Ⅱ
用事を終えて戻ってきた珂月は、真也の部屋のリビングで見知らぬ二人を紹介された。
「こっちが春日悠一郎、こっちが恵菜。恵菜には精神感応と催眠の力があるらしいぞ」
サラッとそう言われ、珂月は憮然とする。真也の直感は信用している――信用しているが、それにしたって、かつて敵だった者をこんなにあっさりと受け入れてしまっていいものなのだろうか。真也と珂月だけならまだしも、ここには深青と愛璃がいるというのに。
そんなふうに真也に対する不満をぶつぶつと胸中で呟きながら、珂月は二人に右手を差し出した。
「椎名珂月です、よろしく」
「こちらこそよろしく」
悠一郎の方は色々な意味でいたって普通の人間に見える。
挨拶を済ませた珂月に、真也が一通りの話をかいつまんで聞かせてくれたので、流れはわかった。
「で、どうするって?」
「ああ、まずは偵察が必要だろ? けど、愛璃は『研究所』の『中』しか知らなかったじゃないか」
真也の言うとおりだ。だからこそ、彼女の力を使って敵地に忍び込む、ということができなかった。愛璃では、『研究所』の中、しかも監視カメラで見られている場所にしか跳べないのだ。どういう刷り込みなのか、『研究所』に跳ぼうとすると、あの場所しか思い浮かばないという。行ったが最後、たちまち大騒ぎになってしまうだろう。
黙って続きを待つ珂月に、真也が続ける。
「この恵菜は、『外』を知っているらしい。何回か『研究所』の周囲に出たことがあるんだそうな。だから、彼女をナビゲーターにすれば、突入せずにまずは周囲の様子やら何やらから確認することができる」
確かに、敵を叩くには、まず相手の情報をできるだけ手に入れることが鉄則だ。全く何一つ情報がない場所に潜入するなど、ハリウッド映画でもあるまいし、愚の骨頂だろう。恵菜が使えるというのであれば、願ってもないことだ。
だが、問題は彼女を信用できるのかどうか、ではないのだろうか。
珂月は横目で件の少女を見やる。彼女の目は虹彩も瞳も漆黒で、まるでポカリと穴が開いているようだ。いまひとつ、何を考えているのか読み取りにくい。
珂月の視線を感じたのか、恵菜がふと彼女に視線を向けた。珂月はその中に吸い込まれてしまいそうな、そして心の奥底まで覗き込まれてしまいそうな、奇妙な感覚に襲われる。
少女の目が珂月に留まっていたのはわずかな間のみで、つと目を逸らすと、彼女はまたテーブルの上に視線を落とした。どこか諦めを含んだようなそのさまに、珂月は罪悪感に近いものを覚えて、無意識に拳を握り締める。恵菜がこれまで何をしてきたとしても、それは彼女だけが悪いわけではないのだ。深青と愛璃の話を聞く限りでは、『研究所』はかなり異常だ。二人にはお互いがいて支えあうことができていたが、この恵菜という少女はどうだったのだろう――たった独りで、過ごしていたのだろうか。
不意に、温かく柔らかなものが手に触れた。羽根が触れたような感触に目を落すと、自分の拳に深青の手が重ねられていた。心配そうに見上げてくる彼女に、フッと笑みを漏らす。
「何でもないよ」
珂月のその言葉に、深青もホッとしたように頬を緩めた。この少女は、人の感情に敏感すぎる嫌いがある。それが彼女の能力からくるものなのか、本来の気性からくるものなのかは判らないが、それは彼女を疲れさせてしまうのではないかと、心配になる。
だが、当の深青は、そんなふうに気遣いしていることに無意識なのだろう。
珂月は手を伸ばして、なんでもないよ、というように、彼女の頭を撫でてやる。
そんな彼女たちを真也がジッと見つめていたのだが、珂月は気付いていなかった。
「愛璃、お前は一度に何人くらい運べる?」
真也に水を向けられた愛璃は軽く肩をすくめる。
「二人までは確実、三人はどうかな。したことないや」
「二人というと、恵菜は外せないから、後は俺かな」
当然のようにそう言った真也に異議を挟んだのは深青だ。
「ダメ! 愛璃が行くならわたしも行く!」
「深青は留守番」
ざっくりと却下され、深青は愛璃に身体ごと向き直る。
「何で!? わたしが行けば、『アレ』が使えるでしょう? そうしたら……」
「ダメ。深青の力は使わないし、使わせない」
