Ⅳ
「リサ!」
名前を呼ぶと、目の前に開いた絵本をぼんやりと眺めていた少女が顔を上げた。肩までの栗色のクセ毛に色の薄い茶色の瞳。恵菜よりもいくつか年上の筈の彼女の眼差しは、夢を見ているかのようにいつもフワフワとしていた。
「恵菜」
彼女を認めて、リサが緩く微笑む。
「所長が『仕事』だってさ。ちょっと運んでくれない?」
「パパが? うん、わかった。どこに?」
リサは、所長を『パパ』と呼ぶ。ここに来たばかりの頃、父親に会いたいと泣いてばかりいたので、恵菜の力で所長を『パパ』だと刷り込んでやったのだ。それ以来、彼女はここでとても幸せそうにしている。
「長野の、この辺。拡大写真はこっち。最終的な目的地は、ここ」
恵菜は地図を開いて大まかな場所を示すと、次に拡大の違う何枚かの衛星写真でもっと詳しい場所を確認する。『研究所』は埼玉と山梨と長野の県境辺りに位置している。人跡未踏の山奥で、まず滅多に人が来ることはない。普通、少女たちは『研究所』の外には出られないのだが、恵菜は何度か出してもらえた事があった。外観はただの岩山のようにカモフラージュされていて、近くまで来たところで、気付く者はいないだろう。屋上にはヘリポートがあるが、『岩山』をよじ登ることは困難を極め、到達するのは、ほぼ不可能だ。
この『研究所』から目的の場所までは、直線距離にすれば五〇kmと少し、いうところか。
「いけそう?」
「ん、大丈夫。……一回で、跳べるかな。もう行く?」
「お願い」
恵菜の言葉に、リサがコクリと頷く。そして、彼女の手を取ると、黙って目を閉じた。
続く、めまいを伴う浮遊感。気持ちが悪くなる、と言う子もいるが、恵菜は、この感覚が結構好きだ。
目を開けていると周囲の色が一瞬にして溶け合って、ハッと気付くと森の中に立っていた。近くに建造物の影がないところを見ると、目的の場所とは少し離れているようだ。
恵菜はタブレットを取り出し、標的の男が滞在しているらしい民宿と、男が確認された森の中の廃墟、そして自分の位置関係を確認した。ちょうど、民宿と廃墟の中間地点にいるようだった。恵菜はどうしようかと、腕を組んで考える。一度男を実際に確認できれば、それからは彼の波長を捉えることができるようになる。そうしたら、捜しまわらなくて済むようになるのだ。
「あたし、ちょっとウロウロしてくるから待ってて」
リサにそう言い置くと、取り敢えず、廃墟の方に向かって足を進めた。この辺りは人間が殆どいなそうなので、廃墟を基点に意識を探っていけば何か手がかりになりそうなものが見つかるかもしれない。所長は『綾子』という名前を出していたから、誰か、その名を心に置いている者がいれば、それが探している人物ではないかと思ったのだ。
人が多い場所では色んな思念が混じって何が何だか判らなくなってしまうから、ひとまず、人の少ない廃墟の方へ行ってみる。
標的の男が確認されたのは、昨日のことだと聞いている。
――まあ、こんな何もない場所に、二日も続けてくる奴もいないか。
そう思いながら、恵菜は漫然と意識を拡げながら歩く。
と。
恵菜は眉をひそめた。
誰かの思念に、微かに触れる。
「もしかして、当たり?」
呟き、『ソレ』に意識を絞った。
見えてくるのは、栗色の髪を揺らす、自分よりもいくつか年上の少女の姿。背後から歩み寄る者に気付いて振り返り、鮮やかに笑う。
「――君」
呼んだのは、恵菜が覗き見ている者の名前か。
その少女のことを想う気持ちはとても温かいのに、どこか苦さも混じっている。
その想いをたぐりながら、恵菜は足を進めた。
やがて、木々の隙間に朽ち果てた建物が見えてくる。そして、その前に佇む男の姿も。
恵菜が踏んだ落ち葉が、カサリと音を立て、ハッとしたように男が振り返る。
恵菜は、咄嗟に、男の中にあった少女の姿を自分に投影させた。
*
再び、悠一郎はアヤが住んでいたコテージの残骸へと足を運んでいた。
明日ここを去るから、これが見納めになる――多分、もう二度と来ない。ここで得られるものは、想い出だけだから。
