Ⅳ
『研究所』の所長室で、暮林は待ちかねていた人物を前にしていた。
そこにいるのは、欧米人と東洋人の二人連れで、どちらも三十台半ばから後半ほどの年齢に見える。彼らは数ある『研究所』の中でも遺伝子についての研究を担当する部署の代表的存在だった。欧米人のほうをアルベルト・エールリッヒ、東洋人の方を鳥野信行という。鳥野の方は穏やかでどこか人当たりが良さそうだが、エールリッヒは陰鬱に沈み込んだ雰囲気を放っている男だ。
「もう、首を長くして待ってたよ。で、どう? できた?」
暮林は身を乗り出して、そう尋ねる。と、エールリッヒが無言でスーツケースから三個のアンプルを取り出した。暮林の目は、その輝く容器に吸い寄せられる。
「これが……?」
「ああ」
目の前に置かれたもの――それが、彼の魔法のクスリだった。
「ベクターに精神感応、催眠、遠隔念動を組み込んだ。それ以上は、今のところ無理だ。もっと大きなベクターにしないと。それに、反応を早めるための酵素を混ぜてある」
「打ってからどのくらいで効果が出るんだい?」
「三時間ほどで発現し、およそ五時間続く――計算上は」
「計算? 試してないの?」
「ラットでは試した。五時間というのは、そこから人での効果を推測したものだ」
「ふうん……人間ではやってないんだ……」
安全性が確立していないのはナンだが、先に他の人間がこの力を手に入れてしまうのも微妙に腹立たしい。暮林は、残念なようなホッとしたような、複雑な気持ちだ。
そんな暮林に、鳥野が静かな口調で問い掛けてきた。
「それを、本当に使うつもりですか?」
暮林はその質問に目を丸くする。こんな素晴らしいものを使わずして、どうしようというのか。
「もちろん。だから作ってもらったんじゃないか。使っても死にゃしないんでしょ?」
逆に問い返した暮林に、鳥野は少し眉根を寄せた。
「打ってすぐには、ということはないです。その辺は、実験でも確認しました。ただ……」
「ただ?」
言葉尻を濁した鳥野に、暮林は焦れったさを覚える。彼としては、言葉を飾ってもらう必要はない。ただ、使えるのか使えないのかだけを教えてもらったらそれでよかった。
鳥野は少し迷った末に、再び続ける。
「ただ、明らかに寿命は短くなりました。通常、ラットは二、三年生きます。ですが、それを投与したものはどれも一年未満で死にました。……調べてみたら、テロメアが異常に短くなっていて」
「その辺は、僕の子たちと同じなんだね。人間に使ったら、どのくらい早死にすることになるのかな」
「正直、判りません。たぶん、個体差などは随分あるのでは……」
鳥野の回答に、暮林は顎を抱えて考え込む。せっかく力を手に入れても、早死にしてしまうのでは意味がない。せめて、もう一つの計画の方が達成されるまでは。
やはり、深青を手に入れたいところだった。『研究所B』での出来事の記録から、深青と共振した愛璃は、研究室をことごとく破壊した後も自分の足で立っていたようだ。愛璃の力は確かに強いが、持久力はなく、一定の限度を超えると意識を失うほど消耗するのだ。あの時それがなかったのは、深青の力の影響に他ならないだろう。
彼女の持つ増幅させる力も興味深いが、愛璃がダメージを受けていなかったということの方が、より気にかかる。もしかしたら、画期的な何かがあるのかもしれない。
変性した深青の力をこれから新たに作る『彼女』に組み込めば、自分を『王』に、『彼女』を『女王』にした妖精の王国ができ上がる。それは何と素晴らしいことだろうと、暮林は興奮のあまりに身体が震えるのを抑えることができなかった。
独り悦に入っていた暮林は、客人二人の視線が自分に注がれていることに気付き、ニッコリと笑みを浮かべた。
「ああ、何でもないよ。今日はどうもありがとう、とても嬉しかった。『あっち』の方も期待してるからね」
「そちらは……もう一度、卵子が手に入らないか? かなり完成に近づいてきているのだが、もう少し検体が欲しい。今残っているものだと、ギリギリだろう。うまくいけば、間に合うが……」
「僕も何とかしたいんだけど、『彼女』があの調子だからねぇ。どうも、代謝を殆ど止めちゃっているみたいで。ま、何とか手に入れるように頑張ってみるよ。じゃあ、色々といつもありがとう」
言外に「帰って欲しい」という色を滲ませて、暮林は別れの挨拶に右手を差し出した。二人は彼の手を軽く握り、小さく会釈をすると所長室を出て行った。
客人が扉の向こうに消えてから、暮林は再び椅子に身体を落とす。
彼が望んだものは、二つ。
そのうちの一つは叶えられつつある。それがこの、自らの身に能力を備えさせることだ。欲を言えばもっと色々な力を持ちたいし、その力を使っても寿命が縮まないようにしたい。
そしてもう一つは、自分と『彼女』を無限につなげていくことだ。特に『彼女』にとってはそれが急務なのだが、ある程度形になりつつあるその技術は、しかし、あと一歩のところが不完全なのだと聞いている。
「ああ、ホントに待ち遠しいなぁ。僕がオベロン、『彼女』がタイターニア。真夏の夜の夢、だね」
暮林はポツリと呟く。彼には経験のないことだったが、クリスマスを待ちわびる子どもの気分というものは、きっとこれと似ているのだろうな、と思いながら。
*
退室したエールリッヒと鳥野の二人は、ヘリポートに向かって廊下を歩いていた。時々、少女とすれ違う。
しばらくは無言だったが、やがて、鳥野が口を開いた。
「なんだか、後味悪いな」
「え?」
「彼に協力するのは、後味が悪い」
沈んだ口調の鳥野に、エールリッヒは肩をすくめて返す。
「仕方がないだろう。彼をサポートしろというのがスポンサーの意向だ。ここと共同研究の形になっているから、資金もより潤沢になったし。お陰で、俺たちの方もだいぶ進んできたじゃないか」
「まあ、それはそうだが……」
口ごもったパートナーに、エールリッヒは呆れと羨望の入り混じった想いを抱く。彼の人の良さは研究の妨げになり得るが、永久凍土の氷のように心を固めてしまった自分には、誰かのために胸を痛めるそのさまは眩しくも感じられた。今も彼は、茫洋とした眼差しですれ違っていった少女の一人に、眉をひそめている。
その様子に内心で苦笑しながら、エールリッヒは声を潜めた。
「まあ、あの暮林という男も、存外長くはないかもしれないぞ」
「どういう意味だ?」
首をかしげる鳥野に、エールリッヒは肩をすくめただけだ。
彼らのスポンサーは、確かに多少倫理から外れていても、好きなように研究をさせてくれる。だが、それも彼らにとって一定の利益があるのであれば、だ。暮林は、少々自分の趣味に走り過ぎている感が否めない。
きっと、そのうちスポンサーから何らかのリアクションがあるに違いない――それがどんなものかは知らないが。
いずれにせよ、彼らは彼ら自身の望みを叶えるだけなのだ。
やがてヘリポートに到着した二人は、闇の中、自分たちの成すべきことを成しに、飛び去っていった。