あなたの声を聴かせて〜私の前でだけ無口な婚約者〜
学園でも人気の高い侯爵令息、セヴェリン・オルヴェルグ様との婚約が決まった。それを聞いた時、私は「なんで私が?」と思わず父に尋ねてしまった。人気者の彼のことは私も知ってはいたが、学園で全く接点がなかったからだ。
我が家は中立派の中でも至って普通の伯爵家で、特に変わった特産品や鉱山などもなく、政略的な旨みがあるようにも思えない。父も、ただ先方から話が来たとしか、わからないのだと言う。
鏡を見てみても、胸まで伸ばした茶色の髪と、同じ色の瞳をした、ごく普通の娘が不審そうにこちらを見ているだけである。成績だって、あえて言えば中の上かなという程度で、特別に良いわけではない。
ただ、我が家が格上の侯爵家からの申し出を断る理由は、何ひとつなかった。こうして、私、イレネア・ベルクレールとセヴェリン様との婚約は、正式に結ばれたのだった。
「そんなわけで、キゼルヌ様から美味しい紅茶の話を聞きましたの。ルブーシャン地方がここ数年力を入れて売り出している、新しい特産物だそうです」
「ふぅん」
「それから、クラスメイトのミリレイユ様が先日、歌劇場で新しい興行の劇を観にいらしたそうですが、その舞台のクライマックスで主人公の姫君と王子様の二人で歌われる、愛と絆の道という歌がとても素晴らしかったとのことで、私も観に行きたいなと思いましたの」
「へえ」
「最近読んだ中で特に好ましく思ったのは、ヒースクリフト・ノーティンという方の詩集ですの。自然の中のささやかな営みを、とても丁寧に静かに、それでいて美しく描写されるのです。とても綺麗に韻を踏んでいるので、音読するとまた耳に心地よくて」
「——そう。今度持ってきて、読んでみせてよ」
今日もセヴェリン様のお屋敷のガゼボで、週に一度の婚約者同士のお茶会。けれど、喋るのは私ばかり。私なりに色々な話題を心がけて話すのだが、いつもセヴェリン様は簡単な相槌を打つばかりで、ほとんど会話らしい会話にはならないのだ。
ようやく最後にセヴェリン様から返事らしい返事をいただき、私はほっと息を吐き出した。
「ええ、次にお会いする時にお持ちしますわ」
にっこり微笑んでそう言うと、セヴェリン様も品の良い微笑みを返してくる。セヴェリン様はダークブロンドに青い瞳の、いかにもな美男子なので、それだけでとても絵になる。
「うん」
そうして、夕方を知らせる時計台の鐘が鳴り、今日のお茶会の時間は終わった。私はいつものように玄関ポーチまで見送られて、回されてきた馬車に乗り込む。
「では、また来週末に」
「はい」
「詩集、忘れないで」
「まあ、お恥ずかしいですわ」
軽い挨拶を交わして、馬車が走り出す。いつも、この時間になると疲れ切っている自分に気がつく。ずっと弾まない会話を一人で維持しているので、気疲れがすごいのだ。
「セヴェリン様は、どうして私なんかと婚約されたのかしら。本当に、私で良かったのかしら」
思わず、独りごちる。いつだってお茶会の会話は盛り上がらないのだ。私が懸命に話しかけても、気の抜けた相槌が返るばかりで。しかも、時には眠いのか、セヴェリン様は椅子に背を預けて、目を閉じてしまうことすらある。
セヴェリン様が元々寡黙なタイプの方ならばあまり気にしないのだが、学園で見ている彼は違う。私以外とは、普通に長い会話で話をしているのを見かけるのだ。私の前でだけ無口すぎて、それを考えると、とてもうまくやっている婚約者同士とは思えない。
私はこれまで何度もそう思ったが、お茶会のテーブルに並ぶのは私が以前に話題にした好物だったり、食べてみたいと口にした珍しいお菓子や果物だったり、贈られる花も私の好きな花だったりで、そのたびにやはりそれなりには好かれているのではないかと絆されてしまう。
こうして二人きりで会うたびに気分が激しく上下して、あまり良い精神状態ではないと感じる。けれど、今のところ婚約をどうこうするような事態にはなっていないので、私はこのまま手探りでこの婚約を続けるしかないのだった。
翌週。私は社交辞令を本気にするのもどうかな、と思いながらも、ヒースクリフト・ノーティンの詩集を持って、セヴェリン様のお宅に伺った。
今日は、侍女が「本日はルブーシャン地方の茶葉をご用意いたしました」と説明しながら、紅茶を淹れてくれる。先週、私が話した茶葉だ。思わず、セヴェリン様の顔を見る。けれども彼は美しい碧眼を伏せていて、視線は合わなかった。