目を閉じると、アヤの笑顔がはっきりと思い出された。彼女は悠一郎の姿を目にすると、いつも少しホッとしたような笑みを浮かべたものだった。そして、すぐにその笑顔は輝くようなものになる。思い返してみると、アヤはいつもどこか不安そうだったような気がした。
悠一郎は、一度だけ、彼女に「何故こんなところに住んでいるのか」と訊いたことがあった。学校に通っていないだろうことも、薄々感じていたから。
その質問に、アヤはイタズラめかして、「わたしは、悪いヤツらに追われているの」と彼にこっそり耳打ちしたのだ。あの時は、ただ「ごまかされた」と思っただけだったから、「ふうん」と適当に相槌を打っただけだった。もしかしたら真実だったのかもしれない。
ならば、彼女は、『悪いヤツら』に捕まっているのだろうか。
『悪いヤツら』とは、いったい何者だったのだろう。あの時、聞き流したりしなければよかった。
――もっと、手がかりがあれば。
悠一郎は歯噛みする。
どこに居るのかさえわかれば、どんな手を使ってでも会いに行くのに。
彼女が、今、幸せに笑っていることを確認したかった。
あの頃と同じ笑顔を浮かべている彼女を、一度でいいから見たかった。
今彼の中を占めているこの感情が恋とか愛とかいうものなのかどうかは、悠一郎には判らない。だが、十年経った今でも、彼にとって大きな比重を占めている存在は、アヤなのだ。彼女のことをはっきりさせなければ、悠一郎の中の何かは、十八歳のあの時から動き出せないままのような気がする。
両の拳を、爪が食い込むほどに強く握り込んだ。
強い感情に呑み込まれていた悠一郎は、周囲への注意力が散漫になる。
カサリ、と背後から届いた落ち葉を踏む音に、彼はハッと振り返った。
そこにあった姿に、愕然とする。
栗色の、フワフワの髪、少し猫に似たアーモンド形の目をした――十四、五歳の少女。
それは、記憶の中のものと寸分違わぬ姿で立ち、彼を見つめていた。
「――アヤ……」
彼女が少女のままの筈がない。筈がないのに、悠一郎は、その名を呟いていた。無意識のうちに、ふらりと足が前に出る。まるで濃いモヤの中にいるように周囲の様子は目に入らなくなり、彼の中には、ただ、彼女の姿だけがあった。
「お前……いったい、今まで、どこに……」
悠一郎のその声は、問い掛けというよりも呟きに近い。『アヤ』は笑みを深くすると、イタズラを仕掛けるように首をかしげる。
「わたしはね、『ある所』で幸せに暮らしてるよ」
「『ある所』?」
「うん。何も心配しなくていいの。何も考えなくていい。とっても『楽』に生きていけるの」
その声も、彼が覚えている響きそのもの。
だが、何かが、引っかかった。それは何だろう。一瞬疑問がフワリと浮かんできたが、すぐに消え失せた。
「幸せ、なのか……」
それは、『そうであって欲しい』と彼が望んでいた言葉。ならば、何も憂えることはないのだろう。
「うん、わたしは幸せ。でも、ユウ君が来てくれたら、もっと幸せになれるんだけどなぁ。ユウ君と、ずっと一緒にいたいなぁ」
「ああ……俺も、一緒にいたいよ……」
謡うような少女の呼びかけに、悠一郎は陶然としてくる。声と共に彼の頭の中に何かが侵入してくるような感触を覚えたが、拒もうという気は全く起きなかった。
「だったら、ユウ君も、わたしと一緒に行こう。みんなにちゃんとサヨナラして、ね。でないと、心配されちゃうでしょ?」
「ああ……そうだな……」
悠一郎の頷きに、『アヤ』がニッと笑う。
――何かが、違う。
悠一郎は、そう、思った。けれども、違和感はすぐに押し流されそうになる。
アレは、本当に、アヤか? 彼女の笑顔は、もっと……。
どうだっただろう。
遠い記憶と、今目の前にいる彼女と。
彼の中で両者がせめぎ合う。
悠一郎が望んでいたのは、幸せに暮らす、アヤ。数歩先に立っているのは、まさに彼が望んでいたアヤだった。
――本当に? 本当に、アレは自分の知る少女なのか?
