Ⅲ
誰かが扉を叩いてる。
――誰だろう?
わたしは息を潜めて、どこかへ行ってしまうのをジッと待つ。だって、誰にも見つかったらダメだから。
コンコン、コンコン。
まるで卵の殻にするような、中身を壊さないように細心の注意を払っているような、そっと、優しいノックが続く。
こんなふうにノックをするのは、いったいどんな人なのかしら。
覗いてみようかな。
でも、やっぱり、怖い。
だって、ここを知っている人はいない筈だもの。
扉を開けたら、何か悪いことが起きる気がする。
だからわたしは、身動き一つしなかった。
また、静寂が訪れるまで。
*
目を開けた悠一郎は目の前に並ぶ顔に、まばたきをした。
一瞬、今いる場所がどこなのか、判らなかったのだ――つい先ほどまで、懐かしい風景に囲まれていたから。
彼の右手は恵菜の左手とつながっており、彼女の右手は深青の左手とつながっていた。
恵菜が、「スゴイ」と呟くのが聞こえる。
「あんなにはっきり見えて……こんなに離れてるのに、いけちゃうんだ……」
彼女は深青と繋いだ手をマジマジと見つめている。
「それで、どうだった?」
そう訊いてきたのは、真也だ。珂月と愛璃は深青の方に行っている。
「……『彼女』だ……」
悠一郎は、ポツリとそれだけ呟く。それは間違いなかった。たった今まで目にしていた光景は、かつて彼が夏の一時を過ごしていたものそのものだったから。
深い森に、コテージ。そのコテージはかつて遠目にしか見たことがなかったが、それでも、それが彼女の住んでいたものだということは確信を持って断言できた。
しかし、もしもあの中に彼女がいたのなら、何故、応えてくれなかったのだろう。
彼女たちの力は、『呼びかけたら応える』、そういうものではないのだろうか。
悠一郎の疑問が伝わったかのように、未だ手をつないだままの恵菜が口を開いた。
「彼女、閉じこもってる。ガードしてるんだわ」
「ガード?」
聞き返したのは、真也だ。恵菜が彼に頷く。
「そう。精神感応能力者は、他の能力者が接触してくるのをガードすることができるのよ。力が弱い相手だったらそのガードを崩すことができるけど……彼女のは、どうだろう。深青の力を加えても、ガッチガチでびくともしない感じ。こっちの接触には気付いていると思うんだけど。何度かやってみたら、反応してくれるかな」
自信をもてなさそうな恵菜に、悠一郎は彼女の手を握る右手に力を込める。
「やりたい……やらせてくれ」
――彼女は、いる。確かに存在しているんだ。
そう思うと、全身に力が漲ってくる気がした。
恵菜を、そして、真也を交互に見つめる。その力を増した視線の先で、真也は腕組みをする。
「確かに、アヤさんが自分の意志で動いてくれれば、色々やりやすいよなぁ。まあ、後はあちらさんがどういうつもりでいるかだな。深青や愛璃たちのことを放っておいてくれるんなら、多少時間をかけても構わないが……向こうが何か仕掛けてくるなら、できたら先手を打ちたいところなんだよな」
「そのうち、追いかけては来ると思うわよ。深青の力を、所長は涎を垂らして欲しがってる筈だから」
「そうか……」
考え込んだ真也に、悠一郎は迫る。
「三日、三日だけでもいい。時間をくれないか。三日経っても何も変わらなければ、諦める」
「……わかった。じゃあ、三日だけ待とう」
「ありがとう」
悠一郎は、深く頭を下げる。彼のわがままによって、無駄な時間を過ごさせてしまうかもしれない。そうすることで、彼らが庇護する少女たちの危険は増すのかもしれない。だが、そのリスクを考えても、悠一郎は譲ることができなかった。
アヤは『そこ』にいるに違いない。そう、信じている――信じたい。しかし、危険なことをする前に、彼女自身からの返事が欲しかった。もしも突入して、実際にはアヤがおらず、自分は捕まってしまったら。いったい、誰が彼女を捜してくれるだろう。
そこにずるい考えが潜んでいることは悠一郎も判っている。では、彼女がいないとなったら、彼らに協力しないのか。彼らの方は、悠一郎に対して親身になってくれているのに。その答えは、彼自身の中でも決まっていない。
だからこそ、絶対に真也たちと行動しようと決意できるだけの理由が――アヤがそこにいるという証拠が欲しかった。
「あんまり続けてやるのは無理だから、一日一時間ずつよ。悠一郎は、どこかおかしなところはない? あたしでも、ちょっとクラクラするわ。疲れたわけじゃないけど……乗り物酔いしたみたい」
