Ⅰ
何を思ったのか、唐突に道路に飛び出した幼い少年。
走ってきた、トラック。
小さな少年を跳ね飛ばそうとしているトラックは、とてつもなく巨大に見えた。
甲高く響き渡る耳障りな音。
運転手が必死の形相でブレーキを踏んでいるのが見て取れたが、どんなに強くペダルを踏もうとも、その重量とスピードが作る制動距離を縮めることはできない。
バイクにまたがった自分は、なす術もなく、その瞬間を目の当たりにしようとしていて。
見たくないのに、目を逸らせなかった。
タンデムシートにいる者も、同じ光景を目にしているのだろう。背後からウェストに回されていた小さな手に、ギュッと、力が入る。
その瞬間――。
*
春日悠一郎は、ハッと目を開けた。全身にぐっしょりとかいた汗が気持ち悪い。一九歳の時に自衛隊に入隊したのは十余年前。以降毎日欠かさず鍛え上げ、滅多なことでは速度を変えない心臓が、激しく高鳴っている。ゆっくりと上体を起こすと、全身が強張っていることがわかった。
目を開けてもなお鮮明に脳裏に残る、その映像。
それは、夢だった。
だが、かつて目にした事がある、紛れもない現実でもあった。
子ども、トラック、バイク、信号――。
一週間ほど前から、彼の夢の中に、それらは断片的に現われるようにはなっていたのだ。これまでは各々が一コマずつ映し出されるだけで、いったい、どんなシーンなのかさっぱり判らなかった。どれも普段見ているものばかりで、別に劇的な場面でもなんでもなかったから。
だが、今日は、違った。
まるで映画のワンシーンのように、一連のイベントを余すことなく全て見届けることができ、そして、今までは出てこなかったもの――その時、一緒にいた者まで、今日は登場したのだ。
自分の中で、何かがカチリとはまる音がしたような気がする。失われていたパズルのピースが戻ってきたような心持ちだった。
どうして忘れていたのだろう。
どうして、忘れていることさえ忘れていられたのだろう。
あの事象は、記憶から消し去ることができるようなものでは、なかったのに。
『それ』は十年以上も前の夏に起きた、出来事だった。
一度タガが外れれば、その記憶は、悠一郎の中に、まるで昨日のことのように鮮明に浮かび上がってくる。何かが溢れてくるような感覚に、彼は思わずシーツを握り締めた。
蘇える、いや、最初から彼の中に存在していたのに、無意識のうちに心の奥底に押し込もうとしていた、記憶。
悠一郎は、二〇年近い月日を瞬く間に遡っていく。
子どもの頃に、彼が夏休みの一週間を過ごしていた、祖母の民宿。そこで『彼女』と出会い、共に時を過ごした。
一年間のうちの、たった一週間。短い――けれども、かけがえのない時間だった。初めて出会った時は、独りで過ごしている彼女に対する同情めいたものを感じただけだった。だが、二年、三年と繰り返し会ううちに、その逢瀬は『彼女の』ためではなく、『自分の』ためになっていったのだ。
その愛おしい時が失われたのは、突然のこと。その頃何の力も持っていなかった彼は、『彼女が消えた』という事実を前に、ただ諦めるしかなかった。もう取り戻せないのだと諦めて、心に蓋をして。
だが、彼女のことをただの思い出にできる筈もなく。
欠落した記憶を取り戻した彼の中に、再び彼女への思慕がこみ上げてくる。
何故、今更、こんなにも唐突に彼女のことを思い出したのか。
もしかしたら、単に、脳という臓器の気紛れで、たまたま記憶の回路がつながっただけかもしれない。しかし、何故か悠一郎にはそうは思えなかった。何か意味があること――彼女が今もこの世界のどこかに確かに存在しているということの暗示に思えて仕方がなかった。
――彼女は、どこかで待っている……?
普通に考えれば、ばかげている。もう、十年も前のことなのだ。生死すら疑うのが当然だろう。
だが、そうであればいいと、そうあって欲しいと、彼は願った。堰を切ったように、彼女を求める気持ちが溢れ出す。
もしも彼女がまだこの世界に存在し、自分の事を待ってくれているのであれば。
かつては、何もできなかった。けれども、今の自分にはもっとできることがある。否、しなければならない。
願いと、迷いと、決意と。
悠一郎は、それらの間で揺れ動く。
と、不意に。
――そうだよ。待ってる。
まるで、彼の願いを聞き届けたかのような、囁き。
「?」
思わず悠一郎は部屋の中をキョロキョロと見回した。だが、当然、ここにいるのは彼一人だ。
頭の中に直接響いたかのような、声。それはまろやかな、まだ少女のもの。
その声と共に脳裏に閃いたのは、紫色の、影。
――お願い、捜して。
それを最後に、声は消える。しばらく息を潜めたが、戻ってくる気配はなかった。
いったい、なんだったのか。
空耳や気の迷いとするには、あまりに鮮明だった。
不可思議な現象に、悠一郎は身じろぎ一つせずに考えを巡らせる。
そして。
三日後、悠一郎は除隊願いを提出した。
*
大樹に寄りかかり、ぼんやりと月を見上げていた少女は、ふと視線を下ろした。
つい、と伸ばした指先にフワリと紫色の蝶がとまる。
「おかえり。どうだった?」
――やっと、全部思い出してくれたよ。『彼女』の暗示は強かったから、ずいぶんかかっちゃった。
「彼は、動くかな」
少女が軽く首を傾げる。蝶はひらりと舞い上がり、彼女の頭上を一巡する。
――捜すよ、『彼女』を。あの人の中には、『彼女』への強い想いがあったから。思い出したら、ジッとなんてしていられないと思う。
「そう」
――強い想いは、強い力を生む。彼には特殊な力なんてないけど、一番強い力を持っているわ。わたしの声では『彼女』に届かなかったけど、彼の想いには、きっと、『彼女』も気付いてくれる筈。
そうして蝶は、少女の頭に舞い降りる。
――あなただって、わたしの『想い』に応えてくれたでしょう?
「ああ……そう、そうだな。応えずにはいられなかった」
――『彼女』が目覚めれば、全てが変わるのよ。
それは、確信に満ちた呟きだった。