「ルブーシャン地方のお茶、ご用意してくださったのですね」
「うん、まぁね」
私の問いかけには、またしても短い返事が返る。いつものことだが、少し寂しい。
「詩集、持ってきてくれた? お茶を飲んだら朗読してみてよ」
どこか焦れた様子でそう言われて、珍しく長く声を聞けたなと思う。美男子なだけでなく、声も良い。もっと聞かせてくれればいいのに。そんなことを思う。もっと、こういうふうに会話を交わしたいのだが、それがなかなか難しい。
私は紅茶をゆっくり味わって喉を湿らせてから、取り出した詩集を開いた。特に響きが美しい一編を選んで、恥ずかしい気持ちを抑えながらも丁寧に朗読する。韻が美しく響くように、言葉が輝くように、ゆっくりと、丁寧に。
途中まで読んでふと視線を上げると、セヴェリン様は机に両肘をつき、顎を両手で支えて目を閉じていた。耳を澄ませると静かな呼吸音がする。
寝ていらっしゃるの? そう思って、本を閉じようとすると、突然瞳が薄く開かれてこちらを真っ直ぐに見た。
「——続きは?」
私は慌てて詩集に視線を戻し、続きを読み上げた。なぜだか、とてもドキドキした。見てはいけないものを、見たように。
「そう言えば、殿方は乗馬がお好きだとよく聞きますが……」
あまり興味がないけれど、男性が好むという話題を調べてきたのだ。詩集を読み終わって、気恥ずかしさを誤魔化すようにそう口にした。聞き齧っただけの知識だけれど、セヴェリン様が喜んでくれたらいい。そう思って。
けれど。
「そんなに無理をして、興味のないことを話さなくていいよ」
セヴェリン様は、初めて私の話を途中で遮った。あんなに聞きたいと思っていた声なのに、全然嬉しくない。
その後は、今まで以上に話が盛り上がらなかった。私が友人たちから聞いた噂話をしている間も、セヴェリン様はどこかぼんやりとした様子で、私の話に軽く頷くばかりで、いつもの短い相槌すらなかった。
前回の社交辞令をまともに信じて下手な朗読などしたから、今度こそ嫌われたのではないかと、ヒヤリと思う。侍女の方がお茶のお代わりを勧めてくれたり、お茶菓子を持ってきてくれたりと、かなり気を遣ってくれているのが分かる。それが余計にしんどい。
もっとセヴェリン様とちゃんと会話をしたいのに、声を聞きたいのに、私の話術がうまくないからか、ちっともうまくいかない。私の前でだけ無口なセヴェリン様に対して、もっと怒りが湧いてもおかしくないのに、なぜか気持ちばかりが先に好きになってしまっている。
だって、全然お話はできないのに、会うたびに用意してくれるものがどんどん私好みになっていったりするんだもの。こんなの、私のことがまるで好きみたいで——誤解してしまうのは仕方ないではないの。
思わず、目元に涙が滲んでしまった。そこで今日も時計台の夕方を知らせる鐘が鳴り、帰る時間となる。私はほっとして席を立った。今日ばかりは見送りもしてほしくなかったが、セヴェリン様は律儀に見送りに出てくる。
「来週、歌劇場のチケットを取ったから、一緒に行こう」
「……はい」
こんなふうに不意打ちで嬉しがらせるのが、本当にずるいと思う。会うたびに気持ちが振り回されてしまう。しんどいのに、嬉しくて。嫌われているのではないかと思うたびに、好かれているように思えることをしてくるから、いつだって気持ちが落ち着かない。
「イレネア、セヴェリン様とは最近どうなの?」
「そうそう。あの人気者と婚約なんて、羨ましがってる人たくさんいるわよ」
放課後の喫茶室で、いつものメンバーとお茶をする。毎週水曜日の放課後、私とララフィーナ・ロンデギリム伯爵令嬢とキゼルヌ・ヴァンクール子爵令嬢の三人は、学園の喫茶室の片隅でお茶をするのが恒例だった。
この二人とは学園の一年次からのクラスメイトで、二年になって私が二人とクラスが分かれてしまってからも、こうして水曜の放課後に会って話すことにしている。いつもの席は、観葉植物の陰になっていて周りの目を気にせず話すことができるので、気安い会話にちょうどいいのだった。
「どうもこうも……今週末、歌劇に連れて行ってくれるそうよ」
「あら、人気の演目でなかなかチケットが取れないと評判なのに……愛されてるわねぇ」
ララフィーナが淑女らしくない笑顔でニヤニヤと笑いながら、軽く肘打ちをしてくる。
「話術も巧みで人当たりも良くて、お顔も成績も良いとか……完璧すぎて息が詰まらない? 私だったら気後れしてしまいそう」
