフォンを差し出した。

「微かなんですが、外のマイクが人の声らしいものを拾ったみたいなんです」

 ヘッドフォンを受け取った柴山は、半信半疑でそれを装着する。侵入者を感知するため、外に集音マイクを仕掛けてあるのだが、たいていはただの風の音か獣の声だった。こんな夜更けにこんな山奥に来るなんて、いたとしても自殺志願者くらいだろう。そんなのがベラベラしゃべるはずもなく、きっと何かを人の声と取り違えているだけだ、と柴山は思っていたのだ。

 だが。

「おい、監視カメラは!?」

「こちらに」

 そう言って示された幾つものモニターに、人影らしきものはない。カメラはここから十メートルほどはカバーしているのだが。

 ヘッドフォンから聞こえたのは、確かに人の声だった。それも、まだ幼い少女、二、三人のものだ。

 柴山たちは食い入るようにモニターを見つめる。声はまだ続いていた。

 と、モニターの一つに、チラリと動くものが映る。こちらの方に、近付いてきているようだ。ズームして顔をアップにする。暗視カメラだが高性能なそれは、対象の顔立ちもくっきりと映し出していた。

「愛璃、か……?」

 確かに、逃げ出した少女たちのうちの一人だ。

「麻酔銃を持ってこい。暗視スコープ付けてな」

 柴山の命令に、部下が走る。物はすぐに用意され、柴山はそれを受け取ると二階の監視窓に向かった。

 ――いったい、何でまた戻ってきたりなんかしたんだ?

 そのまま逃げおおせればよかったのに、と、殆ど腹立たしささえ感じる。

 主に、一階は少女たちの、二階は大人たちの居住区になっており、『本物の窓』があるのは二階だけである。窓は柴山の上半身が乗り出せるほどの大きさで、カモフラージュはしてあっても、昼間では開放すると一目瞭然だろう。しかし、この暗さであれば、よほど目が良くなければ――いや、目が良くても、並みの人間では気付くまい。

 柴山は静かに窓を開けると、目を細めて外を見下ろした。いると思ってみれば、少女の姿はすぐに見つかった。麻酔銃を構え、暗視スコープを覗き込む。愛璃が倒れれば、驚いて他の少女も駆け寄ってくるだろう。そこを狙い撃てばいい。

 照準は少女を捕らえ、後は引き金を絞るだけだ。

 それだけなのだが、柴山はわずかに逡巡する。

 脱走した少女が再び囚われれば、彼女たちはどんな扱いを受けるのだろう。そう自問した柴山の脳裏には、想像力を働かせなくても、ばら色の生活とは程遠い日々が容易に思い浮かぶ。

 もしも、ここで彼女たちを見逃したら。

 だが、柴山にその選択肢はない。彼の職務はここの保全であり、少女たちを逃がしたことは重大なしくじりだったのだ。失態は、返上せねばならない。

 柴山の指が引き金にかかり、ゆっくりと引き絞られる。

 今にも麻酔弾が放たれようとした、その時。

 スコープの中を純白のものが占拠する。ハッとした時には弾は射出され、その純白の梟に命中していた。猛禽類とは言え、あまりに大きすぎる、その梟に。

 梟は羽を一振りして身を翻すと、真っ直ぐに柴山に向かってきた。ナイフのような鉤爪を立て、麻酔銃を手にしたままの柴山に、果敢に攻撃を繰り出してくる。

 これは、深青なのか。

 そう思うと手荒な真似もできず、柴山は服を、皮膚を引き裂かれながら、何とか梟の羽を掴むと窓の中に引きずり込んだ。床に押し付け、身体全体で押さえ込む。ようやく麻酔が効いてきたのか、次第に抵抗は小さくなり、やがて完全に動かなくなった――と、柴山の目の前で、巨大な梟の形が変わっていく。数秒後には、黒髪の少女が力なく倒れ付していた。あたりに散らばる純白の羽毛だけが、その変身が現実のものであったことを示唆している。

 完全に彼女が動かなくなったことを確認してから窓の外を窺ったが、そこにはもう誰の姿もなかった。

 柴山は自分の上着を脱ぐと、少女の身体を包み込む。この小さな身体のどこにあんな不思議な力を秘めているのだろうかと不思議に思うと同時に、彼女を暮林くればやしに引き渡さなければならないことに気が滅入る。

 胸中で溜息を一つつくと、柴山は少女を抱き上げて歩き出した。さし当たって医療室で寝かせておいて、暮林くればやしの指示を仰ぐことにする。

 医療室のベッドに彼女を下ろしてから殆ど間を置かず、彼は飛び込んできた。

「ああ、ウソだろう? ここに来て、こんなラッキーがあるなんて!」

 暮林がそう言いながら、興奮の為か身体を震わせる。

「さあ、どうしようかな。この子、恵菜の催眠が効かなかったんだよね。あの子以上の力を持ってる子は、いないんだよなぁ。う~ん……クスリなら効くよな、きっと。取り敢えずはそれで、愛璃の居場所を教えてもらおうか。奴らも一緒にいるのかな。ほら、『B』を潰された時にこの子と一緒にいた奴ら。きっと、深青を奪いにくるよね。できたら、先手を打ってやっつけちゃいたいなぁ。どう思う?」

 背後に立つ柴山に意見を求めてきたが、彼は答えられない。奥歯を強く噛み締めて、今の自分の気持ちが表情に出ないようにするのに全力を尽くした。

 返答がないことに、暮林は、まあいいや、というように肩をすくめる。

「取り敢えずは、少し麻酔が覚めてくれないとだよね。ウトウト加減がいいんだけどなぁ」

 うっとりと夢見るように呟いた暮林から昏々と眠り続ける少女に目を移し、柴山は無言で瞑目した。


   *


 ――どうしよう……どうしよう! わたしのせいだよ! わたしが何も考えずに声なんてあげたから! わたしのせいであの子が捕まっちゃったんだわ!

 金色の鱗粉を振り撒きながら狂ったように紫の翅を羽ばたかせて飛び回る蝶を、少女の両手がそっと包み込む。

「落ち着いて。ほら、ちゃんと考えないと。取り乱していても、何も解決しない」

 少女は手のひらの中に息を吹き込むようにして囁きかける。

「落ち着いて」

 しばらく手の中に閉じ込めておいたままにしていると、徐々に翅が彼女の手のひらを叩く感触は減っていった。

「落ち着いた?」

 手を開いて、その上におとなしく乗っている蝶に向けて問いかけた。

 ――ごめんなさい、もう大丈夫。でも、どうしよう……あの子がいないと……ああ、ウソ、見える……。

 それきり、蝶は黙り込む。

 少女は待った。彼女にできることは、何もないから。

 やがて、ゆっくりと蝶が翅を開き、閉じた。

 ――わたし、あの人たちのところに行こうと思うの。

「あの人たちって、お姉さん……?」

 ――そう。このままでは、ダメなの。あの子が……深青が彼に囚われている限り、最悪の未来しかないわ。『彼女』が目覚めてくれたら状況は大きく変わるのだけれども、それも、このままでは、とうてい叶わないの。傍観者でいなければ未来を見ることは難しくなるけれど、もういいわ。もう、未来を見る必要はない。元々、もう、見えなくなっていたんだもの。それよりも、何か少しでもできることを探さなくちゃ。

 蝶は少女の手のひらからフワリと飛び立つと、強い意志を秘めた声でそう告げた。

 ――わたしは、もう傍観者ではいられない。だから、行くわ。為すべきことを為しに。

 その決意を受け止めながら、少女は静かに頷いた。

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