シャル・ウィ・ダンス
1945年5月 ロンドン
紙は、やけに薄く感じられた。
中立国スイス経由で連合国各国に届けられた、日本の講和条件。
だが、そこに記されている文字の一つ一つは、大英帝国の骨組みを直接引き剥がさんとする憎悪に満ちている。
英国首相ウィンストン・チャーチルは書類を机に置き、葉巻に火をつけた。
吸い込む。
吐き出す。
煙が天井に溜まるまでの数秒で、感情は封じ込められた。
「────実に率直だ」
そう言って、彼はわずかに口角を上げる。
怒りは依然胸の奥で煮えたぎっているが、それを悟らせるのは愚か者のすることだと、彼は知っている。
「ハワイ、西太平洋の島嶼部、オーストラリア、ニュージーランドの割譲。
アジアにおける我々の植民地からの完全撤退と独立の保証。
さらに、南米やインド、中東で我々が保有する全ての利権の………無条件の譲渡」
側近の一人が、途中で言葉を詰まらせた。
読み上げているだけで、正気を疑われそうな内容だ。
「つまり、彼らはこう言っているわけだ」
チャーチルは煙を吐きながら、軽く肩をすくめた。
「“戦争を終わらせたいなら、帝国を差し出せ”……と」
当然の沈黙。
だが、彼の声はあくまで軽かった。
「アメリカは反対しているそうだな?」
「はい、それも強く。ワシントンは、この条件を受け入れるべきではないと」
「当然だ、余りにも過大すぎる。それに、あの要求を飲んだとして、その次に何を言いだす事か……」
そう言ってから、チャーチルは一拍置いた。
「もっとも──今の日本は、“次”を考える気がないのだろうが」
別の側近が言葉を挟む。
「彼らは……理性を失っている、と?」
「いや、逆だ」
チャーチルは首を横に振った。
「非常に冷静だ。冷静すぎるほどに」
葉巻の灰を落とし、ゆっくりと続ける。
「彼らは理解している。この戦争が、もはや“外交の延長”ではなく、“今、どこまで奪えるか”の段階に入ったことを」
側近たちの表情が、さらに硬くなる。
「後先を考える国は、あんな条件を突きつけたりはしない。だが、後など無いなら話は別だ。ダッカとインパールを焼いた例の……あの様な兵器が出回った後に戦争など起こせば、今度は人類文明、いや世界そのものが焼ける事になる。彼らは今、世界が焼け落ちる前に、世界を掴みに来ているんだろう」
窓の外では、ロンドンの夜が静かに広がっていた。
かつて爆撃に晒され、それでも耐え抜いた街だ。
「……トルーマンは、大変だろうな」
誰に向けたともなく、彼は呟いた。
「就任したばかりで、これだ。戦勝国の大統領になるはずが、世界の終わり方を選ばされている」
皮肉めいた笑みが浮かぶ。
だが、その目は笑っていなかった。
「アメリカは応じないだろし、当然、我々も応じられない」
チャーチルは書類に再び視線を落とす。
そこに書かれた条件は、どう取り繕っても交渉のそれではない。
強いて言うなら───勝利宣言だろう。
「さて……」
彼は静かに言った。
「…………アメリカ人達は、どうするつもりなのだろうな?」
同日 ホワイトハウス、執務室。
米国第33代大統領に就任したハリー・S・トルーマンは机に肘をつき、両手を組んだまま動かなかった。
壁に掛けられた地図──太平洋が、今は溶岩で満たされた地獄の底無し沼のように見える。
「………それは、本当なのだな?」
声は低く、掠れていた。
「はい、大統領。現在の見積もりでは、数ヶ月です。早ければ二、三ヵ月で、我々の原子爆弾は実戦投入できます」
沈黙。
「それに加えて、新型爆撃機であるB-36の設計は最終段階に入っています。
これが完成すれば、オーストラリアの基地から東京を攻撃可能になります」
…………数ヶ月。
その言葉が、頭の中を何度も反響した。
数ヶ月あれば立場は対等、いや、有利になる。
「時間を稼げ、と?」
トルーマンの問いに、誰も即答しなかった。
「………講和交渉を引き延ばす。条件の一部を検討しているふりをする。あるいは、受け入れ準備を理由に時間を──」
「その間に、次は、どこにアレが落ちる?」
ぴしゃりと遮られ、部屋の空気が張り詰めた。
「……大統領、こちらを」
差し出された資料、写真だった。
焼け焦げた港湾、沈んだ艦艇、歪んだドック………パールハーバー。
「すでに国内では、事実が広まり始めています。
“原子爆弾”という存在こそ伏せられていますが……」
別の文官が続ける。
「報復を求める声が、急速に拡大しています。新聞、ラジオ、街頭集会。“三度目を許すな”と」
トルーマンは目を閉じた。
「……下手に講和すれば、その国民の怒りは我々に向く」
彼が副大統領であった時、戦争は「終盤」だと聞かされていた。
勝利は時間の問題だと。
だが今、彼の机の上には……勝敗の前に、世界が壊れる可能性が並んでいる。
「しかし……日本は、我々が思い通りにならないのであれば、また直ぐにでも原子爆弾を使い出すだろう」
独り言のような声。
「はい」
誰かが答えた。
「日本は、もはや焼く場所を選ばないでしょう」
だからこそ、講和条件はあれほど露骨だった。
脅迫であり、挑発であり、最後通牒。
「数ヶ月あれば……」
誰かが、もう一度その言葉を口にした。
トルーマンは立ち上がり、窓の外を見た。
穏やかなワシントンの空。
この空の下で、人々は報復を叫び、正義を信じている。
「数ヶ月引き延ばせば、我々は対等になれる。だが…………その“数ヶ月”の間に、何万人が消える?」
トルーマンは目を閉じた。
彼は、まだこの椅子に慣れていない………だが、世界は慣れるまで待ってはくれないのだろう。
「……交渉は続ける。
だが、マンハッタン計画は最大限に急げ。日本が持っているなら、我々も持つ。それが、話をするための最低条件だ」
トルーマンは机に戻り、書類に手を置いた。
それは、講和条件の写し…………彼はそれを、ゆっくりと裏返した。
振り返り、側近を見る。
「モスクワに連絡してくれ」
一瞬、誰かが息を呑んだ。
「正式にだ。“現状を共有したい”と伝えろ」




