Ⅱ
遥は、一つ、二つと鈴を鳴らす。
その音と共に、彼女の周りに、一匹、また一匹と蝶が姿を現していく。
遠隔視、接触感応、透視、精神感応、過去視、遠隔聴覚、催眠……いずれも、最高級の力を持っていた少女たちの魂だ。あまりに優れていたため、失われることを惜しまれ、遥の力でこの世に繋ぎとめられている、少女たちだ。
色とりどりの蝶に囲まれ、遥は彼女たちに問いかける。
「あんたたちは、何を考えている?」
この中の数人は、生きていた頃に姿を見たことがある。だが、誰も皆、何かを望んでいるようには見えなかった。ただ、暮林の実験に参加し、彼が言うがままに力を使い。
まるで彼の意思で動く木偶人形さながらで。
だが、それは遥自身にも言えることだ。
遥も、何も望まず、何も考えず、ただ暮林の命令に応じているだけ。
「あんたたちは、どうしたい?」
言葉を変えて、もう一度問いかける。
だが、やはり、答えはない。
意思表示をする力を奪ってはいない。使役はしているが、傀儡にしたわけではないのだ。
けれども、彼女たちは――彼女たちも答えを持っておらず、それゆえ、答えることができない。
遥は、ふと、考えた。
何故、自分は存在しているのだろう、と。
暮林のため?
彼の望むように、ただ彼のための道具のように在るだけならば、遥が遥であることに何の意味があるのだろう。
そんな疑問を覚えたのは、初めてのことだった。
なんだか、モヤモヤする。
こんなふうに心がざわめいてしまうのは、あの子に会って、話をしたからなのだ。最期の仕事の時まで会わないでいれば、きっと、忘れられる。
そう、思うのに。
*
――連れ去られるのが判っていたのに、なんで、逃げようとしなかった?
遥は、ベッドから身体を起こすことができなくなった紫に、そう問いかける。出会ってからというもの、彼女は日に日に弱っていく。
暮林が言うには、紫は常に未来を見続けている――絶え間なく力を使い続けているそうだ。特殊能力者は、その性質にもよるけれど、多くの場合、力を使えば使うほど消耗していく。制御できない者は、あっという間に命を縮めてしまうことになる。
紫から与えられる何かが遥の中を乱すから、もう、会わないでいようと思ったのに、結局、毎晩彼女の元を訪れてしまっていた。そのたびに、遥の中には新しい何かが降り積もっていく。
――逃げようと思えば、逃げられたんだろう?
遥の質問に、紫はふっと微笑んで答える。それは、微かなのに儚さを感じさせない、笑み。
「逃げても無駄だって、判っていたから。それに、もっとずっと先に、どんなことがあるのかも」
そこで、紫は大きく息をつく。とても、疲れ易くなっているのだ。
しばらく休んで、また口を開いた。
「未来はね、どんどん変わっていくの。無限に拡がる、枝葉のように。一つの選択をすると、また、次の道が増える。ホントは、してはいけないことなのかもしれない。けど、わたしは、動くわ。それが、わたしがこの力を持っている理由だと思うから。わたしは、ホントにダメになるその時まで、諦めたくないの」
何かに挑むような、眼差し。やせてしまった顔の中で、それだけはいつも強い光を放っている。
――あたしには、何もない。
ポツリとそう呟いた遥を、紫の手が包み込んだ。そして、囁く。
「でも、わたしには、あなたが必要。わたしは、あなたに助けて欲しいの」
――あたしが、助ける?
