Ⅰ
黒木真也が稼業のよろず屋の事務所にしているのは、自宅の一階部分だ。自宅といっても四階建てのマンションで、二階が真也の、三階が珂月と居候の少女二人――深青と愛璃の住居になっている。四階は空室で、普段から、依頼人を寝泊りさせる必要がある時に使っている部屋だ。
今、真也は二人の少女と共に、事務所でダラダラと時間を潰していた。珂月は買出しに出かけていて、留守だ。
深青と愛璃はいつものようにソファの上でピッタリとくっついて、深青は読書に、愛璃は携帯ゲームに夢中になっていた。深青は行儀よく足を揃えて座っているが、愛璃の方は深青に背をもたせかけ、ソファの肘掛に足を投げ出している。
それは仔猫が二匹寄り添っているような、どこか微笑ましい雰囲気を醸し出していた。
寛いで、安寧に満ちた、空気。
そんな穏やかな空気を、来客が鳴らしたチャイムが邪魔をする。
「あたしが出る」
と、ゲームに没頭していたかのように思われた愛璃がパッと立ち上がり、身軽く玄関の方に駆けていく。彼女の背中を、本を伏せた深青がジッと見送っていた。
寛いでいるように見えても、二人は常に追っ手を警戒しているようだった。片時も離れずにいるのは、ただ一緒にいたいから、というだけでなく、知らないうちに相手がいなくなってしまうことを恐れているからでもあるのだろう。
この二人が心から安らぐことができるようにするには、いったいどうしてやったらいいのだろうかと、真也と珂月はこれまでにもしばしば話し合ってきた。だが、人知を超えた相手に手をこまねいているのが、現状だ。
「どうしたもんかな」
ボヤきながら、二人が来てから禁煙している真也は、口寂しさをごまかすために、ノンシュガーの飴を放り込む。
のんびり愛璃が客を連れてくるのを待っていた真也だったが、やがてその耳に届いてきたのは、喧々囂々と誰かとやり合う彼女の声だった。いったい何事なのか。
見れば、深青も不安そうに立ち上がり、廊下の奥、玄関の方を覗き込んでいる。
真也はヤレヤレと声の方に向かった。
行ってみると、どうやら彼女は扉の向こうの相手と言い争っているようだった。
「だから、あんたなんか入れるもんかって言ってるだろ!? さっさと帰れ!」
「ちょっと、待ちなさいよ! 用があるのはあたしじゃないって、何度言ったらわかるのよ! とにかく、入れなさいってば!」
「うるさい! そんなのに騙されるか! 帰れ!」
「入れろ!」
……まるで、仔犬の喧嘩だ。キャンキャンした声が脳に響く。
このタイミングで、愛璃の知り合いで、少女で……と来たら、恐らく『能力者』だということは、容易に推察できた。
「愛璃、ほら、どけ」
「真也! だってアイツは……!」
「いいから、客だろ? 何かしそうになったら、その時に追い出しゃいいじゃねぇか。第一、こっちの居場所を知られてるなら、お前たちが目的だったら御丁寧に玄関からなんざ入ってこねぇだろうが。そういうヤツらなんだろ?」
真也の言葉が的を射ていたのか、愛璃はグッと口を噤む。そしてキッと真也を睨み上げると、黙り込んだまま玄関のドアを開けた。
身体機能として可能なことであれば、愛璃の髪は逆立っていたかもしれない。
開かれた扉の先で両手を腰に当てて立っていたのは、墨のような漆黒の髪を高い位置で二つに結わえ、同じ色の目を険しくさせている少女だった。見覚えはある。確か、愛璃を助けに行った時にチラリと見かけた筈だ。
「さっさと開けなさいよね!」
扉の中の住人を認めると同時に、彼女はそう言い放つ。そして、迎え入れる言葉を待つことも無く、さっさと玄関に上がり込んだ。一種感心するほどの気の強さだ。
肩をすくめながら扉を閉めようとした真也だったが、愛璃のきつい視線が外に向けられたままであることに気付く。
「どうした?」
そう問い掛けながら、外を覗き込む。と、そこには、三〇歳ほどのがっしりした体型の男が、少し困ったような顔つきで佇んでいた。真也の姿を認めると、小さく頭を下げる。
「どうも」
「どうぞ」
番犬よろしく立ちはだかっている愛璃の腰に腕を回し、ヒョイと持ち上げてどかすと、真也は空いている方の片手を広げて男に入室を促した。
「失礼します」
どこか硬い男の物腰に、真也は、何となく軍隊関係の人間だろうかという印象を受ける。重心の偏りの無い歩き方も、訓練された者の動きを思わせた。
「ちょっと、下ろしてよ!」
と、男の背中を観察していた真也の腕の中から、抗議の声が上がる。視線を落とすと、荷物のように小脇に抱えられてジトリと睨みあげてくる新緑の瞳と行き合った。
