Ⅳ
戻ってきた真也を前に、珂月は腕を組んでふんぞり返っていた。
彼の報告を聞き終えて、珂月はじろりとねめつける。
「まったく、手ぶらで帰ってくるなんて、ふがいない」
「そんなこと言ったってな、お前、あんなのどうやって捕まえろってのよ。消えちまうんだから。それにな、第一、女の子だぜ? 手荒なことなんかできねぇだろ?」
特殊能力を持つ者を捕まえることの難しさと、少女に手を上げることの難しさ。彼にとってどちらの方が重いのかというと、多分、後者なのだろう。それが判っているだけに、珂月は深々と諦めの溜息をつく。まあ、少女を叩きのめして連れてくることができる男であれば、彼女もとっくの昔に縁を切っていたのだろうが。
珂月の隣で、深青は不安そうに彼女と真也の間で視線を行ったり来たりさせている。その頭をクシャクシャと撫でてやり、改めて、深青から聞いたことをかいつまんで真也に説明した。長らく話せずにいた、彼女自身の妹のことも、一緒に。
全て聞き終えた真也は、タバコに手を伸ばしかけ、チラリと深青に目をやって、代わりにコーヒーを口元に運んだ。
そして数口飲んだ後、口を開く。
「……まあ、普通なら信じないよな……けど、ま、目の前で人が消えたり木がへし折られたりしたのを見てるしな。どうやら、君の事も、夢じゃなかったようだし」
そう言って、ニッコリと深青に笑いかける。屈託のないその笑みに、彼女は緊張していた頬をホッと緩ませた。自分のことが珂月と真也の喧嘩の元になっていると思っていたのだろう。珂月は、ふと妹のことを思い出した。天真爛漫なあの子は、何かちょっとしたイタズラをしでかしては珂月に叱られ、その度にニコッと笑って「ごめんなさい」でやり過ごしていた。その笑顔を見ると、珂月も厳しい顔を続けられなくなってしまうのだ。あの子は、自分が愛されているという信頼と安心感に満ち溢れていたのに。
ことが片付いたら、この子のことをどうしてやったら良いだろうか。
母親を捜し出して戻してやるのも一つの手だ。
だが、果たしてそれで深青は幸せになるのだろうか。
妹と同じくらいの年頃で、同じように特殊な力を持っているためか、妙に肩入れしてしまう。
そう考えて、ふと我に返った珂月は、深青と真也の視線が自分に注がれていることに気付いた。
「ああ、ゴメン。で?」
「それは、こっちの台詞。これからどうする? って訊いたんだよ。居眠りか?」
話を聞き流してしまっていた珂月は、少しバツが悪くなる。
「だから、ゴメンって」
「ま、いいけどよ。……取り敢えずは、愛璃って子の消息を確認するのが先だな。東京に辿り着いたのか、それとも、そいつらに捕まってるのか。東京のどこら辺っていうのは決めてなかったのか?」
問われて、深青がコクリと頷く。
「東京がこんなに広いだなんて、知らなかったから」
「そうか……」
「ごめんなさい」
しょげる少女に、珂月は真也をキッとにらみつけて目顔でフォローを促す。
「いいさ。まずはローラー作戦だ。俺の情報網を駆使してやるぜ。もしも東京に着いてたら、3日で見つかるって」
そう言いながら、今度は真也がガシガシと深青の頭を撫でる。彼の手が離れていったあとは、すっかり鳥の巣状態だ。珂月はもつれてしまった絹糸のような髪を、慎重に手櫛で直してやった。
「しばらくは待つしかないな。愛璃って子がどうなっているかで、取る方針が変わってくるだろ」
「まあ、な。で、どんな見た目なんだ、その子は?」
話を振られた深青は、少し考えながら、答える。
「髪は長くて、背中の半分くらいまであるの。きれいな金茶色で、ちょっと、ナミナミしてて。目は、緑色。葉っぱみたいな、明るい緑。猫みたいに、ちょっと釣りあがってて。背は私よりもちょっと高いくらい」
「へえ。色だけでも、結構目立つな。子どもでそんな色しているのが一人でウロウロしていたら、かなり人目につく。余程閉じ籠っていない限り見つかる筈だけど、君と落ち合う約束してるんだろ? ずっと隠れてるってことはないだろうし、東京に着いていてさえくれれば、きっと何かしらの情報は入る。じゃ、早速やってくらぁ」
そう言うなり真也は立ち上がると、リビングから――玄関から、出て行った。
「真也はどこに行ったの?」
「ん? ああ、事務所。この下の階にあるんだ。そこであちこちに連絡してるんだろ」
「事務所……」
「仕事の為の部屋だよ」
「仕事……」
「探偵っていうか……アイツの好み次第で引き受けるかどうか決まる、何でも屋だよ」