隣から恵菜が言い添え、眉をひそめて問いかけてくる。そう言われると、彼にも浮遊感のような眩暈があった。
一日たった一時間。それでどこまで成果を上げられるか。
歯がゆい思いもあったが、恵菜や深青に無理はさせられない。しかし、でき得ることなら、一日中でも彼女に――アヤに触れていたかった。彼女を想う、この気持ちを伝えるために。
*
大人たちはそれぞれの仕事をこなしに、出て行った。リビングに残っているのは、子ども三人のみである。
愛璃は深青の前に膝をつき、彼女の顔をマジマジと覗き込んでいた。どこか、普段と変わったところがないかどうか慎重に確かめる。
能力を使った時の疲労具合には、個人差がある。愛璃は下手をすると意識を失ってしまうが、深青にはこれまでそういうことはなかった――治癒と変身の力の時には。一方、この、他者の力を増幅する能力は、最近知ったものだ。以前に初めて愛璃と共振した時はほんの数分間で、あの時は確かに何も変化はなかった。だが、今回は、時間が長い。
「本当に、なんともないんだね?」
「大丈夫だよ、全然平気」
ニッコリといつもと同じ笑顔を見せられて、ホッとする。
力を使えば消耗することを知っているから、愛璃は深青にできるだけ力を使わせたくないのだ。外見上何か変化が出ていなくても、きっと、身体のどこかに何か良くないことが起きているのに違いないと、彼女は思っていた。
そんな愛璃の内心を察したのか、深青は少し困ったように首をかしげる。
「ねえ、そんなに心配しなくていいんだよ?」
「でも……」
「わたし、この力が役に立って嬉しいの。ほら、あそこでは、わたしの治癒の力って全然役に立たなかったでしょう? 何度所長に呼ばれても弱っていく皆を助けられなかったから、本当は悔しかったの。もっとちゃんと使えればって、いつも思ってた」
「深青……」
いつも優しげに微笑んでいる彼女がそんなふうに感じていたとは、愛璃は全然気付いていなかった。言葉がない愛璃の手を、深青がそっと取る。
「あのね、そんなにわたしのことを心配してばかりいないで?」
「そんなの、無理だ」
ボソリと返した愛璃に深青が浮かべたのは、穏やかな笑みだ。仕方がないなあ、と言わんばかりの。
脱走する前は、自分が彼女を庇うだけだったと思うのに、今はこんなふうに宥められることが増えた。愛璃はそう考えて、内心で苦笑する。いや、『研究所』にいた時も、寄りかかっていたのは自分の方だったのかもしれない――本当は。多分、深青は愛璃がいなくてもおかしくならずに生きていけた。けれども、愛璃は深青がいなければ、きっとダメになっていた。
「あたしは、あんたを心配したいんだよ……させといてよ」
「じゃあ、わたしは愛璃の心配するからね」
首をかしげて、深青が言う。
愛璃は彼女と顔を見合わせて、どちらからともなく、笑みを交わした。
と。
唐突に、尖った声がそののどかな空気を壊す。
「おキレイな力を持ってる人は、そりゃいいわよね」
パッと振り向き、愛璃は声の主を睨み付けた。
「恵菜!」
「何よ、あんたはそう思わない? 汚れ仕事を押し付けられる能力じゃなくって、もっと『キレイ』な力が欲しかったって」
「あたしの力は、『これ』だ。変えようがない。こんな力を嬉しいとは思わないけど、変えようとも思わない」
「へえ?」
揶揄するような恵菜の嗤いに、愛璃はカチンと来る。
「あんたこそ、その力が気に入ってるんだろ? 喜んで所長に従ってたじゃないか。好きで皆の意志を奪っていたんだろ? それで得意げになって、まるで神様気取りだったじゃないか」
彼女のその言葉は、恵菜の傷に触れたのだろうか。さっと顔から血の気が引いた。
「だって……だって、あれは、所長が『イイコト』なんだって言ってたから! だから、あたしは! ……あんただって『仕事』してたじゃない! 全然嫌がらずに!」
「ああ、してたよ。でも、あたしは自分が何をしているのか、ちゃんと解ってた。誰かの所為にはしない。自分自身の意志でやったんだ。あたしは自分のしたことを、ちゃんと背負って生きていく。誰かの所為にするお前と一緒にするな」
激昂する恵菜とは反対に、愛璃の心はスッと冷めていく。立ち上がると、蒼褪めた恵菜の顔を見下ろした。これ以上言えば、彼女を完膚なきまでに叩きのめしてしまうだろうことは判っている。けれども、突いて出ようとする言葉を抑えるのは、困難だった。