「悪い悪い」
素直に下ろしてやろうとして、真也の中に不意にイタズラ心がこみ上げる。
「ふゃッ!?」
足を床に着けようとしたところを逆にグイと持ち上げられ、愛璃が間の抜けた声を上げた。
「下ろせ!」
「下ろしてくださいって、言ってみな」
ニヤニヤ笑いながら、より一層、両腕を高く上げる。殆ど天井に届きそうなほどだ。どうにも、この少女の妙に突っ張っているところを見ていると、真也は構ってやりたくなってしまって仕方がない。
「下ろせってば!」
「下ろして『ください』」
同じ問答。
と。
「あ! 愛璃、ダメ!」
二人のやり取りをハラハラした面持ちで見守っていた深青が声を上げる。
何だ? と真也が警戒した時には、遅かった。彼のこめかみをガツンと衝撃が襲う。その小ささ故にピンポイントでイイところに入った愛璃の踵に、真也の目の前には火花が散った。ふらつきながらも、彼女を落とさないように慎重に下ろす。
無事、床に降り立った愛璃は、「フンッ」と小さく鼻を鳴らすと、深青の元へと小走りで向かっていった。
*
「で、いったいどんな用件で?」
バカな騒ぎをひとまず終え、事務所の応接セットで一同は改めて顔を合わせていた。
約二名の醸し出す空気のために、和やかとは程遠い状況である。その二名、愛璃と黒髪の少女は、ヒタと睨み合っていた。
口を開いたのは、三〇がらみの男の方だった。精悍な顔つきで、その物腰も厳しく律されており、一般的なサラリーマンなどとは一線を画している印象だ。
「自分の名前は春日悠一郎、こちらは恵菜と言います」
そう言って、一礼。背筋を伸ばし、きっかり四五度、腰を曲げる。釣られて真也もひょいと頭を下げた。
「こっちは、黒木真也、深青、愛璃だ。ウチが何をやってるかは、ご存知で?」
真也は、当然相手が自分の稼業を承知で来訪したのだと思っていた。訊いてみたのは一種の社交辞令のようなものだ。しかし、目の前の男は少し困ったように「それが……」と苦笑する。
「自分は、何も知らないんです。この子が――と恵菜を指し――とにかく、ここに行け、と。……その……信じていただけるかどうかわかりませんが……」
悠一郎が言いかけて、止める。真也は特に促すこともせず、彼が再び語り出すのを待つ――その言わんとすることは、おおよそ予想が付いていた。
注がれる真也の視線の中で、やがて悠一郎は意を決したように再び口を開いた。
「あなたは、『超能力』というものを信じますか?」
怪しい勧誘のような台詞を、彼は若干頬を赤らめながら、けれども真剣な眼差しで口にする。真也にしてみれば、信じるも何もない。彼自身が二人の特異能力者と共に暮らしているのだから。だが、まずはしらばっくれてみせる。
「『超能力』ですか」
そら惚けた口調でそう答えた真也を、恵菜という少女がキッと睨み付ける。
「とぼけないでよ! そこに二人もいるじゃない!」
「その子たちも……?」
悠一郎の目が、微かに見開かれる。そして、マジマジと目の前の二人を見つめた。その視線を受けて、深青は逃げるように少し顔を伏せ、愛璃は眉を険しくする。
「じろじろ見るな」
深青の手を握りながらそう言った愛璃に、悠一郎は慌てた口調で謝った。
「すまん。いや、そんなに何人もいるものだとは、思っていなかったから……」
大の男が小さくなったのが面白かったのか、深青が微かに口元をほころばせる。それを受けて、悠一郎もホッと頬を緩ませた。
その様子を眺めながら、真也は、少なくとも悪い男ではなさそうだと、いや、むしろ真っ正直な男のようだと判断し、腹を割って話をすることに決める。
「で、超能力者が何だって?」
真也に軌道を元に戻され、悠一郎は再び生真面目な顔つきになった。
「では、あなたが超能力というものを信じているとして、話を進めます」
そう切り出して、居住まいを正した。
「自分は、十二歳の時に一人の少女と出会いました。名前は『アヤ』――彼女はそれだけしか名乗っていません。その当時で八歳だと言っていたので、今は二六歳前後の筈です。彼女は自分の祖母が経営している民宿の近く、と言っても距離はだいぶ離れていましたが――とにかくそこに住んでいて、自分は夏の間だけ彼女と会うことができました。一夏に一週間、それだけです」
そう言った悠一郎の眼差しには、懐かしむ色が浮かぶ。その目を見ただけで、彼にとってその一週間がどれほど貴重なものだったかを容易に察することができた。