「何でも屋……」
「そ、何でもやるんだ。人を捜したり、モノを捜したり、誰かを護ったり、誰かを脅したり、まあ、色々」
説明しても想像が及ばないようで、深青は首をかしげている。珂月自身、この『仕事』は単なる真也の趣味ではないかと思う時があるのだ。世俗慣れしていない彼女では、要領を得なくても仕方がないかもしれない。
「ずっと一緒にいたら、そのうち解かるさ」
ポロリと、そう、零れる。その台詞に気付いて、珂月は自分がこの少女をどういうふうに扱おうと考えているのかを知った。
母親を見つけ、そこに帰してやったとしても、また同じことの繰り返しになるだろう。それに、愛璃という少女の事もある。二人を引き離すようなことはしたくなかった。彼女たちの力を隠しながら生きなければならないとすれば、それなりの養育者が必要になる。深青の母親のことはほんの少ししか聞かなかったが、それでも、深青と愛璃の二人の少女を自力で養えるような人物とは思えなかった。
珂月は常に首に下げているペンダントを、カチリと開く。そこにあるのは、家族の写真。4人全員で撮ったものと、奪われる直前に撮った、妹だけが写っているもの。
深青と愛璃、そして、妹。この3人を自分の庇護の下に置き、平和で穏やかな暮らしを過ごさせてやりたい。
心の底から、そう思った。
「珂月?」
きつく目を閉じた彼女の名を、深青がそっと呼ぶ。
目蓋を上げると、心配そうに覗きこんでいる碧い目があった。珂月は笑いながらかぶりを振る。
「何でもないよ。ああ、そうだ。これが妹なんだ」
そう言い、手の中の小さな写真を見せる。覗き込んだ深青は、微笑みを浮かべた。
「可愛い」
が、ふとその笑みが消える。滑らかな眉間に微かな皺を刻んで、真剣に写真に見入っていた。
「どうした?」
「わたし、この子と会ったことがあるかもしれない」
「どこで!?」
「あ、でも、もっと大きくて、髪は金色で、目は明るい紫で……」
「年は、これは7年も前のものだから。でも、色は……」
「この前、『何か』をされて、力が強くなったって言ったでしょう? それだけじゃなくて、もう一つ、色が変わってしまうの」
「色?」
「そう。わたしも、昔は普通の黒い髪と黒い目だった。肌の色も、もっと濃くて。愛璃も、今は緑色の目になっちゃっているけど、元々は、ちょっと薄いけど、普通に茶色の目と髪をしていたって言ってた」
「じゃあ、やっぱり、君が見たのは……」
「妹さん、かな?」
「どこで……どこで見たんだ!? 元気だったのか?」
「場所は、『研究所B』で。わたしたちは『A』で暮らしていたの。『B』には珍しい力を持っている子が行くんだって。予知能力だったら、すごく珍しいから……」
「そうか……で、無事だったのか? 元気にしていたか?」
「それは……」
「なんだ?」
思わず、珂月は深青の細い両肩を鷲掴みにしてしまう。深青は、しばらく口を開かなかった。うつむいて、唇を噛んでいる。が、やがて、意を決したように顔を上げた。
「あのね、わたしの力が『治癒』だって、言ったでしょ?」
「ああ……」
珂月は、気遣うような深青の眼差しに、嫌な予感を覚える。
「わたし……わたしはね、その子を『治す』為に呼ばれたの」
「治す……」
「そう。でも、できなかった」
「何故?」
「病気じゃないから」
彼女の言葉に、珂月は眉根を寄せる。だが、妹は病弱だった筈だ。どんな病名なのかは、聞いたことがなかったが。
「あのね、わたしたちは……『力』を持っているっていうことは、多分、身体にとってはあまり良くないことなんだと思うの」
「どういう意味だ?」
「わたしたちは、普通の人みたいには、生きられないんだと思う。『力』を持っている大人は、見たことがないの」
「そんな……」
「わからない、わからないよ? もしかしたら、また、別のところに集められているのかもしれない。でも、『A』にいるのは、わたしよりも少し大きい子までだったの。わたしはこの力を持っているから……すごく弱った子に会わせられたことが、何度かあったの。わたしは怪我も病気も治せるけど、あの子たちには、効かなかった」
攫われてから、7年。あの子は、13歳にはなっている。幼い頃から、一日一日をギリギリでしのいでいた、妹。深青の言葉が正しいとすれば――。
いいや、そんなことはない。あの子は、まだ、元気でいる筈だ。
