Ⅸ
「ちょっと、あんた、恵菜!? 何、深青を泣かしてんのよ!」
恵菜に向かって指を突きつけながらそう声高に言い放った愛璃に、指の先にいる少女は漆黒の目を見開いてキョトンとしている。深青は、一瞬、今がどんな状況なのかを忘れた。
「……あいり?」
恐る恐る、その名前を呼ぶ。声をかけたら消えてしまう幻なのかと疑いながら。もしかしたら、恵菜が見せているものなのかも知れなかったから。
けれども、深青のその声で、彼女は振り向いた。
「深青」
当然のように名前を呼ぶ、その声。彼女の手が上がり、頬に触れる。
温かい。
色々な想いがたくさん胸の中に溢れているのに、言葉に出てきたのはほんの少しだけだった。
「愛璃……愛璃。会いたかったよ」
そう言いながらしがみつくと、抱き締め返してくれた。その温もりに、ああ、愛璃なのだと、実感する。
「それは、あたしの台詞だよ。無事で、良かった」
耳元で囁いてくれる声が、心地良い。その瞬間、全てがどうでも良くなった。
が。
その場に響いた不機嫌そうな恵菜の声が、現実に引き戻す。
「ちょっと、あんたたち。ヒトを無視しないでくれる?」
彼女の言葉に、愛璃がゆっくりと振り返る。と、同時に、恵菜の身体が数メートル飛ばされ、奥の扉に叩き付けられた。
「あうッ!」
小さな悲鳴と共に、彼女は動かなくなる。
「相手してやったよ?」
愛璃はバカにしたような眼差しを恵菜に向け、そう言い放った。そして、グルリと周囲を見回すと、ピタリと研究室に視線を定めた。
「ここを、壊してやる」
「愛璃?」
「二度と、あたしたちに手出しできないようにしてやるんだから」
「愛璃、無理だよ、そんなの」
「無理でも、やる」
そう言い切った彼女の目は、強い光を放っている。その言葉が終わらないうちに、あちこちがガタガタと軋みをあげ始めた。
深青だって、こんな所は壊れてしまえと思うけれども、こんな無茶な力の使い方をしたら、愛璃の方が壊れてしまう。
けれども、頭に血が上った愛璃は、構わず力を放出させていた。
研究室の中からは、パキン、ガチャンと硬質なものが壊れるような音が続けざまに響き渡り、男たちの悲鳴が聞こえ始める。だが、どの扉も閉ざされたままだ。多分、愛璃が封じているのだろう。
――どうしよう? どうしたらいいの?
おろおろとそう自問した時。
――落ち着いて、深青。彼女の、愛璃の力の波動を感じて?
唐突に、頭の中で囁いた、その声。どこか聞き覚えのある、声だった。
「え?」
思わず声に出して周囲を見回したけれども、いるのは愛璃と深青、廊下の奥で壁にもたれている恵菜と、いつの間にか現れていた真也と珂月だけだ。そのうちの誰の声でもない。
「誰? 誰なの?」
問いかけても、それに対する答えはない。真也と珂月は、誰に問いかけているのか、と言いたげな眼差しを向けている。
――いいから、愛璃が潰れてしまう前に、早く。あなたなら、できる筈だよ。ほら……。
愛璃の力の波動。
よく解からないままに、目に見えないそれを掴もうと、意識を凝らす。
――……あ……。
ふと、何かに触れたような気がした。
うねるような、何か。それは、確かに愛璃から放出されている。
――わかった? それに、あなたの力を乗せるのよ。呼吸を合わせて、同じ波長で、あなたの力を愛璃に注ぐの。
その囁きのままに、深青は力を使う。ただ、愛璃のことだけを想って。気付くと、我を失っていた愛璃が、驚いたように深青を見つめていた。
愛璃の力と深青の力がキレイに重なり、何倍もの力になって放たれていく。暴発ではなく、コントロールも完全に、成されていた。
やがて、力は収束していく。
これほどの力を使ったというのに、愛璃は独りで立ち、意識を失うこともなかった。
「何だったの?」
愛璃がキョトンとした顔で深青を見つめてくる。多分、己の力を充分に承知している彼女自身が一番不思議なのだろう。
「わたしにも、よく解からないよ」
心の底から、深青はそう答える。本当に、解からなかったのだから、そうとしか答えようがなかった。
両手を繋ぎ合ったままの深青と愛璃に、珂月と真也が駆け寄ってくる。
「よお、凄かったな」
親しげにそう声を上げた真也に、愛璃が怪訝な顔を向ける。
「誰、これ?」
「わたしを……愛璃を、助けてくれたヒト」
深青はそう答えて、破顔した。
*
「すごいな、コリャ」
暮林は、思わずそう呟いた。
パソコンの監視カメラ映像は、全て砂嵐だ。研究室は、一体どんな有様になっていることやら。研究データは全て彼のパソコンにも入れてあるが、器材は全滅かもしれない。
恵菜が吹き飛ばされた上に壁にもたれた姿勢も悪かったから、彼女につけたカメラからの映像は見にくいことこの上なかった。それでも、深青と愛璃の間で何かが起きていたことは、判る。
理論上、深青が他者の能力を増幅させることができるであろうことは推測できていた。彼女の治癒の力は、相手の細胞一つ一つを活性化させるものだ。特殊能力を発生させるのも個々の細胞であるとしたら、その細胞を活性化させることで能力を増強することもできる筈だった。
「ああ、生で見たかったなぁ」
暮林は、溜息と共にそうこぼす。
もっとも、その場にいたら、愛璃に殺されていたかもしれないが。
「まあ、取り敢えずは、ここから出してもらわないとなぁ。飢え死にする前に助けに来てくれるといいけどな」
そうぼやいて、彼はのんびりと頭の後ろで腕を組むと、伸びをした。