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fairy tale  作者: トウリン
キョウシンの力
12/35

 一般家庭ではそろそろ就寝準備に入る時刻。

 真也しんや深青みおは、新宿御苑内を散策していた。

 昼間は多くの人で賑わうその庭園も、今はひっそりとしている――閉園時間なのだから、当たり前だ。

 柵を乗り越えて忍び込み、乏しい光源の中、夜目の効く真也が深青の手を引いてゆっくりと歩いていた。目立たないように、と二人とも黒装束である。

 昨夜の深青の散歩の相手は珂月かづきだったのだが、今日は交替し、彼女は今近くの路上で車内待機中だ。

「さっさと来てくれねぇかな」

 この件に関して、珂月ほど短気にはなっていないとはいえ、元々真也も気が長い方ではない。罠を仕掛けて待つよりも、速攻の方が性に合っている。それに何より、長い間珂月が待ち望んでいた手がかりでもあるのだ。出会った頃の彼女のことを未だ鮮明に覚えている真也は、どんなに小さなものでも良いから『結果』を手に入れてやりたかった。

 こうやって待つだけでは、この方法が合っているのかどうか、確証が持てない。

 知らずのうちに深青の手を握る指先に力が入り、それに気付いた彼女がふと見上げてくる。

「あ、悪い。痛かったか?」

 視線を下げて訊くと、深青はフルフルとかぶりを振った。

「ううん」

 そう答えると深青はまた前を向く。が、再び真也は視線を感じた。

「何だ?」

 ジッと見つめてくる真っ青な目を受け止めながら、尋ねる。

 彼女は何度かためらった後に、言葉を選びながら問いかけてきた。

「珂月は……真也の、大事な人?」

「はあ?」

「もう、ずっと一緒にいるんだよね? 大事な人だからじゃないの?」

「あー、何と言うか、まあ、大事ってんじゃなくて、単なる成り行きってヤツだよ」

「成り行き?」

 首をかしげる深青に、真也は昔を振り返って少し目をすがめる。あの頃の珂月は、今の彼女とはまるきり違っていた。

「ああ。俺があいつを拾ったのは、あいつが両親を亡くしてすぐでさ。拾ったはいいけど、ただの飯食うロボットみたいだったよ。放っとくわけにもいかねぇからあれこれ面倒見ているうちにあいつが仕事を手伝うようになって、いつの間にか、今の状態」