心の中でそう呟いても、それが確信ではなく願いでしかないことは、珂月自身がよく判っていた。爪が食い込むほどにきつく握り締めた珂月の手に、小さくて温かな指先が添えられる。触れ合ったそこから、ジンワリと何かがしみこんでくるような心地良さがあった。
「ごめんね……」
おずおずと、深青がそう囁く。出会ったばかりの珂月と見も知らぬ少女のことを慮って、その碧い目が揺れていた。
「謝ることなんてないさ。教えてくれて、ありがとう」
本心からそう伝えると、深青の口元が微かに緩む。そして、一言一言を考えるように、ゆっくりと話し始めた。
「あのね、ほんとうは、わたし、そんなにあそこから出たい、とは思っていなかったの。好きじゃなかったけど、どうしてもイヤだっていうほどでもなかった。でも、愛璃が――あそこにいると、ほとんどの子が何かの『仕事』をさせられるのだけど、その『仕事』をすると、いつも愛璃はつらそうで……小さい子がするみたいに、ぎゅってわたしにしがみつくの」
しばらく、沈黙。そして、また、深青は続ける。
「あそこでは、言うことを聞かない子には、『何か』をするの。それをされると、どんなにイヤがってた子でも、おとなしく所長たちの言うことを聞くようになって。――でも、それ以外は何もしなくなるの。笑う事も、泣く事も。愛璃は、そうになるのだけは、絶対にイヤだって。『仕事』をするなら、ちゃんと自分が何をしているのか解っていて、やりたいって言ってた。そうじゃなくちゃいけないんだって。だから、愛璃は、大人たちの前ではおとなしくしてた。わたしは怖くて何もできなかっただけだけど、愛璃はちゃんと考えて、我慢してた。『人形』には絶対になりたくないからって」
少し哀しさを帯びた微笑を浮かべた深青の眦が、きらりと光る。
「愛璃はとっても強くて、優しい。その強い愛璃に、もうつらい思いをして欲しくなくて、わたしは逃げようと思ったの。でも、愛璃が逃げようって言ったのは、わたしのためで。いっつも、わたしを護ろうとしてくれるんだよ――周り中が敵で、わたしを護るのは、自分しかいないって、思ってるみたいだった」
少女の不自然なほど白い手が、珂月の指先を握り締める。
「わたし、愛璃をあなたに会わせてあげたい。わたしたちを護ろうとしてくれる人もいるんだよって、教えたいの。会ってすぐなのに、こんなふうに思った人は、珂月と――真也だけなの。……なんでかな?」
そう言ってフワリと微笑んだ深青に、珂月の胸は耐え難いほどに締め付けられる。かつて妹によくしたように、腕を伸ばして彼女を抱きしめた。信頼してくれるというのなら、それに応えなければ――いや、応えたいと、思う。
「早く、見つけよう。妹も、君の愛璃も」
胸の中で、少女がコクリと頷く。じんわりとシャツが温かく湿っていくのを、珂月は感じていた。
*
――頭が、重い。いや、頭だけではなくて、全てが、だ。
愛璃はぐったりと床に全身を投げ出したまま、まとまらない思考を懸命にかき集めようとしていた。
暮林の言う『低周波音』とやらは、耳を塞いでも頭蓋骨全体を通して脳みそに侵入してくるようだ。意識は取り戻したけれど、何かしようという気になれない。
深青は、無事だろうか。
きっと、無事だ。
自分がこんなふうに閉じ込められているということは、彼女がまだ捕らえられていないということの何よりの証拠だろう。
――あの子が無事なら、それでいい。
諦めと安堵の中、愛璃はトロトロと眠りに堕ちていく。
愛璃の中の一番古い記憶は、まだ自力では立つこともできなかった頃、何か硬いものをぶつけられて強烈な痛みを覚えたことだ。引き続いて、熱い、とか苦しい、とか。逃げることができなかったから、甘んじて受け止めるしかなかった。
動けるようになると、少しは避けたり、嫌がったりすることができるようになった。一度だけ、ぶつけられたものを投げ返した事があったが、そうすると、苦痛は何倍にもなってかえされて、愛璃はひたすら逃げる方がよいことを学んだ。
彼女の神経は常に研ぎ澄まされて、鼓膜を震わせる微かな物音、視界の隅をチラリとよぎる影、そういったものを取り逃すことはなくなった。
やがて、もう少し大きくなると、愛璃は、『苦痛』を与える者が『親』と呼ばれている存在であることを知った。彼女にとって、『親』とは常に警戒すべき相手だった。
そして、転換点を迎えたのは、4歳になる、少し前。
迫り来る、ガラス製の灰皿。いかにも硬くて重そうだった。
投げつけられたそれを、咄嗟に拒んだ。