キゼルヌは眉を寄せて、わざとらしく両腕を抱きしめて震えてみせた。二人とも、いつもとてもノリが良い。
「今日はそういう話はしたくないわ。それより、何か面白い話はない? できれば、殿方の気を引ける感じの」
「もう、イレネアったら最近そればっかり」
「殿方が好きかは知らないけれど、今度隣国から交響楽団が来るんですって。指揮者は有名なオルクレール・シモンズだそうよ」
「あとは……そうね、騎士科のルドウィン伯爵令息が、オクタヴィア王女に剣を捧げたとかなんとか」
「え、ルドウィン伯爵令息って、確かミリレイユ様の侯爵家に婿入り予定よね? 道義的にまずいのではなくて?」
「そうなのよ、そうなのよ!」
噂話は止まらない。特に恋バナの類は、女子たちの間で放課後に千里を走る。こういう、中身のあまりない話も、私は実は好きなのだ。こちらがあまり話題を振らなくても、充分に盛り上がれるのも良い。お喋りに花を咲かすとよく言うが、観葉植物に隠れたこの席ではいつも花が満開である。
「ねえ、他の人相手だと良く喋る人が、特定の一人の前でだけ無口になるのって、何が原因だと思う?」
私は、誰が、とは言わずに、ことさら何気ない口調で尋ねてみる。二人は少し視線を交わし合って、それから言いづらそうに口を開いた。
「それは……やっぱり、その相手とは話したくないとかなのではないかしら?」
「いやでも待って。その人が特別で緊張しているだけってことも」
先週、私はこの二人に、セヴェリン様が私が何気なく口にしたことを覚えてくれていて、それを次に会う時に反映してくれていると話した。その時は、二人揃って「愛されてるわね!」と喜んでくれて、それから大層冷やかされた。二人は、私とセヴェリン様がうまく行っていると思っているのだ。
本当は、この二人には全て話してしまいたい。悩みを分かち合いたい。でも、他の人の前では普通に話すセヴェリン様が、私にだけは無口なのだと、なぜか話すことができずにいる。
「どこかで嫌われるようなことがあったのかしら」
「いやでも、もしかしたら勘違いかもしれないし」
二人の意見が反目している。けれども、私はセヴェリン様が、私に緊張して話せないようには思えなかった。
「——あら、こんなところで陰口だなんて、淑女らしくないのではなくて?」
突然、上の方から高飛車な声が聞こえて、私たちは肩をびくりと震わせた。観葉植物の陰から、隣のクラスのカトレア・フォルジュ伯爵令嬢が顔を覗かせていた。
嫌な人に見つかってしまった。私は思わず眉を顰めた。彼女は前からセヴェリン様に対する好意を隠さずにいて、婚約が決まってから私によく嫌味を言ってくるのだ。
「イレネア様ったら、いつも大層お喋りですわよね。もう少し、口を閉じている時間を増やしたほうが宜しいのでは? 周りの皆さんが、耳が痛くなってしまいそうな大きさの声ですもの」
確かに、お喋りに夢中になって声量は大きくなっていたかもしれない。そこは反省する。けれども、そこまで嫌味を言われるのは正直納得がいかない。私のほうから婚約を申し込んだわけではないのだもの。
「お耳に障ったのなら申し訳ありませんわ、カトレア様」
キゼルヌがおっとりとした口調で言う。続けて、ララフィーナが笑顔で言った。
「でも、そんなところで聞き耳を立てていらっしゃるのも、あまりお行儀のいいことではありませんわよね? まるで、盗人のようですわよ」
「何ですって?」
カトレア様が、キッとこちらを睨みつけてくる。言い返したのは私ではなくて、ララフィーナなのに。
「イレネア様は、ずいぶんと心根がお強いようですけれど、そろそろ身の程をお知りになって、婚約を辞退することはお考えにならないのですか?」
手にした扇を開いて、口調だけは丁寧にカトレア様が言う。
「どういう意味ですか?」
私が訊くと、カトレア様はふん、と、自信ありげに鼻を鳴らした。
「私、あなたとお会いしている時のセヴェリン様を拝見したのですが、全く会話が弾んでいらっしゃらないではないですか。セヴェリン様は、あなたとはお話ししたくないように見えましたわ」
ねっとりとした口調でそう言われて、私は思わず手をぐっと握る。それを言われると弱い。実際に、いつも私たちの会話は、私の一方的なお喋りで成立しているように見えるのだ。
「それは……」
私は、そこで言い淀んだ。それは、確かにそうだと、私自身が嫌と言うほど知っているからだった。
「何を言っているの! セヴェリン様はイレネアのために、あの人気の歌劇のチケットまで用意してくれているのよ?」