「自分が最後に彼女と会ったのは、十八歳の夏でした。その夏を最後に、彼女はふっつりと姿を消したのです」
「単に引っ越しただけでは?」
「いいえ」
明確な断言だ。
「その根拠は?」
「彼女が住んでいたコテージが尋常ではない壊され方をし、その残骸から、彼女の両親のものと思われる遺体が見つかったからです。死因は、刃物によるものだと聞いてます。そして、それっきり、彼女はいなくなりました」
確かに、普通ではない状況だろう。だが、それだけでは『超能力者』に繋げる根拠に欠ける。真也はそのままその疑問を口にする。
「で、何で『超能力』が出てくるんだ? 強盗か何かの犯罪に巻き込まれたって考える方が普通だと思うけど」
至極妥当なその問いに、悠一郎の両膝の上で握られていた拳にグッと力がこもる。
「確かに、新聞には、強盗によるものだと書かれました。だが、自分は、そうは思えなかった」
「何故?」
「一つは、アヤのことが存在しない、とされたからです」
「存在しない?」
怪訝な顔をした真也に、悠一郎が顔を険しくして深く頷く。
「はい。彼女は確かに存在した。けれども、誰一人、彼女のことを知らなかったんです」
「どういうことだ?」
「判りません。でも、住民票にもアヤの名はなく、自分以外、彼女の姿を見た者がいないというのです」
「それは……」
やはり、悠一郎の思い違いか何かなのではないかという考えが、真也の頭の中を一瞬よぎる。だが、悠一郎のあまりに真剣な眼差しに、その考えを一蹴した。きっと、彼の言うとおりなのだろう。深青や愛璃と会ってから、この現実、何があってもおかしくないというのがよく判ったのだ。
「で、彼女が連れ去られたのだという他の根拠は?」
真也は悠一郎に先を促したが、ここに来て、彼は一瞬ためらった。しばし口ごもった後、意を決したように続ける。
「アヤが特殊な力を持っていたかもしれないからです」
「特殊な力?」
「はい。……自分も、つい最近まで、そのことを忘れていました。というより、記憶が消されていた感じです。それが、突然、戻ってきました。しかし、取り戻した今は、アレは現実にあったことだとはっきりと断言できます」
そう言った悠一郎のその目は、確信に満ちている。
「何を、見た?」
「……トラックが、宙に浮くところを」
「トラック? 軽トラか?」
「いいえ。大型です」
流石に、真也も目を丸くする。大型トラックと言えば、かなりの重量になる。
「あれ、十トンぐらいするんじゃねぇの?」
「荷が積んであったので、軽く超えると思います」
真也は思わず口笛を一吹きする。その音に被さって、鋭い声が飛んだ。
「嘘!」
その声の主は、それまで無言で耳を傾けていた愛璃だった。心の底から真偽を疑っている声音で、断言する。
「そんなの、ありっこない! あたしたちの力じゃ、百kgだって上げられないよ」
「だが、確かに、浮いていた。ほんの十cmほどだったが」
「一cmだって無理だ。停めることだってできないよ。あたしの力は強いって言われてたけど、『持ち上げる』のは六〇kg……頑張っても七〇kgがやっとだった」
愛璃の非難に近い眼差しを受けて、悠一郎が苦笑する。
「だが、確かに見たんだ。……意識して思い返してみると、他にも不思議なところがある子だった。時間を約束しているわけでもないのに、自分が待ち合わせ場所に行くと殆ど間を置かずに現われたりとか、普段はおしゃべりなほどなのに、自分が落ち込んでいたりすると何も言わずにただ黙って傍に座っていてくれたりとか。察しの良い子なのかと思っていたが、振り返ってみると、良過ぎていた気がする」
「でも、それって……PKとESPを一緒に持っていたってこと?」
今度口を開いたのは、深青だ。そう問いながら、窺うように恵菜を見る。彼女は肩をすくめて返しただけだった。たぶん、恵菜はもうあらかたのことを聞いているのだろう。
深青の碧玉のような目を向けられて、悠一郎は頷く。
「その二つを同時に保有することはあまりないということは、聞いた、が……自分の受けた印象は、そうだったんだ」
「何だかなぁ、色々規格外の彼女ってことか?」
超能力を持っている、ということだけでも充分に『規格外』だが、その超能力者たちから見てもかなりの『規格外』らしい。いったい、どんな女性なのか。
真也は途方も無い話に天井を仰ぎ見た。そして、恵菜、悠一郎に視線を戻す。
「よし、ここまでは解かった。で、結局、何でオタクたちはここに来たわけ?」