更に言葉をぶつけようと、口を開きかけた愛璃の袖を、引っ張る者がいた――深青だ。
「愛璃、もう止めて? もう、ダメだよ」
深青の目は、微かに潤んでいる。それは、彼女自身が言われた台詞の所為ではないのだろう。深青は繊細だし、弱いとは言え精神感応の力を持っている。きっと、ダイレクトに恵菜の感情に共感してしまっているに違いない。恵菜を痛めつけることは、深青を傷付けることにもなってしまう。
愛璃はもう一度侮蔑の眼差しを白くなった恵菜の顔に投げつけると、リビングを後にする。
――このささくれ立った心のままで深青の傍にいるのは、イヤだった。
*
深青は部屋を出て行く愛璃の背中を見送ると、うつむいてしまった恵菜に視線を戻す。いつもは強気に顎を上げている彼女なのに、小さく縮まってしまっていた。
彼女の心の痛みは解かるけれどもかける言葉がなく、深青はただ黙って隣に座っているだけだ。
やがて、どれほど時間が経った頃だろうか。
不意に恵菜がうつむいたままでボソリと呟く。
「何よ……いつもみたいに、アイツとくっついてりゃいいじゃないのよ」
「今はあなたを独りにはしておけないよ」
「あんただって、あたしが皆にしたことを責めてるんでしょ? でも、しょうがないじゃない。所長がやれって言ったんだもの。所長は、それが皆の為になるからって……」
言い終えて、恵菜は微かに鼻をすすった。
やっぱり元気がないな、と思いながら、深青は続ける。
「愛璃はね、たぶん、あなたがその力でしてきたことを怒ってるんじゃないの。そうじゃなくて、あなたがそれを自分で考えてしたのじゃなかったことを、一番、怒ってるんだと思う。所長に言われたから――言われるまんまに、してたってことを」
「だって!」
唐突に恵菜が顔を上げる。その漆黒の目は潤みきっているが、頬は、まだ乾いていた。
「だって、所長だけだったんだもの! 所長だけが、あたしの力を認めてくれたわ!? あたしの力を、『スゴイ』って! それに応えようとして、何が悪いの!?」
叫んだ拍子に、目の縁に溜まっていた雫が、コロリと転げ落ちていく。それを、深青は悲しい思いで見つめた。自分も、『恵菜』になっていたかもしれない。愛璃と会えないままで『研究所』で過ごしていれば、きっと、彼女と同じようになっていた。あそこには、そんな子が他にもいた。中には無理やり連れて来られた子もいたけれど、殆どは、誰からも見放されてしまった子ばかりなのだ。
「そうだね。所長は、あなたが欲しいと思った言葉を、欲しいと思ったときにくれたんだよね。そして、所長は認めてくれた。でも、あの人が認めてくれたのは、わたしたちの『力』なんだよ? わたしたち自身じゃないの」
「そんなの……」
――それでも良かった。
そう呟いた恵菜の声が聞こえたような気がした。
深青は、無性に寂しくて堪らなくなる。この寂しさは、自分自身のものなのか、それとも……。
「ねえ、恵菜?」
そっと、深青は恵菜に呼びかける。上げられた彼女の黒い目は、やっぱりぽっかりと空いているようで、そこからでは感情を読み取りにくい。だからこそ、よりいっそう、寂しくなる。
彼女は、まるで、途方に暮れた子どものようだ。
伸ばした手で、深青は恵菜の濡れた頬に触れる。
「きっとね、あなたの居場所は見つかるよ。でもね、それには、自分のしたことを誰かのせいにしてたらダメだと思うの。それをしているうちは、あなた自身が、あなたの力を受け入れていないっていうことだと思うんだ」
深青は、額を彼女のそれにコツンと当てる。自分が愛璃からもらった『勇気』を、恵菜にも分けてあげられたらいいな、と思いながら。
「だからね、諦めないで、探してね」
そう残して、手を放す。自分の気持ちが伝わったかどうか判らないけれど、これが、深青が恵菜にあげられる精一杯の言葉だった。
立ち上がった深青は、出て行ってしまった愛璃の後を追った。外には出られないのだから、行った場所の検討はつく。というより、そこしかないだろう。
深青は三階の自分たちのフロアに戻り、愛璃と共同で使っている寝室のドアをそっと開けた。案の定、愛璃のベッドの毛布はこんもりと膨れている。
黙ってベッドの端に腰を下ろすと、毛布の下がモソモソと動いた。
自分の腰に回された腕にそっと手を添えると、彼女はギュッとしがみついてくる。