頭をよぎる、自問。
しかし、何かがおかしいと警告する声は、次第に、望んでいた姿ではないかと誘う声に掻き消されていく。
自分に向けて伸ばされている小さな手を悠一郎が取ろうとした、その時。
――ちゃんと見て!
彼の頭の中に立ちこめるモヤを貫き、少女の声が響く。思わず手を引き、よろけるように数歩後ずさった。朦朧とする頭を振って、思考を取り戻そうとする。
「誰!?」
そう叫んだのは、『アヤ』だった。彼女は鋭い眼差しを周囲に向ける。だが、言葉を発するようなものは、この二人以外に存在していなかった。
出所を探そうと躍起になる『アヤ』に構わず、声は続ける。
――ちゃんと見て、あなたの『彼女』を思い出して。『彼女』はどんなふうに笑ったの?あなたは、居心地が良いからといってぬるま湯に逃げる人ではない筈よ。
その声に、悠一郎の記憶の中のアヤの笑顔が鮮やかに蘇える。そう、彼女は、花が開くような、いつまでも見ていたいと思うような笑顔を浮かべるのだ。
目の前の『アヤ』の笑顔とは、違う。
そう思った瞬間、『アヤ』の姿が消え失せ、代わりに、漆黒の巻き毛を二つに結い、同じ色の目を悔しそうにゆがめている少女が現われた。
「お前は……?」
アヤとは何一つ共通点のない少女だ。
悠一郎には事態が理解できず、それ以上、何を問い掛けたらいいのかも判らない。そんな彼の目の前で、少女はジリジリと後ずさった。かと思うと、突然、彼女の隣にもう一人の少女が現われる。
「え?」
走ってきたわけではない。どこかに隠れていたのがパッと飛び出した、というわけでもなかった。本当に、唐突に出現したのだ。
呆気にとられている悠一郎の目の前で少女二人は手を取り合うと、瞬き数回のうちにその姿が揺らぎ始め、そして、消えた。慌てて二人がいた場所に走り寄ったが、人が立っていたという痕跡は、踏みしめられた落ち葉しかなかった――それすら、微かなものだったが。
「……なんだったんだ?」
幻、だったのだろうか。彼女をもう一度見たいと望んだ心が見せた、幻。
いや、違う。
それにしては、『作為』が感じられた。
やはり、『何か』がある。自分がこれまで生きてきた常識では推し量れない、『何か』が。その『何か』故に、アヤはいなくなったのだ。たった今目の前で起きた不思議な現象は、それを裏付けているに違いない。
悠一郎は、そう確信する。
そして、もう一つ彼が確たるものにできたこと。
それは、「アヤはどこかで生きている」ということだった。彼女が姿を消してから、十年以上にもなるのだ。不可解な『何か』が自分に接触してきたということは、その証ではないのだろうか。
単に、こじつけたいだけかもしれない。「アヤは存在している」という自分の希望を現実にするために。けれども、彼女を失った場所で、恐らく唯一、彼女とつながりがあった自分に接触してきたということは、きっと何か関連があるに違いないのだ。
アヤのことを知りたかった――たとえそれが、どんなことであろうとも。
だが、その為に打つ手を、彼は考え付けなかった。
*
瞬間移動能力者の帰還を告げるアラームが鳴る。
彼女たちが出発する場所は自由だが、到着場所は決められており、そこにはモニターとアラームが設けられているのだ。
柴山がモニターに目をやると、駆け出す黒髪の少女と彼女を見送る栗色の髪の少女が映し出されていた。黒髪の少女――恵菜の様子が、いつもと違う。どこか、狼狽しているように見えた。
少し考えてから、柴山は警備室を後にする。
取り敢えず、最初に、出発前に彼女がいた場所に向かってみた。特に根拠があったわけではない。ただ、あの場所にいた恵菜は、いつもの彼女とは違って見えたからだ。
果たして、彼女は、そこにいた――樹に寄りかかり、俯いて。
柴山には足音を立てずに歩く癖がついているのだが、さほど近付かないうちに、恵菜はパッと顔を上げ、彼に鋭い眼差しを向けた。
「何よ!?」
睨み付けながら、彼女は声をぶつけてくる。
「あ……首尾は?」
別に、責めようとか、詰問しようとか思ったわけではない。ただ、流れで聞いただけだ。しかし、恵菜はギリリと眦を吊り上げると、両手を握り締めて彼を見上げる。
「見たら判るでしょ!? 失敗したわよ!」
きつい口調だが、揺れる彼女の目を見れば、その心の中が手に取るように解かった。
「別に、責めてはいない。ただ、帰ったなら報告しないと……」
彼の言葉に、恵菜の肩がびくりと震える。
――泣くのか?