「そう、なんだ……」

 うつむいた深青に、今度は真也が問いを投げる。

「何で、急にそんなことを訊くんだ?」

「え? あ、うん、あの……あのね」

 彼女は、心の中にあることを打ち明けようと、何度か口を開閉した。そして、しばらく逡巡した後、意を決したように唇をキュッと結び、話し出す。

「えっと、珂月は、今、妹のことだけでしょう?」

「どういう意味だ?」

「珂月は、妹を捜すことだけが全部、みたいに見える。だから、それがなくなっちゃったら、どうなるのかなって」

「なくなるって――」

 どういうことだ。

 そう問おうとした真也のうなじが、チリ、とざわついた。

「真也?」

「シッ!」

 彼は鋭い眼差しで進む先の暗がりを睨み据える。しばらくは、何も現れなかった。しかし、やがてあちらこちらの物陰から、数人の男が歩み出る。

 1人、2人……計、5人。

 どれもいいガタイをしており、明らかにそこらのサラリーマンなどではない。身のこなしにも隙がなく、相当の訓練を積んできている者たちであることは容易に知れた。

「こんな子ども1人に、たいそうなことだな。お前はちょっと下がってろよ。捕まらないことだけを考えとけ」

 軽く後ろへ押しやられ、深青はコクリと頷いて後ずさる。

「さあ、お兄さん方。あいつを連れて行きたけりゃ、まずは俺をやってからにしろよ?」

 そう言って、ニッと不敵な笑みを浮かべた。

 男たちは、一瞬、真也を無視して深青を狙うかどうか、迷ったのだろう。だが、すぐにお互い目配せすると、まず倒すべき標的を真也に定め、彼をグルリと取り囲んだ。

「そうこなくっちゃ、ね――っと!」

 彼は呟き、何の予告もなくポケットに突っ込んでいた手を出し、その中に握りこんでいたものをヒョイと投げた。と、同時に、自分は目を閉じる。

 直後、眼瞼を通して網膜を照らす、一瞬の光。

「ぐあッ!?」

 男たちが口々に呻くのが耳に届き、真也は状況を視認する。

 鋭い閃光に目を射られて視覚を奪われた男たちは、真也の動きを追おうとしてか、キョロキョロと周囲を見回していた。

 閃光弾の効果は一瞬だ。男たちが我を取り戻すまでに、どれほど数を減らせるかが勝負になる。

 真也は間髪を容れずに地面を蹴ると、そのうちの1人の懐に飛び込んだ。回し蹴りで男の首を捉えてなぎ倒すと、ダメ押しで、仰向けに倒れた彼の鳩尾に拳を叩き込んだ。男は、「グウッ」と呻いたきり、ピクリともしなくなる。

 続いてそのまま身を翻し、隣の男の肝臓を狙って腹を殴りつける。声もなく前のめりになった無防備な太いうなじに、固く組み合わせた両手を振り下ろした。男は顔から地面に倒れ伏す。

 次いで、3人目。

 が。

 自分よりも少し高い位置にある男の顎を狙ってすくい上げるように繰り出した拳は、寸前で捉えられる。前腕をガッシと捕まれ、咄嗟に引き抜こうとしたが、男はその反動でクルリと真也の背後に回り、彼を羽交い締めにした。

 残った2人のうちの一方が真也に狙いを定め、残るもう一方は真也を無視して走り抜ける。

 その先にいるのは――深青だ。

「深青、逃げろ!」

 そう言い放ちながら、後頭部を羽交い締めにしている男の鼻面に叩き付け、その反動で前から迫っていたもう一人の男の腹に揃えた両足をのめり込ませる。

 背後の男諸共に仰向けに倒れ込んだ真也の視界の隅を、深青の華奢な腕を掴んだ巨漢の姿がかすった。


   *


 深青が見守る中で、真也はあっという間に2人を倒してしまった。

 彼よりも遥かに大きな男たち相手に、全然危なげなく戦っているように見える。

 ――大丈夫、なのかな。

 そう、思った時だった。

「あッ!」

 真也が男に捕まってしまう。

 ――どうしよう!

 珂月のところに行って、助けを求めるべきなのか。

 まごまごしている深青の耳に、真也の声が響く。

「深青、逃げろ!」

 見れば、彼女めがけて、男の一人が走ってくる。その様は、まるでダンプカーのようだ。

 隠れていた樹から手を放し、身を翻そうとする。

 けれども。

 ――本当に、逃げるだけでいいの?

 そんな迷いが深青の中に生じる。

 自分にも、戦うための力はあるのだ。それを使わなくても、いいのだろうか。愛璃とはぐれた時に溢れてきた無力感。それを、甘んじてもう一度、噛み締めるのか?

 気付いた時には男は目の前に到達しており、逡巡して動きを止めた深青の腕が、万力のように締め上げられる。そして、そのまま、男の小脇に抱えられた。

 もう、迷っている暇はない。

 ――わたしも、戦わなくちゃ。

 そう、意を決し。

 深青は強い牙を、強い爪を心に描き、全身の細胞に命じる。

 ざわざわと身体中が振動し、自分の身体が変わっていくのを実感する。

 腕の中のものが形を変えたのを感じたのか、深青を抱えた男がハッと彼女を見下ろした。

 ――遅い。

 深青は身体を捻って、腹の辺りにまわされている男の腕に牙を立てる。

 服の繊維、皮膚、そして、筋肉。

 鋭い彼女の牙は、いとも簡単にそれらを貫いていく。

 口の中に溢れた鉄の味に、一瞬顎を緩めそうになってしまうのを堪えて、更に噛み締めた。

「グワァッ!」

 男が腕を解き、噛み付いた深青を振り払おうとするが、食い込んだ牙は容易には離れない。

 2度、3度と振り回されて、クラリと眩暈を覚えた深青の顎がつい緩む。フワリと身体が浮き、咄嗟に彼女は猫の身軽さで胴を反転させると、四肢を踏ん張って地面に着地した。そして、口の中に残る何かを、吐き出す。