「そう。あなたにしか、できない。あなたが選んでくれたら、わたしは助けてもらえるの」
――選ぶ。
けれども、何を選んだらいいというのか。思えば、今まで、何かを考えたことが、いや、何かを感じたことさえなかった。
空っぽの自分には、『選ぶ』なんて無理なことだ。
そんなふうに放棄しようとする遥を、しかし、紫は赦しはしなかった。
「ちゃんと考えて、遥。人の命は、どれも、その人のものなのよ。誰かに乗っ取られていいものではないの。ちゃんと、自分自身で生きないと、いけないのよ」
ナイフのように遥の心に切りつけてくる紫の言葉から、逃げようとする。けれども、彼女はその目で遥を捕らえてしまうのだ。じっと見つめるその眼差しは、大事なことでは容赦してくれない。
「遥が自分で考えて決めたことなら、わたしは受け入れる。どんな答えでも。けど、あの人の――暮林の考えにただ従うだけなら、イヤよ」
それだけ言って力尽きたかのように、紫が目を閉じる。呪縛を解かれた遥は――蝶は、フワリと舞い上がった。
部屋から出ようとする遥の元に、微かな声が届く。
「もう、時間がないの。……お願い」
最後の言葉は、頼りなく。消え入りそうな囁きに、遥の胸は不安で満たされた。
*
遥は暮林に呼び出されていた。
彼が呼んでいると聞いた時、遥の心臓は痛いほどに打ち鳴らされた。
最後に会いに行ってから、紫とはもう3日間話していない。まだ答えが見つかっていないから、会いに行くのが怖かったのだ。
もしかして……。
遥は、まだ何も決めていない。それなのに、『その時』が来てしまったのだろうか。もしもそうならば、自分はどうしたらいいのだろうか。
激しく混乱している胸中とは裏腹な表情のまま、遥は暮林の元に赴く。
扉を叩き、開ける。
そこにいたのは、暮林一人だけだった。
入り口で固まっている遥に、デスクの向こうに座ったままの彼が無造作に手招きする。
「ああ、来たかい。待ってたよ」
暮林は、至って落ち着いており、何か緊急の事態が起きているようには見えない。少なくとも、紫のことではなさそうだ。そのことに自分でも驚くほどに安堵が込み上げる。
遥は室内に入ると、扉を閉めた。そして、暮林の前まで足を進める。彼は遥に目を遣る事も無く、書類を捌きながら言った。
「接触感応の力を持った子がいただろ? ちょっと貸してよ」
それは、さながら、「ペンを貸してくれない?」とでも言うような口調で。
暮林の態度は、いつもとなんら変わりはない。
けれども、彼の言葉を受け取った遥は、何かが違っていた。何十回も聞いてきたその言葉が、今日は彼女の心の中に波を立たせる。唇を噛んで、顔を伏せた。
――何だろう、これは……
無意識のうちに手が上がり、胸の辺りをギュッと掴む。
「遥?」
いつもならすぐにある筈の返事がないことに、暮林が怪訝そうに彼女の名前を呼んだ。
疑問を含んだ声に、遥はハッと面を上げる。その拍子にぶつかった訝しそうに自分を眺めている彼の視線から、ふと目を逸らせた。
「……わかった。どこに行くの?」
不意に、この部屋から――暮林の前から早く立ち去りたいと思った。何故、そんなふうに考えるのかは判らないが、その気持ちを彼に悟られたくないとも、思った。遥は無表情なまま、暮林に尋ねる。
彼は頬杖をついて人差指でこめかみを叩きながら、目を細めている。そこから彼の考えを読み取ることはできない。遥が居心地の悪さを覚え始めた頃、ようやく暮林は答えを寄越した。
「まあ、いいか。第三研究室に行ってよ。そこにモノがあるから、『見て』きて」
そう言って、ヒラヒラと片手を振る。
遥は無言で踵を返し、部屋を出た。扉を閉めるまで、背中に彼の視線を感じながら。
廊下を歩く彼女は、先ほどの自分を振り返っていた。
自分は、彼の言葉に『怒った』のだろうか。そんなに激しい感情ではなかったとは思う。けれども、不快であったことは、確かだった。
いったい、何が変わってしまったのだろうか。
変わったことは、いいことなのだろうか、それとも良くないことなのだろうか。
考えても少しも答えが出ないから、遥はイヤになる。全て投げ出して、前と同じように何も感じなくなってしまえば、楽になるのに。けれども、そうしたら紫はどうなる?