灰皿は弾かれたように方向を変え、投げた本人――母親の額に直撃した。抑えた手から零れ落ちる、紅い液体。乱れた髪の隙間から愛璃に注がれた、その眼差し。
それからはしばしの平穏な日々。
『親』は彼女を遠巻きに見るだけになり、『苦痛』を味わうことがなくなった。
見知らぬ男が愛璃を迎えに来たのは、間もなくのことだった。
『親』は指一本触れる事も無く愛璃を男に引き渡すと、さっさとドアを閉めた。『親』が彼女に触れる時は必ず『苦痛』を伴ったから、彼らのそんな態度は、どうでもいいことだった。
『研究所』に連れてこられても、基本的な扱いは変わらなかった。『親』の元では、愛璃はただの憂さ晴らしの為の『道具』。『研究所』では暮林の興味を満たす為の『玩具』。
どちらも同じように憎悪しながら、表面的には従順そのものを装った。そうすべきであることを、彼女は幼い頃から学んでいたから。反抗したところで、ろくなことにはならない。
そうやって、日々は過ぎていき、ある日、愛璃は彼女に出会った。
庭の隅、滅多に誰も来ないような場所を好んでうろついていた愛璃の耳に、どこからともなく聞こえてくる微かなすすり泣きが届いた。音源を探して、辿り着いたのは小さな茂み。その陰に、もっと小さな少女がうずくまっていた。
覗き込んだ愛璃に驚いたように、彼女がハッと顔を上げて。
涙で潤んだ真っ青な目に、一瞬見とれた。
「なんで、泣いてるの」
別に、その理由に興味があったわけではない。ただ、何か言葉を口にしなければならないと思って、出てきたのがその台詞だっただけ。実際、人形のような少女ばかりの『研究所』で、感情を露わにしている彼女は珍しいものではあったが。
声を掛けられたのが余程嬉しかったのか、それ以来、彼女は――深青は、愛璃にくっついてまわった。
初めのうちは邪険にしていた愛璃も、追い払っても追い払っても慕ってくる深青に、慣れてきて。次第に、彼女の温もりは、愛璃にとって、なくてはならないものになっていく。それは、生まれてこの方経験したことのない、温かさだった。
しばらくは、穏やかな日々。
だが。
周囲の状況から、愛璃と深青は、あることに気付き始めた。
それは、自分たちの『先』はそれほど長くはないということ。
愛璃は、「イヤだ」と思った。
このままここで命を落とし、亡骸さえも暮林に委ねるのか。自分はともかく、深青については、そんなことは我慢ができなかった。
そうして二人は逃亡し、愛璃は、今、こうしている。
自分は再び囚われてしまったけれど、ドロリとした夢の中で、愛璃はつくづく「良かった」と安堵していた。深青は、解放されたのだから。彼女が逃げてくれることが、自分にとっては何よりの救いだった。
大事な少女の無事を祈りながら、愛璃の意識は闇に堕ちていく。どこまでも、深く。
*
モニターの中でピクリとも動かない愛璃を眺めながら、暮林は「へぇ」と感嘆の声を上げた。
「あの装置、役に立つねぇ。ちょっと頭をいじんなきゃいけないかと思ったけど、まるで借りてきた猫だね。あんなに効くとは思わなかった。お仕置き用に使えるなぁ」
嬉しそうな彼の言葉にいかつい警備主任――柴山が眉をひそめたことには、気付かない。
反抗的な妖精は催眠能力者に洗脳してもらうのだが、愛璃のように意志が強いものには、効果が薄い。下手をすると前頭葉あたりの手術が必要かと考えていたのだが、予想外にいい実験結果が得られて、暮林は満足この上なかった。後々何に使いたくなるか判らないので、できたら不可逆的なことはしたくなかったのだ。
愛璃ほどの意志と能力の持ち主でこれほどの効果が得られるのであれば、殆どの妖精に有効な筈だと、目算する。
「あ~あ。あとは、早く深青が戻ってきてくれれば、言うことないんだけどなぁ」
眼鏡を拭きながら、暮林は、そうボヤく。
「まだ、全然見つからないの?」
背後に立つ柴山を見もせずに、そう訊いた。
「その……東京中を精神感応者たちに探索させているのですが……全く反応がなく……」
「ふうん……やっぱり、あの子たちかなぁ」
「は?」
「別に。ま、引き続きやってね」
そう言って、片手を振って退室を促した。暮林の倍は体重がありそうな巨漢は腰を直角に曲げて頭を下げると、スゴスゴと部屋を出て行く。
範囲を区切って探索させてもさっぱり見つからないということは、やはり、誰か深青をガードしている存在がいるに違いない。
それは、あまり望ましくない事態だ。
「どうなるのかなぁ」
愛璃に冷ややかな視線を注いだまま、暮林はポツリとそう呟いた。