 男の腕からはボタボタと雫が滴り落ち、自分がそれをしたことに、深青は吐き気を催す。けれども、怯みはしなかった。

 男は腕を強く押さえ、数歩後ずさる。どうすべきか、迷っているのだろう。深青に注ぐ眼差しには、微かな恐怖と、嫌悪があった。と、不意に彼は身を翻して、真也の方へ――仲間たちが転がる方へ走っていく。それとすれ違うようにして、真也が深青の方へ向かってきた。

「深青! 大丈夫か!?」

 彼が到着する前に、深青は人の姿に戻る。そっと手を上げて口元を拭うと、そこには赤く濃いものがべったりと着いていた。

「まったく、逃げろって言っただろ? 無茶するぜ」

 そう言いながら深青の身体に自分のジャケットを被せ、真也はふと眉をひそめる。その眼差しに自分を拒むものが混じるのを見るのが怖くて、深青は思わず顔を伏せてしまう。

 と、真也の指が彼女の顎にかかり、クイ、と上げさせられた。彼の顔は、硬く強張っている。

「これは……お前の血じゃぁないんだな?」

 言葉ではなんとも説明できなくて、深青は小さく頷いただけだった。

 真也は、なんて思ったのだろう。

 珂月には、なんと思われるだろう。

 自分が、こんな化け物なのだと知られたら。

 ――きっと、嫌われてしまう。

 そう、思った。

 けれども、耳に届いたのは、安堵の溜息。

「なら、いいけどな」

 彼の台詞は、それだけだった。

 そうして、服の袖で乾ききっていない深青の口元を拭うと、腰を屈めて周囲に落ちている彼女の服を拾い上げた。靴だけは、履かせられる。

「じゃ、帰るか」

 真也は、自然な口調でそう言うと、深青の手を取った。

 男たちの姿は、まるで最初から存在していなかったかのように消え失せており、口の中に残るイヤな味だけが現実を思い出させる。

 歩き出して、しばらくは無言。

 珂月が待っている辺りまで近付いた頃、ようやく、深青は心にわだかまっていた問いを口に出す。

「真也は、わたしのことが、気持ち悪くない?」

「は? 何で?」

 真也の声音は、心の底から、疑問に思っているようだった。深青の手をしっかりと握る彼の手も、ピクリとも動かない。

「……うん……」

 それ以外に言いようもなく、深青はただ、頷く。

 何故かは判らないけれども、涙が一つ、頬を転げ落ちていった。


   *


「よし、見てろよ」

 そう言いおいて、真也はノートパソコンを操作する。

 モニターの薄明かりに照らされる彼の頬は、腫れている。再会一番、深青の様相に目を剥いた珂月に殴られたのだ。彼にしても自分の失態だったことは充分に承知しているので、甘んじて拳を受け入れた。

 そんな2人のやり取りに、一番申し訳なさそうにしていたのは、深青だったのだが。あちこち汚れていた彼女も、珂月が急いで買ってきたミネラルウォーターで口をすすぎ、顔を洗って、ようやく人心地がついていた。

「これは、何?」

 画面上で明滅する点に、深青が首をかしげる。

「追跡装置。さっき、やつらの1人にこっそり発信器を仕掛けてやったんだよ。このシステムでしか感知しない信号を出すから、そう簡単には発見されない優れものだ。衛星を使って追跡するから、日本国内くらいだったら余裕でカバーできる。ウチの母親がこういうのを作るのが得意でな、さっきの閃光弾も母親のお手製なんだぜ」