いや、紫のことだって、忘れてしまえばいいのだ。彼女の言葉も、眼差しも、忘れてしまえばいい。
そう考えて、遥は深く息をつく。
それが、できない。
指定された第三研究室の戸を開けている今も、紫のことを考えると彼女の声を聞きたくなるのだ。
研究室に入った遥は、一つ深呼吸をして気持ちを切り替える。
そこでは、研究員の一人である小泉が待っていた。彼は遥に気付くと椅子から立ち上がって彼女を迎える。
「やあ、遥。お疲れさん。さっそく、これを頼むよ」
前置きもそこそこに、彼は保管ケースの中から小さなペンダントを取り出した。
それがどんな由来のものかの説明はない。これまでに同じような仕事をしても遥の方から何か質問することもなかったから、小泉も敢えて何も言わないのだろう。
遥は胸元から鈴を取り出して、手の中に握り込んだ。いつもなら、即座に鈴を鳴らすところだが、今日は、唯々諾々と指示に従うことに、何故かわずかな抵抗を覚えたのだ。
「遥?」
彼女の報告を記録しようとパソコンの前に座っていた小泉が、促すように名前を呼ぶ。
疑問を抱かれる前に、遥は鈴を振った。数回のその音色と共に、ふっと山吹色の蝶が現れる。それはヒラヒラと辺りを一回りすると、やがてペンダントに舞い降りた。そして、蝶が脈打つように明滅すると、目を閉じた遥の脳裏には次第に像が映し出され始める。
それは、そのペンダントの持ち主の視点なのだろうか。
目線は普段の遥よりも高く、恐らく大人のものだ。下げた視線の先に、少女がいた。6歳か、もう少し上か。少女は、不安そうに遥を――いや、ペンダントの持ち主を見上げている。
と、その時。不意に遥の視野がクルリと後ろを向く。ペンダントの持ち主が振り返ったのだ。その先に、数人の男と、少女。その子のことは、『研究所A』で見かけたことがあった。確か、恵菜という名前だったと思う。催眠の力を持っている少女だった。となると、男たちは研究員なのだろうが、それにしては、ごつい。
再び遥の視界が動き、不安そうに見上げてくる少女を捕らえる。ペンダントの持ち主からかけられただろう言葉に、彼女は激しく首を振った。それと共に、長い髪が広がる。ペンダントの持ち主は、そんな彼女を抱き締めた。何か言い含められているのか、腕の中で少女は繰り返し首を振っていたが、やがて、頷いた。腕から解放された彼女は頬を涙でぐしゃぐしゃにしながら一歩後ずさり、目の前から一瞬にして消え失せる。瞬間移動の力の持ち主だったのだろうか。
振り向いた先に、ずいぶん近寄っていた男たちの姿があった。そして、彼らの間に埋もれるようにしていた恵菜が、前に出てくる。ペンダントの持ち主に、逃げようとする気配はない。恵菜と目が合ったとき、ふっと全てが暗転した。
「何が見えた?」
『現実』に戻ってきた遥に、小泉が声をかける。
遥は何度か瞬きをし、手を握ったり開いたりして、自分を取り戻した。接触感応は他者の中に入り込むようなものだから、使った後は何となく自分の身体に違和感を覚えてしまうのだ。
「どうだった?」
小泉が、再度問うてくる。
まだ少しぼんやりしながらも、遥はポツリと返した。
「女の子がいた」
「それで?」
畳み掛けられて、遥は見たものをそのまま彼に伝える。
全てを聞き終えて、小泉は少し不満そうな顔をした。
「それだけ? 何か、その女の子が行きそうな場所の手がかりとか、ない?」
どうやら、少女の居場所を知りたかったらしい。
見たままを全て話した遥は、無言で首を振る。
小泉は諦めたように溜息をつくと、椅子の背に寄りかかって頭の後ろで腕を組んだ。
「残念。見失ったか」
心底から残念そうな彼を見つめ、いつもならチラリともよぎらない問いを、遥は口にする。
「このペンダントの持ち主は?」
彼女の言葉に、小泉は眉を上げた。まさか、興味を示すとは思っていなかったのだろう。
「珍しいな。気になるのかい? ああ、彼女は確保したよ。母親には何の力もないみたいだけど、娘は、どうも時間跳躍者みたいなんだ。早死にした母親の妹にも同じような力があったようだから、母親の遺伝子を調べたら何かわかるかもしれない。別のところで精査中だ」
「……母親は、その子をここに預けようとしたんじゃないの?」
「違う違う。ずっと逃げ回られててさ、なかなか捕まらなかったんだよ。ようやく手に入ると思ったのになぁ」
小泉は、悔しそうにそう言う。
一方で、遥はこともなげな彼の台詞に愕然としていた。自分自身がそうだったから、能力者は、皆、疎んじられてここに連れて来られているのだと思っていたのだ。そうではない者もいたなんて、考えもしなかった。
でも、それならば、何故、皆あんなにも従順なのだろうか。
浮かんだ疑問を、遥はそのまま小泉に投げる。