「お菓子だってお茶だって、いつもイレネアの好きなものを用意してくださってると聞きましたわ!」
ララフィーナとキゼルヌが、私の代わりに言い返してくれている。私のために怒ってくれている二人の友情がとてもありがたいが、今の私にはカトレア様の言葉がとてもよく効いてしまっていた。
「確かに……私とセヴェリン様では会話が盛り上がっていませんわ」
「ほら、ご覧なさい」
観念した様子で私が言うと、カトレア様は楽しげに口角を上げた。まるっきり小説に出てくる悪役令嬢みたいだけれど、それを言ったら激昂されると思うのでさすがに口にはしない。
「ご自覚があるのなら、さっさと婚約を辞退なさいませ」
カトレア様がなおもそう言い募り、私に決断を迫ってくる。私は、これまでのセヴェリン様のことを脳裏に思い描いた。
「——待って。僕のいないところで、勝手に話を進めないでもらえるかな?」
「セヴェリン様!?」
観葉植物の陰から、ずっと聞きたかった声が聞こえてきた。私は、最初は夢か何かかと思ったが、ピシリと固まったカトレア様を見る限り、現実のようだ。
「待って。これは違うのです」
カトレア様の声が急に一オクターブ高く、か弱くなる。うーん、セヴェリン様がここまでを聞いていたのだとしたら、いまさら声音を変えても効果は薄いと思うのだけれど。
「僕とイレネアの婚約をどうこうと聞こえたけれど、本当に違うのかい?」
セヴェリン様がこんなに喋っているところを、初めて見たかもしれない。スラスラと、話す声がやっぱり良くて、私はこれまでこれを聞けていなかったのだなぁと、改めて悲しく思う。カトレア様とは普通に話すのだな、と思ってしまうのを止められない。
「それは……その……あなた! 何とか言いなさいよ!」
カトレア様から急に振られてビックリする。え、普通、ここで私に振る?
「イレネア、何かこの婚約に疑問があるのかい?」
セヴェリン様が真っ直ぐに私を見つめて、強い声で問いかけてくる。私はずっと、こんなふうに、きちんと会話がしたかったのだ。
「ええと、なぜ、セヴェリン様が私などを選ばれたのか、ずっと疑問に思っておりました。我が家では政略にもなりませんし、私も取り立てて美人というわけではなく、成績も普通で……」
ずっと聞きたくて聞けなかったことを、なぜだか今この瞬間は、スラスラと言うことができた。今まで喉の奥に詰まっていたものが、するりと溶けて簡単に言葉になる。それを聞いて、セヴェリン様は見る見る顔を強張らせた。
「ごめん。もう伝わっていると思って、きちんと言葉にしていなかった。僕は、あなたが前にここでお喋りしていた声を近くの席で聞いて、あなたの声がものすごく好みでずっと忘れられなくて……それで婚約を申し込んだんだ」
「えっ?」
「えっ?」
カトレア様と私は、同時に大きな声を上げた。カトレア様が驚いた理由はわからないが、私はあまりにも意外な理由を言われたからだった。
「え? 声が……好き? 私の?」
「あなたが、興味関心のあることを楽しそうに話している声が、とても好きなんだ……。だから、無理に男の好きそうな話をしているのを聴くのは忍びなくて」
照れたように目を伏せて、やや早口でセヴェリン様が言う。私はポカンとしてしまった。
確かに私の声は甘いと、家族や友人からはよく言われる。ただし、人によってはぶりっ子のように聞こえると言う人もいて、好き嫌いが分かれる声質だ。だから、あまり私自身は自分の声を好きだと思ったことはなかった。もっと普通の、いや、どちらかと言うと、ララフィーナのような凛とした声だったら良いのにと思っていた。
けれども、セヴェリン様はその声が好きなのだと、そう言った。
「では、いつも無口で短い相槌だけだったのは……」
「あなたの声を聴くのに、自分の声が邪魔だったから……あ! ごめん。じゃあずっと、誤解させていたんだね」
セヴェリン様は、途端にオロオロとした様子で私の顔を窺う。学園で人気の美男子が形無しだ。
「何よ……私、ただの当て馬じゃない!」
カトレア様が、涙目で走り去る。けれど、セヴェリン様の視界には、彼女が入っていないようだった。熱っぽい視線で私を見つめて、セヴェリン様が請うように囁いた。
「お願いだ……これからも、あなたの声を聴かせて」
私は、真っ赤になって頷いた。
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