「スゴいねぇ」

 深青は目を丸くして、そう感想を述べた。何がスゴいのかは、今一つ解かっていないようだったが。

 画面の中の光点は、地図上を東京から南へほぼ真っ直ぐ進んでいる。

「どうやら、ヘリを使ってるみたいだな」

 信号は海上に出て、更に直進していく。その先には小さな島が散在している筈だ。

 3人が見守る中、信号は東京から300kmほど離れた海上で停止する。珂月が怪訝そうに呟いた。

「……海の、上?」

 地図では、そこには何もない。ただ、青い海の色が塗られているだけだ。試しに航空写真に切り替えてみたが、どうやら衛星のカバー範囲外のようである。

「こりゃぁ、行ってみないと判らないようだな」

 そうこぼして、真也は取り敢えずマーキングを残すと、パソコンを閉じた。

「ま、一区切りついたし、今日は帰るか」

 その言葉を合図に、珂月がエンジンをかける。走り出した車の中で、真也は計画を立てた。とは言え、どうせ、予測不能な相手なのだ。綿密な計画を立てたところで、予定外のことが起きるに違いない。出たとこ勝負しかないだろう。

「明日の昼間ではゆっくり休むぞ。千倉港にボートを出しておいてもらうから、そこから出発だ。近辺まで行って、島の影が見えたらインフレータブルボートに乗り換えて島に入る」

「……その後は?」

「その後は、その後」

「適当だな」

 ニッと笑った真也に、珂月が呆れた眼差しを送る。

「ま、なるようになるさ。何しろ、島があるかどうかも判らない、どんなヤツが出てくるかも判らない、そもそも、本当に愛璃って子が島にいるかどうかもはっきりとは判ってないんだしさ。判らん尽くしじゃ、どうしようもないだろ」

 あっけらかんとした真也の言葉を、珂月は肩を竦めて受け流しただけだった。彼女としても、さして『計画』の重要性は感じていないのが明白だ。彼女が真也の仕事を手伝うようになって、6年。その6年間、それなりに困難な依頼でも基本的には『直感』でこなしてきたのだ。彼の野生の勘のようなものを、珂月もそこそこ信頼しているのだろう。

「今日は結構、働いたしな。さっさと帰って寝ようや」

 そういえば静かだな、と振り返った後部座席では、深青がゆっくりと寝息を立てていた。


   *


 這う這うの態で『研究所』に戻った男たちは、柴山しばやまの前に一列に並び、その厳しい眼差しに晒されていた。

「で? 5人がかりで出かけていって、たった一人の男相手に遅れを取ったというわけか?」

 柴山を始めとして、『研究所』の警備員たちは皆、アマチュアではない。各国の機密任務や軍事行動にも呼び出される民間軍事会社に籍を置く、プロなのだ。それが、ただ一人の男にしてやられるとは、恥さらしもいいところだった。任務をしくじったということよりも、民間人に後れを取ったということが、彼にとっては業腹なことなのだ。

 しばらく5人をねめつけて、小さく舌打ちをする。

「まあ、いい。怪我の手当てをして、休め」

 柴山としても、いつまでも腹を立てていても仕方がない。彼自身、暮林くればやしに報告しなければならないのだ――気は進まないが。

「! ちょっと、待て!」

 すごすごと通り過ぎようとする5人のうちの1人。彼の襟の陰で、何かがキラリと光を弾いた。柴山は手荒に襟をめくり、そこにあったものをむしり取る。一瞬、何なのかと首をかしげたが、ハッと気付いて踵で踏みにじる。拾い上げた残骸は、明らかに精密機器の様相を呈していた。用途は、おのずと知れる。

