voi ch'entrate.
西太平洋上空 高度13000メートル
アメリカ陸軍航空軍所属 爆撃機機内
まだ制式名称すら定まっていない、急造の超重爆撃機。
試作機に毛が生えたような機体で、塗装も最低限。
配線はむき出しの箇所があり、機体はやけに軋む。
────B-36の図体は、爆撃機というより「空飛ぶ建造物」だった。
格納庫で見上げたときから、誰もが同じ感想を抱いた。
翼は長く、胴体は輸送機より太い。
銀色の外板は周囲の明かりを鈍く弾き、まるで艦船のような存在感を放っている。
……こんな怪物が本当に飛ぶのか。
初めて見た整備兵が、そう呟いたのを思い出す。
だが今その怪物は、六基のレシプロエンジンを唸らせながら、夜の成層圏を飛翔していた。
重低音の振動が絶えず床を伝い、足裏から骨へと染み込んでくる。
与圧されている機内に、どこか冷えた金属と油とゴムの匂いが混ざっていた。
B-29に乗っていた者にとって、この機内は列車の車両のようだった。
通路があり、隔壁があり、前部区画と後部区画が長いトンネルで繋がっている。
その広さが、逆に落ち着かなかった。
……そして爆弾倉の向こう側。
爆撃機の腹の中には、人類史上、最も危険な爆弾が吊り下げられていた。
今回の「特別貨物」。
訓練弾を何発か使ったことはあっても、誰も本物がどういうものなのかを知らない。
だが全員が、それを意識していた。
整備時に見えた、異様なほど厳重な警備、触るな、近づくな、質問するなという命令。
爆弾というより、機密装置の扱いだった。
だからこそ、誰も、その話をしなかった。
代わりに、どうでもいい話題に逃げる。
「なあ」
無線封止で手持ち無沙汰な通信士が、姿勢をずらしながら口を開く。
「終わったら、まず何食う?」
唐突な話題だった。
副操縦士が苦笑する。
「は?」
「いや、帰ったらさ。基地の食堂、また古くなった材料だろ? 俺、もう我慢ならん」
「贅沢言うなよ。補給船が遅れてんだ」
「ステーキだ、ステーキ。血が滴るやつ」
「夢見すぎだろ」
航空機関士が工具箱を閉めながら割って入る。
「俺はビールだな。樽ごと飲む」
「任務中に言うなよ、喉が乾く」
「いいだろ、想像くらい」
小さな笑いが起きが、その笑いは、妙に軽かった。
これは縁起担ぎだ。
生きて帰る前提の、ささやかな儀式……喋っていないと、余計なことを考えてしまう。
航法士が地図を広げながらぼやく。
「しかしよ……東京か」
彼の指が海図の上をなぞる。
テキサスからフィジー、そこからダーウィンを経由して、東京。
とんでもない距離だ。
燃料計算は何度もやり直された。しかして帰投できる保証は、どこにもない。
「なんだ、怖気づいたか?」
「いや。ただ、遠い。とにかく遠い。テキサスからここまで飛んで、さらに日本だぞ。俺たち郵便屋か何かか?」
「世界一高い郵便だな」
「送料いくらだ?」
「祖国の命運、一個分」
短い、乾いた笑い。
その間にも、エンジンは低く唸り続ける。
一定の振動と単調な音、それは眠気すら誘うリズム。
だが、誰一人として本当に気を抜いてはいなかった。
爆撃手だけは黙っていた。
照準器の調整を何度も繰り返している。
レンズを磨き、角度を確かめ、またやり直す。
必要以上に丁寧だ。
その手元を見て、通信士が声をかける。
「おい、そんなに睨んでも逃げねえよ、東京は」
「……俺が落とすんだ」
ぽつりと返ってきた。
「そりゃお前の仕事だからな…」
「ボタン一個だぞ」
「どういうこった?」
爆撃手は少し迷ってから、言った。
「もっとこう……でかいレバーとか、両手で押すとか、そういうんだと思ってた」
「ヒーローの秘密基地みたいに?」
「そう。世界を変えるスイッチが、あんな小さいの、変だろ」
数秒、沈黙。
機関音だけが響き、副操縦士が肩をすくめる。
「戦争なんてそんなもんだ。引き金はいつも小さい」
「名言か?」
「そう、俺が今考えた名言だ」
また笑いが起きたが、誰も長くは続かなかった。
笑いが途切れた後、全員の視線が、無意識に爆弾倉の方へ吸い寄せられる。
予圧隔壁の厚いロック、その向こうにあるもの。
詳細は知らされていない。
ただ一つだけ、説明された。
『通常爆弾とは比較にならない威力』
それだけ。
その曖昧さが、逆に恐ろしい。
「なあ」
通信士が小声で言う。
「これ落としたら、ほんとに終わると思うか?」
誰もすぐには答えなかった。
やがて機長が言う。
「終わってもらわなきゃ困る」
それが答えだった。
「これで終わらなきゃ、俺たちは何を運んでるんだって話だ」
静かに、全員が頷く。
雲海の上、窓の外に星空が広がる。
黒い世界に、無数の光。
戦争中とは思えないほど、綺麗な夜。
地上に都市があり、人が眠っているなど、とても信じられない静けさ。
「……はぁ」
航法士が呟く。
「帰ったら、普通の仕事に戻りたいな」
「どんな?」
「郵便屋でもいい」
「結局それかよ」
小さな笑い、そして──
機長の声。
いつもと同じ、落ち着いた声色。
だが、わずかに硬い。
「全員、持ち場に戻れ。まもなく目標空域だ」
空気が一瞬で変わる。
冗談が止まり、装備の擦れる音だけが残る。
雑談の時間は終わり。
誰も言葉にしなかったが、全員が同じことを思っていた。
……これは、歴史に残る任務になる。