一瞬、柴山はそう思って身構える。だが、彼女の目は乾いたままだった。
「わかってるってば! 今、行こうとしてたの!」
グッと奥歯を噛み締めたかと思うとそう言い放ち、スルリと彼の脇を通り抜けようとする。
咄嗟に、柴山は彼女の二の腕を捕まえた。が、思いも寄らない細さに、突き放すように手を開いてしまう。
恵菜は掴まれ、放された自分の腕を見、そして、一瞬顔をクシャリと歪ませた。
その顔に、彼は強い罪悪感を覚える。自分のその行為が、何か彼女の触れてはならない場所に触れたのだということが、解かった。
恵菜は何度か瞬きをした後に彼をキッと睨み付けると、低い声で言う。
「何よ。そんな無節操に、『読ん』だりしないわよ。あたしは、ちゃんと自分の力をコントロールできてるんだから。あたしは、『スゴい』んだから」
それだけ言い捨てると、彼女は走り出す。
小さなその背中を見送って、柴山はつくづく思った。
重火器を持った敵を相手にドンパチやっているほうが、どんなに楽なことだろう、と。
*
皆が寝静まった、夜更け。
恵菜は、中庭の暗闇の中で膝を抱えて小さくなっていた。
昼間に聞いた、暮林の言葉を思い出す。
失敗の報告をしに行った恵菜に、彼は肩を竦めてこう言ったのだ。
「だと思った」
その口調は、まるで無造作なもので。初めから、彼は期待してはいなかったのだ。
暮林はいつもと同じ笑みを浮かべていたけれども、突然それは、恵菜にとって得体の知れない表情になった。
「あたしは、スゴいんだから。みんなを、助けてあげてるんだから」
真っ暗な中で、そう、呟く。
この力は、人の役に立つ為にある。
そうでなければ、いけないのだ。
「あたしは、スゴいんだから……」
もう一度、呟いた。
と、不意に、チカリと光が走る。
「誰かいるのか」
低い、男の誰何の声。警備の者のようだ。今は深夜――見回りの時間なのだろう。
恵菜はジッと息を潜めて、彼が通り過ぎるのを待つ。けれども、ライトの光は近付いてきてしまった。暗い中を、真っ直ぐに彼女に向かってくる。能力があるわけでもないのに、まるで恵菜が見えているかのようだ。
そして、ついに、見つかってしまう。
「そこで何をしてるんだ?」
怪訝そうにそう尋ねてきたのは、警備主任の柴山とかいう男だった。昼間、まるで悪いものに触ったかのように手を放した男だ。
「別に」
放っておいてよ。
そんな気持ちを全身から漲らせて、恵菜はそっぽを向く。
ここの大人たちは、少女たちに『構う』ことはない。お互いに、ほぼ無干渉だ。なので、恵菜の態度を見れば、彼はさっさとどこかに行ってしまう筈だった。
けれども、柴山はその場に留まっている。
「何?」
言いたいことがあるなら言って、さっさとどこかに行って欲しかった。ジリジリしながら待つ恵菜だったが、彼はなかなか先に進まない。
いっそ頭の中を読んでやろうかと彼女が思った時だった。
「昼間はすまなかった」
唐突に、彼が言う。
「え?」
何のことか解からず、恵菜はポカンと見上げてしまった。そんな彼女に、柴山は気まずそうに続けた。
「昼間、別に、お前に触れるのが嫌だったわけではない。ただ……細くて驚いた。……握り潰すかと」
「はあ?」
一瞬、ごまかそうとしているのかと思った。けれども、柴山から、偽りの波動は感じられない。言葉通りのことを、心底から思っているらしい。
変な大人だ。
その時、何故だか判らないけれども、ふと、彼に訊いてみたくなった――誰かに、自分を肯定して欲しかった。
ジッと彼を見つめて、問う。
「ねえ。あたしって、スゴいんだよね?」
出し抜けな質問を、柴山は受け止め損ねたようだ。彼女の言わんとしたことを探るように、目を細めている。恵菜は解かってもらおうと――自分の望む言葉を返してもらおうと、さらに言い募る。
「あたしは、みんなを『楽』にしてあげてるんだよね? それって、スゴいことだよね?」
それでも、彼は、すぐには返事をくれなかった。しばらく押し黙って、ようやく口を開く。