やがて、くぐもった声が響いてきた。
「あいつを見てると、イライラするんだ。『所長が』『所長が』って。あたしたちは、道具じゃない。ちゃんと、自分の意志で動けるのに。恵菜は自分からアイツの道具になりたがるから……」
「うん」
短く応えて、深青は毛布の上から彼女の背中を撫でる。
しばらくして、また、毛布の中から声が届く。
「……あたしだって、あそこまで言うつもりはなかったんだ。でも……」
「うん、そうだね。後で、ごめんなさいって言おうね」
腕の力が強まって、深青は、少し苦しいな、と思う。けれども、「放して」とは言えなかった。代わりに、いつも深青の中にある言葉を口にする。
「わたしは、ずっと愛璃と一緒にいるからね。ずっと、だよ」
「……絶対、無理だよ。あたしとあんたじゃ――同じところには行けない。あんただったら、神様だって受け入れてくれる。でも、あたしはダメだ」
そこに滲むのは、罪悪感。滅多に深青には見せないけれど、それは、常に愛璃を蝕むもの。
二人とも、自分たちが過ごしているこの時間が長くは続かないことを知っている。その事実からは、決して目を逸らすことはできないのだ。
深青は身体を伏せて、愛璃の身体を抱き締める。
「じゃあ、神様に会ったらお願いするよ。愛璃と同じところに行かせてくださいって」
「……ばか」
彼女が、ボソリと呟いた。
「ばかでも、いいよ」
微笑みながら小さく返したその言葉に、硬く強張っていた愛璃の身体が少し緩んだのが、感じられた。
*
夜も更けて。
一度はベッドに入ったものの、喉が渇いて起きだした悠一郎は、真っ暗なリビングでソファに身体を沈めるようにしている少女に気が付いた。
「恵菜?」
静かにその名を呼んだが、しばらくは静寂だけがあった。
まだ数日しか共に過ごしていないが、非常に気紛れな少女である。そっとしておこうかとも思ったが、何となく、そうしてはならない雰囲気があった。
応えがないまま、悠一郎は待つ。
やがて、彼女がぼそりと呟いた。
「何?」
恵菜から漂ってくる空気は、全身の棘をビンビンに尖らせたハリネズミのようだ。棘は棘でも、それは薄氷で作られているような、ちょっとつついたらシャラシャラと音を立てて壊れていってしまいそうなイメージを抱かせる。
尋常ではない力を持っているこの少女は、どこか、『弱い』のだ。
「こんな時間に、何をしてるんだ?」
「別に。放っておいていいから、寝てよ」
恵菜の返事はにべもない。
精一杯の虚勢を張っているような彼女は、むしろそっとしておいてやったほうがいいのだろうか。そう思いかけ、悠一郎は胸中でかぶりを振る。
こんな、まだ幼い少女が、たった独りで暗い中、思いつめていていい筈がない。
「君はアヤを助けるのを手伝ってくれているんだ。自分にできることがあるなら、するぞ?」
「ないわよ、そんなの。いいから、放っておいてってば! あたしはずっと独りでやってきたんだから、誰の手も必要無いわよ!」
キッと悠一郎の方に向き直り、恵菜が鋭い声を投げつける。漆黒の髪に縁取られた白い顔。その中で磨きぬかれた黒檀のような目が強い光を放っている。
だが、それでも、その拒絶の中に潜むものが、悠一郎をその場に留まらせた。もう声はかけず、無言で佇む。
どれほど待ったか、判らない。
やがて彼女は膝の上に顔を伏せた。
くぐもった囁きが、辛うじて悠一郎の元に届く。
「あたしには、もう居場所なんて、ない。あそこだけだったのに……あそこだけが、あたしを認めてくれたのに……」
この少女の求めるものは、それなのか。
人は社会で生きるものだから、常にどこかに『所属』するものだ。家庭、学校、職場……。恵菜の年頃であれば、普通は何の苦もなくそれは手に入れられる――敢えて求めずとも、与えられて然るべきものなのだ。
悠一郎も、自衛隊を辞めたことで『どこにも属さないことの寄る辺なさ』を知った。大の大人の彼でも、不意に心許なさを感じる。それは、こんな子どものうちに知るべきものではないと言うのに。
悠一郎は静かに彼女に歩み寄り、そっとその頭に手を置く。彼の中にあるものがただの同情ではなく共感を含んだものだった為だろうか。触れた瞬間にピクリと肩を震わせたが、振り払われることはなかった。
やがて恵菜の呼吸が穏やかになり、全身から力が抜ける。悠一郎は小さなその身体を静かに抱き上げると、彼女の部屋に連れて行った。