「ああ、それはね、特別な『プログラム』があるんだよ。最初は拒んでいても、殆どの子は、それでここに馴染むようになるな。中には、効果がない子もいるんだけど」
「そういう子は、どうなる?」
「それなりに有効利用してるよ……なんだ? 今日はずいぶんと色々訊きたがるんだな」
そう言って、小泉は眉をひそめる。だが、いつもと変わらぬ遥の様子に、それ以上の疑惑は抱かなかったようだった。実際、彼女は顔色一つ変えてはいない――その内情は別としても。
「ま、いいか。用は終わったんだし、部屋に帰れよ。俺は報告書作んなきゃだからさ」
彼は無造作に言うと、パソコンに向き直った。その背中を少し見つめた後、遥は無言で部屋を後にする。そして、そのまま自室に向かった。無性に、紫に会いたくてしかたがない。
今回の案件が、特殊だったのだろうか。いや、そうではない。きっと、今までにも同じ情景を見てきた筈だ。小泉も、そのことを臭わせていた。
ただ、遥が気付くようになっただけだ――紫に出会って、何かを感じ、考えるということを知ったから。
そこに至って、ふと、紫はどうだったのだろうかという思いがよぎる。
彼女も、涙を流したのだろうか。紫の親も、彼女を手放すことを拒んだのだろうか。
脳裏によぎった少女の縋るような眼差しが、頬を止め処なく濡らしていた涙が、胸に突き刺さる。
自分がどうしたらいいのか、どうすべきなのか。
今までは、暮林がそれを指示していた。暮林こそが遥の『頭脳』だった。だが、それは何かが間違っていたのかもしれない。
紫なら、答えを教えてくれるような気がする。
そう思うと気が焦って、遥は殆ど小走りで部屋に向かった。
*
小泉は報告書を渡しながら、ふと思い出したように付け加えた。
「そう言えば、遥、随分しゃべるようになりましたね。久し振りなんで、ちょっと意外でした」
「え?」
「いえ、『ペンダントの持ち主はどうしてるんだ』とか訊いてきたり。ま、相変わらずの無表情でしたけどね。興味津々、と言うよりは、ただ訊いてみた、というだけな感じでしたけど」
「へえ」
暮林は報告書をペラペラとめくりながら、興味があるのかないのか判断し難い口調で相槌を打つ。実際のところ、彼の頭の中は、たいして実のない報告書よりも、いつもと違っていたという遥のことで占められている部分の方が大きかった。
「もしかして、僕、何かマズイことしちゃったかなぁ」
彼の呟きに、小泉が怪訝な眼差しを返す。
「はい?」
「別に、気にしないで。独り言だから。報告書、ありがとね」
殆ど追い払うように、暮林はそう言った。
小泉が去り、一人になった部屋の中で、暮林は思案する。
――僕の可愛い妖精達。
『妖精』とは、我ながら言い得て妙だと思う。『超能力者』などと無粋な名称は、彼女たちには相応しくない。
少女たちは不思議な力を持ち、儚い存在だ。
まあ、寿命が短いのは、彼が施している処置の所為でもあるが。
それがなくても、彼女たちは元々一般的な寿命の半分――いや、3分の1も生きられない。恐らく、20歳がいいところだろう。それが優れた能力の代償だ。
彼女たちの力がどこから来るものなのか。
その謎を、多くの検体を費やして、ようやくこの手に入れかけている。
あと一歩なのだ。
それまでは、なんとしても現状を維持しなければならない。
もしも妖精が『何か』をしようと試みたら、一般人である暮林たちには、正直なところ、それを阻止する手立てがない。彼女たちがおとなしく従っているのは、他に行き場がないという生い立ちか、そうでなければ洗脳されているが故だ。
彼が作ろうとしている、最強の妖精。
アレが完成すれば、全ての妖精を従えることは容易だろう。いや、他の妖精など、いらなくなる。
暮林が初めて妖精を見たのは、彼がまだ5歳か6歳の時だった。
夕暮れの公園で、少女が男に襲われていた。男は単なる変質者だったのだろう。だが、少女は単なる少女ではなかった。
男の手を振り払った少女が彼を睨み付けると、一瞬にして、それは一本の巨大な松明と化した。青みを帯びた、美しい炎だった。そして、人体という燃えにくいものを燃やすほどの激しい炎にも拘らず、下生えに広がる事も無く。
完璧にコントロールされた炎だった。
わずかな時間で男を跡形もなく燃やし尽くすと、それはどこかに吸い込まれてしまったかのように一瞬にして消え失せた。
少女は怒りをその目に滾らせながら、同時に、涙を流していた。
彼女の、圧倒的な力。そして、凄絶なまでの美しさ。
木の陰に隠れて全てを目撃していた暮林は、魅了された。
そして、いつか手に入れたいと願ったのだ。
最も強く、最も美しい妖精を。
10年前に手に入れた至上の『妖精』のお陰で、暮林の夢は現実になりつつある。
だが、それには、まだしばしの時と労力が、必要だった。