『アレ』とは、深青が持つ、愛璃の力を増強させる力のことだろうか。以前に聞かされた二人の話から察するに、確かに有用なものなのだろう。特に、愛璃は力を使いすぎると人事不省に陥ってしまうらしいが、それを解消できるというのなら、かなりの利点になる筈だ。だが、当の愛璃は頑として深青の訴えを聞き入れそうにない。
「いいんじゃないのぉ? 深青と力を併せれば、スゴイ力が出るんだろ? 三人なんて楽勝じゃんか」
能天気なことをほざく真也を目で黙らせ、半分泣きそうになっている深青の頭に手を伸ばし、珂月は宥めるようにポンポンと叩いた。
「聞き入れろ、深青。こっそり嗅ぎ廻るなら、真也が適役だ。偵察の時は、人数は少ない方がいい」
しかし、彼女のそんな言葉にも、深青は俯いて唇を噛んだだけだった。普段、この少女がこれほど自分の意見を主張することはない。珂月たちが理不尽なことは言わないからでもあるのだが、たいていの場合、『ダメ』の一言で事足りる。その一言で、素直に引き下がるのだ――いつもは。
常にない深青の様子に、珂月は何か一波乱起きそうな、嫌な予感を覚えた。
愛璃をヒタと見つめる深青、その深青に応じない愛璃、そして、深青に不安の眼差しを注ぐ珂月。
そんな三人を呆れたような目で一舐めし、恵菜が口を開く。
「もう一つ提案があるんだけど、いい?」
彼女に、五対の視線が向けられた。
*
まったく、ヌルイ。
なんてぬるま湯のような空気なのだろう。
愛璃も、珂月という女性も深青に対して甘すぎるし、真也という男も「仕方がないな」と言わんばかりの苦笑を浮かべているだけだ。あろうことか、悠一郎まで微かに目元をほころばせているではないか。
恵菜は、彼らと自分との間に壁のようなものを感じる。
――同じ『能力者』なのに……。
何故、深青は何の苦もなく受けれいられて、自分はダメなのか。
尖った気持ちが、そのまま声に出た。
「もう一つ提案があるんだけど、いい?」
一同の視線が恵菜一人に集まる。彼女は淡々と計画を述べた。
「偵察もいいんだけど、こっちの目的は悠一郎の『アヤ』を見つけることなのよね。肝心の彼女が実は『研究所』にいないってことになったら、意味がないわけよ。だから、本当に彼女があそこにいるのかどうか、知っておかないと」
「だが、どうやって?」
真也が腕を組んでそう尋ねてくる。
恵菜はチラリと隣に座る悠一郎に視線を流してから、続けた。
「あたしが『研究所B』に呼ばれた時――あんたたちがあそこを壊した時よ――あそこで、変なものを見たの」
「変なもの?」
「そう。大きなカプセル。ちょうど、人が一人入るくらいの、大きさだった。あたしたちが『探索』する時は腕を伸ばすイメージで意識を伸ばしていくんだけど、そのあたりだけ、なんかこう、弾かれるような感じがしたわ。精神感応能力者がガードしてる時と似てた。それとあと、もう一つ。あたしが悠一郎のところに行けって言われた時、所長が『綾子』って名前を出したの。『綾子』って子の知り合いだからって。でも、あたしはそんな名前の子は知らない」
「君が知らないだけじゃないのか?」
真也の問いに、しかし、恵菜はかぶりを振る。
「あたしがいた『研究所A』に、能力者は二〇人くらいしかいないのよ。皆、顔見知りだわ。少なくとも、名前も知らない、何て子はいなかった。あんたたちが『B』の方を壊しちゃったから、そっちの方にいた人たちも皆『A』に移ってきたけど、新しい能力者はいなかった。あたしが知る限り、『綾子』なんて子、『研究所』にはいないのよ」
「そのカプセル中にアヤがいる、と?」
期待の色を滲ませた悠一郎が、呟くようにそうこぼす。恵菜はそれを肯定も否定もしなかった。ただ、自分の考えを口に出すだけだ。
「『アヤ』が二六歳だとすると、正直――その、……可能性は低いわ。でも、もしも彼女がいるなら、普通に生活していることはないと思う。だから、あのカプセルが気になるのよ。『B』が潰されて色々が『A』に移ってきた頃から、アレと同じ感じが所長室の隣あたりにあったわ。カプセルが運び込まれたところは見てないけど、たぶん、そこにあるんだと思う。わたしの知る限り、『A』に人を隠せるような場所はないし、居そうな場所と言ったら、それぐらいしか思い当たらないわ」
「春日さんが言うようなスゴイ力を持ってたら、暴れられると厄介だから、とか、クスリか何かで眠らされてんのかな」
