プロローグ
僕は、保育士を辞めた。
理由は、自分でもはっきり言葉にできなかった。子どもたちは好きだった。
毎日、笑顔で駆け寄ってくる小さな手が、
僕の心を確かに温めていた。
でも、朝のミーティングで
保護者の視線を感じる時、
そして給料明細を見るたび、
何かが少しずつ削られていく気がした。
(僕、ここで何年続けられるんだろう)
ある日、園長室で退職を告げた。引き止められたけど、僕はただ首を振った。
辞めてから、アルバイトを転々としながら、一人暮らしを続けていた。実家に戻る選択肢は、最初から頭に浮かばなかった。母の声が聞こえる気がしたから。
「普通に、結婚とか考えないの?」
そんな言葉を、避けたかった。
──出会いは、秋の終わりだった。
僕は、友人に誘われて入った小さなバーで、カウンターの端に座っていた。仕事の面接に落ちた日で、ビールをゆっくり飲んでいた。隣に座った男が、グラスを置く音がした。
「すみません、ライター貸してもらえませんか」
男はタバコを手にしていた。僕はポケットを探って、ないと首を振った。
「あ、持ってなくて……」
「いや、いいです」
男は軽く笑って、店員に頼んだ。火を点けて、一服しながら、僕の方を向いた。
「一人?」
僕は頷いた。男は橘玲央といった。名刺を渡されて、営業職だと知った。スーツの襟がきちんと整っていて、声は低く落ち着いていた。
会話は、ゆっくり進んだ。僕は保育士を辞めたばかりだと、ぽろっとこぼした。玲央は特に驚いた様子もなく、ただ聞いてくれた。
「大変だったんだな」
それだけだった。でも、僕はその言葉に、少し肩の力が抜けた気がした。
(なんで、こんなに話しやすいんだろう)
連絡先を交換したのは、店を出るときだった。雨が降り始めていて、玲央が傘を差しかけてくれた。
「送るよ」
「いえ、大丈夫です」
僕は断ったけど、玲央は黙って一緒に駅まで歩いた。
それが始まりだった。
──何度か会ううちに、僕は玲央の部屋を知った。
玲央は一人暮らしが長く、部屋は無駄がなくて静かだった。僕が作った料理を食べて、玲央はいつも「うまい」と短く言った。僕はそれが嬉しくて、少しずつ通うようになった。
ある夜、玲央が言った。
「一緒に、住まないか」
僕は箸を止めた。
理由は、玲央も僕も、言葉にしなかった。ただ、玲央の部屋に僕の荷物が増えていくのが、自然だったから。
僕は少し考えて、頷いた。
(ここに、いてもいいのかな)
そんな思いはあった。でも、玲央の隣は、静かで、温かかった。
引っ越しの日、僕は小さな段ボールを抱えて、玲央の──いや、二人の部屋のドアを開けた。
玲央が迎えてくれた。
「荷物、これだけ?」
「うん。あとは、少しずつ」
玲央は頷いて、段ボールを受け取った。
新しい生活が、静かに始まった。