口調は軽いが、眼差しは鋭い。ほんの一片の偽りも赦す気は無かった。恵菜は少し怯んだように、その目を受け止め、答える。
「用があるのは、あたしじゃなくて、こっちの悠一郎の方。悠一郎は『彼女』を取り戻したいんだって。あたしは、それを助けようと思って……」
「俺は、君が敵として俺たちの前に立っていたことを覚えている。それは、どう釈明する?」
真也の追求に、恵菜の小さな顔がさっと強張った。
「それは……あたしは、もう所長とは……」
「あんた、あんなに所長べったりだったじゃないか」
力ない口調で答えかけた恵菜を、嘲るように愛璃が遮る。信じられないと言外に責められ、恵菜は言葉を失った。その打ちひしがれた様子に、深青が愛璃の服の袖を引っ張る。
「愛璃……」
「何? 深青だって、こいつにひどい目に遭わされそうになっただろ? 許すの?」
「それは……許すとかじゃなくって、その……」
口ごもった深青に険しい声を投げかけたのは、あろうことか恵菜だった。
「ちょっと、同情だったらいらないからね!」
「え、そんな……」
「あんたは、いつもいい子いい子して!」
「深青に当たることないだろ!?」
「何よ、いい年して二人でベタベタして、気持ち悪いわね!」
再び勃発した少女二人の舌戦を、大戦になる前に大人二人が押し止める。
「愛璃、落ち着けって」
「恵菜、言葉が過ぎる」
二人はお互いの保護者をキッと睨み付けると、フイとそっぽを向いた。大人たちはこっそりと溜息をつく。どうやら、この二人を一緒にしておく限りは、しばしば同じような場面に遭遇しそうだった。
険悪な空気が漂う中、悠一郎が脱線した話を元に戻す。
「自分は、彼女を捜したい。それには、こちらの二人――と深青と愛璃にチラリと目を走らせ――の力を借りるべきだ、と。正直、自分独りでは手も足も出ないのです。何をどう調べていったらいいのかも、見当もつかない」
悠一郎は「お願いします」と深く頭を下げる。
真也はそのいかつい身体をジッと見つめた。
考えるまでもなく彼の心はもう決まっていた。基本的に、真也は直感で判断する人間だ。正直なところ、恵菜についてはまだなんとも判定し難いが、この悠一郎という男は信用するに足る人物だと思われた。彼のその目を見れば、恵菜に操られているのではないことは判る。百%、自分の意志で動いているに違いない。だいたい、理由がいい。惚れた女のため、と言っている男には、手を貸してやらねばならないだろう。
それに、と、真也はチラリと彼が保護している少女二人に目を走らせた。
こちら側としても、充分な理由がある。
恵菜という少女が本気で離反してきたというのなら、いい手駒になるだろう。以前に愛璃が『研究所』に囚われていた時のことを話してもらった時、恵菜を評して彼女が使った言葉は『所長の腰巾着』だ。愛璃たちは『研究所』内で従順ではあったけれども、二人だけで壁を作り、他の者との交流は避けていたようだ。そんな二人よりも、より多くの内部事情を知っているかもしれない。
これを機会に敵を叩けるのであれば、好都合だった。実際、深青一人であればコントロールできるが、愛璃についてはいつまで抑えていられるか判らない。今は彼女もおとなしくしているものの、こうやってヤツらの影に脅かされ続けていれば、いずれ独りで突っ込んでいってしまいかねない――深青の為に。そして、そうされれば、真也と珂月に彼女を抑える術はないのだ。
「よし、わかった。手を組もう!」
真也のその言葉に、悠一郎がバッと顔を上げる。
「こっちの利害とも一致するしな。ま、持ちつ持たれつ、だ」
ニッと笑って右手を差し出す。
「助かる。よろしく頼みます」
心底からホッとしたような顔つきでそう言うと、悠一郎は真也の右手をしっかりと握り締めた。その手のひらは、ゴツゴツと硬かった。
*
――さあ、動き始めたよ。終わりが始まるのか、それともこのまま何も変わらないのか。これで変えられないのなら、もう、わたしたちにできることはないわ。
そう声を発したのは、紫の優雅な蝶。
「あたしたちは、後は見ているだけ?」
そう答えたのは、少年と見まがう鋭利な空気をまとう、一人の少女。
――そう、これからはただの傍観者。少しでも悲しむ子が減るように、祈るしかないの。
彼女たちに、物事に直接干渉する力はない。ただ、誘うだけだ。
始まりはほんの小さな羽ばたき一つ。それがそよ風で終わるのか、それとも嵐を巻き起こすのかは、共鳴した者たち次第。
見えない未来の先に何が待ち受けているのか、それはその時になってみないと判らないのだ。