プロローグ
彼女は、まだ夜が明け切らない薄闇の中で静かに目を開いた。そして、ゆっくりと身体を起こす。
今日が『その日』だった。今日を最後に彼女は大事なものを失い、そして、いずれ、かけがえのないものを手に入れる。
始まりは3歳の時。
山間部をドライブしている時、不意に頭の中に浮かんできたのは、雪崩落ちてくる土砂に飲み込まれる自分と家族たちだった。唐突に火がついたように泣き出した彼女に、父親が慌てて車を路肩に停めて。数秒後、彼女たちを追い抜いていった後続車たちが、大量の土くれに呑み込まれていく様を呆然と見守った。
二度目は、5歳になったばかりのこと。
脳裏に閃いたのは、帰宅途中でダンプカーに跳ね飛ばされる、父親の姿。道路に落ちた父親はうつろに目を見開き、耳と鼻から血を流してピクリとも動かなかった。彼女はその日、父親に向かって何度も何度も「車に気をつけて」と懇願した。夜になって、病院からかかってきた電話では、父親が腕を骨折したとのことだった。突進してきたダンプカーを避けようとして転び、腕の骨を折ったのだと。
三度目は、つい、一ヶ月ほど前のこと。
飛行機に乗ろうとした時に見えたのは、フライト中に火を噴き出した、エンジンだった。やがて飛行機はふらつき始め、最後には海面へと叩き付けられる。その様を父親に話し、飛ばせてはダメだと言い張る彼女に、彼は頷いた。不思議な力の片鱗をしばしば見せていた娘の言葉を、信じたのだ。父親は空港の職員に「娘が飛行機のエンジンに鳥が入り込むのを見たようだ」と伝えた。その飛行機は点検に回され、結果、わずかな整備ミスが見つかった――鳥は入っていなかったけれども。
両親が娘のことを触れ回ったわけではない。むしろ、身体の弱い彼女に世間の好奇の眼差しが向かないように、隠そうとしたのだけれど。
――けれども、『アイツ』に気付かれた。
そして、それと共に、彼女には多くのことが見え始めたのだ。
『アイツ』と関わったことにより、新たに生まれた道。
その道を回避することも、彼女には不可能ではない。
けれども、敢えて、留まった。
もうじき彼女の平穏な生活は終わりを告げる。
一方で、これは始まりでもあるのだ。
「これは、始まり。そう、終わりを導くための、始まり」
彼女は呟き、群青、薔薇色、そして空色と移り変わっていく窓の外を眺める。その頭の中には、たくさんのことが渦巻いていた。
『アイツ』のしようとしていること。
そして、その先に待ち受ける、多くの悲しみ。
自分が動くことで、どれほどの変化を起こせるのかは判らない。
それでも、自分の小さな羽ばたきが、いずれ大きな風を惹き起こしてくれることを、彼女は願う。
大きな風となって、嵐を巻き起こしてくれることを。