「確かに、『楽』にはなってると思う」
「だよね!」
彼の肯定に、恵菜はパッと顔を上げる。しかし、続いた言葉に凍りついた。
「――が、俺は、ああはなりたくない」
「……なんで?」
「確かに、『楽』ではある。だが、それだけでは『楽しみ』や『喜び』は生まれない」
「だって……だって、みんな笑ってるでしょ!? 楽しいから、笑うんでしょ!」
そうだと言って欲しかった。そうでなければ、自分の中の何かが崩れ落ちてしまう。けれども、柴山は、黙ったままだ。
「『楽』になるなら、それでいいじゃない。だって……そうじゃないと……パパとママは……」
最後は殆ど囁きのような声になる。けれども、柴山の耳に届くには充分な大きさだったようだ。彼はどこかつらそうに眉間に皺を寄せ、慎重に言葉を選んでいるようにゆっくりと話し出す。
「何も考えなくていい、というのは、『楽』だ。だが、それだけだ。そこで、全てが止まる。『死』も同じだ。苦しみは確かに終わる。が、同時に、全てが終わる。究極の『逃避』だ」
「だって! パパとママだって、毎日毎日、ずっと、『早く楽になりたい』――『もう死にたい』って、そればっかりだった! あたしが何をしたって、それを見て笑いながら、『終わりにしたい』って! だから、あたしは……!」
――『楽』にしてあげたのに。
殆ど叫ぶようにそうまくし立てた恵菜は、最後の言葉を呑み込んだ。
そんな彼女に、柴山は、まるでうっかり轢いてしまった仔猫を見るような眼差しを向けた。少し苦しそうに目元を歪ませながら、言う。
「……人は、表面に出ている気持ちだけが全てではないんだ。表面に出ているから、それが一番強い気持ちとは限らないし、真に望んでいる気持ちとも限らない。俺も、今までに何度も『死にたい』と思ったことがある。その時は、本気でそう思うんだ。だが、生き延びてしばらくしてみると、『生きていて良かった』と笑う。どちらも、本心からの気持ちなんだ。……多分、その人間自身も、どちらをより強く望んでいるのか、本当のところは判らないのだと思う」
「じゃあ……じゃあ、あたしは間違えたの? もしもあたしが何もしなければ、パパとママは今頃ちゃんと笑ってたの?」
「それも、判らない。そうかもしれないし、結局、同じ道を選んでいたかもしれない。『もしも』というのは、実際には存在しないものだ。はっきり判ることというのは、目の前にあることだけなんだよ」
柴山は手を伸ばしかけ、止め、そして、そっと彼女の頭に触れた。
「こんなことをお前に言ったことが所長に知れたら、大目玉かもな」
彼は、苦笑混じりに、そう言う。
「だがな、俺は……」
何かを言いかけたようだが、彼自身言葉が見つけられなかったかのように口ごもる。
恵菜は、その続きを聞きたいような気もしたし、聞きたくない気もした。聞いたら、何かが壊れてしまいそうだった。
「あたし……もう、寝る」
彼女の言葉に、頭の上の温もりが離れていく。
「ああ、そうだな。……すまない」
それが何に対する謝罪なのかは、恵菜には、解からなかった。彼が謝るようなことを言ったのかどうかも。ただ、自分の中で、何かがカチリと音を立てて動き出したような気がする。
柴山は恵菜を残して出て行き、暗い中庭に、彼女は独り佇む。
どうしたらいいのだろう。どう、すべきなのだろう。
このまま暮林の言うことに唯々諾々と従い続けるべきなのか。だが、彼のことが見えてきた今、それができるとは思えなかった。
道が、見えない。
途方に暮れる彼女の頭に、微かな囁きが届く。
――『彼』と一緒に行けば、新しい道は拓けるよ。でも、そこに留まる道もある。どちらにするかは、あなた次第。
「誰?」
恵菜は、顔を上げて辺りを見回す。が、応えはない。
その声で、彼女の脳裏に閃いたのは、あの男のこと。彼はたった一人を強く想い、不断の決意を胸に抱いていた。
夜が明けて、施設の各所に照明が灯り始めるまで、彼女はそこに立ち尽くしていた。