それからの与圧区画の中は、異様なほど静かだった。
エンジン音は聞こえている。
六基の巨大なプロペラが、夜気を引き裂き続けている。
それでも機内は、深海とも錯覚するほどの重圧があった。
誰も、無駄口を叩かない。
「目標まで、あと5分」
後席から報告。
「迎撃機の機影ゼロ。対空砲火も確認できず、探照灯はまだ此方を捕捉してないな」
それはあまりにも、あっさりしていた。
日本はこれまで、夜でも迎撃してきた。
探照灯、夜間戦闘機、必死の対空砲火。とはいえ、日本の有するそれらの対抗策は、超高高度を飛行するこのB-36に対して有効ではないと判りきっている。
それに、そもそも発見されていなければ対応など出来ないだろうとも。
「……死んだ街に向かってるみたいだな」
副操縦士が呟く。
その下に、東京湾が見えた。
黒い水面、灯りはほとんど見えない。
停電か、灯火管制か、それとも──
────戦争疲れか。
巨大な都市のはずなのに、影しかない。
「最終進入コースに乗る、爆撃手」
機長がスロットルを微調整し、機体がわずかに震える。
爆撃手が爆弾倉のスイッチに手をかけた。
手袋の中が汗で滑る。
「……これで終わるのか?」
誰に言ったのでもない言葉。
腹の下にぶら下がる“それ”の重みが、機体全体を引きずっているように感じる。
この一発だけで何万人、何十万人が消える。
それを理解しているが、任務はただ単純だ。
目標上空に侵入し、扉を開き、落とすだけ。
「目標まで1分」
機内時計の秒針だけが、やけに大きく響いた。
「……目標上空」
爆撃手の声が、やけに乾いていた。
機内灯は落とされ、計器の緑色の光だけが顔を照らしている。
照準器の中で黒い都市の輪郭が、ゆっくりと流れていく。
地形は全て地図と一致する。
間違いない、東京だ。
「扉を開く」
機長が短く言うと、爆弾倉のモーターが唸った。
金属のロックが外れる鈍い音。
次の瞬間、高空の冷たい空気が流れ込み、爆弾倉の中を風が吹き抜けた。
爆撃手の親指がスイッチにかかる。
この指一本で、歴史が変わる。
彼はノルデン照準器に高度、対地速度、風向、気温、湿度などを入力し、投下目標を東京都中心部に合わせた。
「……投下」
カチリ。
感触は、あまりにも軽かった。衝撃も、反動もない。
ただ…………機体が、ふっと持ち上がる。
「あ……」
誰かが息を呑んだ。
数トンの塊が消えただけで、これほど違うのかというほど、B-36は軽くなった。
「投下確認。落下中」
爆撃手が小窓越しに追う。
小さな黒い影。
それが、ゆっくりと、確実に、都市へ吸い込まれていく。
「よし、待避する! 全速!」
機長が叫び、エンジンが唸りを上げる。
巨体が必死に速度を稼ぐ。
訓練で技術者連中に何度も聞かされた。
───うかうかしていれば、自分たちも、爆風に巻き込まれる、とにかく離れろ。振り返るな、と。
だが…………誰もが振り返っていた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
「……まだか?」
その瞬間───────
───────夜が、裏返った。
窓の外が、真っ白に塗り潰される。
夜が、消えた。
太陽が、もう一つの太陽が地上から昇った。
「────ッ!?」
光。
ただただ、閃光。
機内の影が逆転し、全員の骨格が透けたように見えた気がした。爆撃手が悲鳴を上げる。
「なんだ、これ……なんだよ、これ……!」
数秒遅れて、地獄の沼のように濃い焔が、地面からゆっくりと広がる。
爆発、というよりは、溶岩の海が盛り上がってくるようだった。
都市が、飲み込まれていく、建物も、橋も、何もかも。
光と焔の中に溶けていく。
「……神よ」
航法士が呟いた。
「ソドムとゴモラ……」
誰かが、笑った。
引きつった笑い。
「やった……やったぞ……これで終わる……これで戦争は終わるんだ……!」
歓喜。拳を振り上げる者。
涙ぐむ者。
「ざまあみろ、日本……」
歯を食いしばる者。復讐を叫ぶ者。
だが、機長だけは、何も言えなかった。
窓の外、ゆっくりと立ち上る、黒と赤の柱。
きのこ雲。
雲を突き抜け、まだまだ、上へ伸びていく。
自分たちと同じ高度に届きそうなほどに。
「……あの下に、人がいるのか」
誰にも届かない声。
手が震える。
…………自分たちは今、何を落とした?
あれは兵器という枠に収まるようなものなのか?
それとも────
遅れて、衝撃波が来た。
巨人に殴られたような衝撃で、機体が跳ね上がる。
「揺れるぞ!」
歓声と、嗚咽と、沈黙が入り混じる機内。
誰一人、同じ顔をしていなかった。
ただ共通していたのは。
もう後戻りはできない、と。
全員が理解してしまったことだった。
背後、夜の東京の上。
新しい太陽が、ゆっくりと咲いていた。
1945年8月6日 午後11時頃
東京都、六本木上空高度600mでガンバレル型原子爆弾「リトルボーイ」(核出力15kt)が炸裂。
同時刻、大阪市北区上空でインプロージョン型原子爆弾「ファットマン」(核出力21kt)が炸裂。
翌日未明、ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄し、日本に対して正式に宣戦布告。
数時間後、報復核攻撃によりニューヨークおよびモスクワは壊滅した。