 それを付けられて帰ってきた男は、愕然と呟いた。

「いつの間に……」

「探知機は使わなかったのか?」

「いえ! 使いました!」

「では、何故……反応しなかったのか?」

 そんなことがあるのだろうか。

 柴山は半信半疑の眼差しを向けたが、現に、その代物は手の中にある。彼は部下たちを置き去りに、即座に踵を返した。そして、早歩きで所長室に向かう。

 ノックをすると、のんびりとした声が返ってきた。

「夜遅く、失礼します」

「戻ってきたの? 捕まえた?」

 暮林が目を輝かせて訊いてくるのへ、柴山は気まずげに言葉を濁らせる。

「それが……実は、取り逃がしました。彼女には、護衛のようなものがいるらしく……」

「護衛? なんで?」

「それは、判りません。ただ、連れ戻しに行った5人が、反撃されました」

「へえ?」

 暮林は、眼鏡の奥で目を細めている。その爬虫類にも似た目が、柴山を射抜いた。その心地の悪さに彼の背には震えが走ったが、まだ報告しなければならないことは残っている。

「そして、これを」

「何、これ」

 目の前に置かれた金属の残骸を手に取ることもなく、暮林はそう訊いてくる。

「発信器だと思われます」

「発信器? ってことは、ここの場所が相手にバレたってこと?」

「そうなります」

「でも、ここには辿り着けないだろ?」

「それは、判りません。正直言って、こんな発信器は見たこともありません。どんな能力の相手なのか、予測不能です」

「ふうん……」

 沈黙。

 柴山は、暮林の次の言葉を、待つ――ひたすら。

 やがて、所長は口を開いた。

「まあ、ある意味、都合がいいかもね。恵菜えなを呼んで待機させようか。愛璃には効かないけど、深青ならイケるだろ。あの子は、『大人しい』からね」

 気楽な口調で、暮林がそう言う。彼の中では、深青という少女は意志の弱い、人畜無害な者として認識されているようだ。

 だが、果たして、そうなのだろうか、と柴山は思う。

 5人の中で唯一怪我を負ってきた男の傷。獣と化した少女に噛まれたというその傷は、決して軽いものではなかった。

 暮林の知る『深青』と今の『深青』は、別のモノになっているのではないだろうか。

 柴山には、彼のその誤算が、結果に大きな差を生むような気がしてならなかった。


   *


 暗闇の中、ふと目が覚めた。

 深青は、自分が服を着替えさせられて、ベッドに入っていることに気が付く。珂月が整えてくれたのかな、と少し微笑んだ。

 一つのマンションの、3階に珂月の住まい、2階に真也の住まいがある。1階は事務所だ。深青は、珂月の部屋に居候をさせてもらっていた。

 深青は足音を忍ばせて、ベッドを下りる。ゆっくりと窓際に寄ってカーテンを少し開くと、そこから夜空を見上げた。

 無意識のうちに片手が上がり、唇に触れる。

 男の血の味は、もう、ない。けれども、一度味わったものは、忘れることができない。

 血の味も、牙が肉を裂く感触も。

 深青は、生まれて始めて、誰かを傷付けた。これまで、治すことはあっても、傷付けることなんて、考えることさえなかったのに。

 けれども、後悔は、ない――ない、筈だ。

「どうした?」

 不意にかけられた声に、深青は思わずびくりとしてしまう。

「珂月」

「眠れないのか?」

 彼女は、気遣わしげな眼差しを向けながら、深青に歩み寄る。

「ちょっと、目が覚めちゃった」

「そうか」

 そう言ったきり、珂月は深青の隣に佇んだ。彼女は会話を促すこともなく、ただ、深青の隣にいるだけだ。しばらく、穏やかな静寂の時が流れる。

 やがて、深青は、ポツリと言葉をこぼす。

「あのね、わたし、今日初めて人を傷付けたの」

「そうか」

「わたしには、それが、できる。でも、したくはないの」

「そうだな」

 短い珂月の相槌が、泣きたくなるほど、心地良い。

「でもね、愛璃は、わたしよりももっと前から、もっとしたくないことを、しなくちゃならなかったの」

「つらいな」

「うん……うん。つらいと、思う。わたし、愛璃をギュッてしてあげたいな、今すぐ」

「もうすぐ、できるさ。そのためにも、もう、寝ておけ」

「うん……」

 手を引かれるがままに、深青はベッドに潜り込む。

「ねぇ」

「なんだ?」

「ちょっとだけ、手を繋いでいてもらって、いい?」

 おずおずと訊いた深青に、珂月はふっと笑みを漏らした。そして、彼女の指先を柔らかく握っていた深青の手を、握り返す。

「お前が寝るまで、握っててやるよ」

「ありがと……」

「おやすみ」

 そう囁くと、珂月は空いている方の手で深青の瞼を覆った。その温かさに、深青は緩やかに深い眠りへといざなわれていった。

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