真也が顎に手を当ててそう呟く。
あの所長なら、それもあるだろうな、と恵菜は思う。多分、自分の望みを叶えるためなら、何でもするだろう。あるいは、アヤ自身で自らを閉じ込めている、という可能性もある。強い精神感応能力者なら、完全に外部と自分を切り離してしまうこともできるだろうから。
所長のことを思うと、恵菜の胸には鈍い痛みが走る。何故、あんなにも盲信できていたのだろうか。でも、もっと解からないのは、未だに彼のことを振り切れない自分がいることだ。再び所長の駒になろうという気は毛頭ないが、この心の中から完全に切り離すこともできないでいる。
お互いの存在に依存しきっている愛璃と深青を見ていると訳もなくイラついてくるが、たぶん、一番腹立たしいのはあんな男に心を残している自分なのだ。
胸の奥底にわだかまる底なし沼のようなひずみに囚われかけていた恵菜は、続く珂月の声でハッと浮上する。
「『ソレ』がアヤさんだっていうのを確かめる方法はないのかな」
「あたしが提案したいことは、そのこと。あたしは完璧に拒絶されたけど、もしもそれが『アヤ』なら、悠一郎には反応するかもしれない。深青はあたしたちの力を増幅させることができるんでしょ? 『研究所』の誰も口には出していなかったけど、ガードが弱い奴が中にはいるから、だだ漏れだったわ。あんたのその力を使ってあたしの精神感応を強めて悠一郎の意識を送ってみたら、もしかしたら……」
「反応があるかも?」
真也の言葉に、恵菜はコクリと頷く。
外部からの情報も拒絶されていたらどうにもならないが、単に閉じ籠っているだけ、反応しようとしないだけ、であれば、こちらからの働きかけいかんによっては応じてくれるかもしれない。
「やってみる価値はありそうだな……どうする、深青?」
真也が話を振ると、深青は即座に頷いた。少し眉をひそめはしたが、今度は愛璃も何も言わずにいる。
「わたし、やりたい。この力が役に立つなら、やるよ」
碧眼を輝かせて、深青が言う。恵菜からすれば、何がそんなに嬉しいのか、と思うほどの気の入れようだ。
一区切りついたところで、真也が立ち上がる。
「よし、まあ、そんなに急ぐものでもあるまいし、今日のところは休んでもらおうか。滞在場所は?」
その問いに、悠一郎は小さく首を振った。
「これから安いホテルでも探しに行きます。この近辺がいいですよね」
「ああ……だったら、ここの四階を使うといい。今なら他の依頼人もいないし、二人で使ってください」
「しかし……」
「変に分散するよりも、いいですよ。『敵』が来た時に備えて」
ニッと笑った真也へ、悠一郎が恐縮そうに頭を下げる。
「すみません、お言葉に甘えさせていただきます」
「かったいなぁ。しばらくの付き合いになるんだから、もっと軽くいきましょうや」
「は……」
対照的な二人のやり取りと横目で見ながら、恵菜は「あんたは軽過ぎでしょ」と内心で呟いた。
*
夜も更けた頃。
珂月は、屋上で独りタバコをふかしていた。禁煙チャレンジ中だが、どうしてものみたくなった時は、こうやって屋上に出てくる。
細い月を見上げながら、溜息と一緒に煙を盛大に吐き出した。
ふと、背後の気配に気が付いて、相手よりも先に声を上げる。
「何の用だ?」
「別にぃ。俺も一服しに来ただけ」
そう言って真也は彼女の隣に立つと、胸ポケットからおもむろに禁煙パイプを取り出した。
しばらくは、両者無言で時が流れる。
やがて口を開いたのは、真也の方だった。
「誰も彼もを、重ねるなよな――妹に」
「……わかってる」
そう、頭では解かっている。だが、心は、どうしても彼女たちに妹の姿を見てしまうのだ。
――あの子は、どんなふうに過ごしているのか。どんなふうな扱いを受けているのか。
少女たちの話を聞くにつけ、不安が増していく。
彼女たちの力に、いったい何の意味があるのだろう。あんな、持ち主を不幸にする力に。
力がなければ幸せになれるとは限らない。けれども、力がある故に不幸せになっている部分は大きい筈だ。
妹は、何故、『予知能力』などを持って生まれたのか。
不意に真也が手を伸ばし、珂月の頭をクシャクシャと撫でる。それをピシリと撥ね退けて、彼女は夜空を見上げ続けた。