インフェルノ
1945年8月7日 午前3時頃
────とあるソ連軍兵士
大地は数多の砲声によって、腹の底へ沈み込むような振動で揺れていた。
ウスリー川の向こう側、虎頭要塞を望む丘の斜面に伏せていた私は、湿った土の匂いと汗の酸味を吸い込みながら、あの巨大なコンクリートの塊を睨みつけていた。
日本軍が築城した国境要塞であり、我々が陥すべき目標。
その時、空の彼方に走った白煙の軌跡が全てを変えた。
日本軍側から撃ち出されたそれは流れ星のように細く儚く見えたが、次の瞬間には地平線そのものが白光に呑み込まれ、視界は完全に塗り潰され、世界から輪郭が消え去った。
遅れて到達した衝撃は、巨大な拳で背中を殴りつけるかのように私を地面へ叩き伏せ、肺の中の空気を無理やり押し出し全ての音を奪い去った。
顔を上げたとき、先程まで砲兵隊が展開していた筈の場所は濃密な煙霧に包まれており、砲も車両も人影も跡形なく、ただ黒と灰色の煙柱だけがゆっくりと空へ伸びていた。
破壊された……いや、消されたのだ。
日本軍の新型爆弾────噂では聞いていたが、まさか前線に、しかもこれほど容赦なく撃ち込まれるとは思っていなかった。
車両部隊が炎柱を上げ、野砲が陣取った塹壕が消え、土地が焼かれていく光景を見ながら、私は自らがすでに引き返せない場所に立っていることを理解する。
それでも笛が鳴り、突撃の合図が出ると、耳鳴りで自分の声すら聞こえないまま喉が裂けるほど叫び、泥を蹴って丘を駆け下りるほかなかった。
周囲にどれだけの仲間が残っているのかも分からないまま、ただ動いている影を味方だと信じて走る。
機関銃の弾丸が土を跳ね上げ、隣を走っていた兵が崩れ落ちても足を止めず、恐怖が胸を締め上げながらも前進する。
銃を握る手は汗で滑り、指先は震え、喉は乾ききっているのに、足だけは確実に地面を蹴り続けた。
要塞の外郭はゆっくりと、しかし確実に視界の中で大きくなっていく。
恐怖と怒りと本能を混ぜ合わせながら、崩れた地面を踏み越え、煙の中を突き進み、コンクリート壁の目前まで辿り着くその瞬間まで、ただ前へ、前へと。
再び空に白煙が走り、後続の移動中だった部隊が閃光に包まれると、地面は波のようにかき混ぜられ、空気は爆発し、森は松明となって炎上した。
同日
ソビエト連邦の対日宣戦布告および侵攻開始から数時間の内に、満ソ国境地帯全域にて30~40回の核爆発が発生。
日本軍の地対地戦術核兵器(核出力0.5~20kt)であると推測される。
丘を越えた先で、煙の向こうから低く重い振動が伝わってきた。
振動は地面を伝い、靴底から脚へ、脚から背骨へと這い上がるように響き、やがて土煙の幕を押し分けて現れたのは、煤にまみれた鋼鉄の塊───T-34、味方の戦車だった。
砲塔に白い識別標識がかすれて残り、履帯は焼け焦げた地面を削りながら前進している。
「歩兵、こっちだ! 乗れ!」
砲塔上の戦車兵が腕を振り、エンジン音に負けない声で怒鳴る。
私たちは互いに目を合わせる間もなく走り寄り、まだ熱を帯びた装甲に手をかけ、滑る金属に爪を立てるようにしてよじ登った。
鉄の匂いと油の匂いが鼻を刺し、エンジンの震動が腹の奥まで響く。
「降りて散開したほうが安全じゃないのか?」
隣の兵が怒鳴る。声は震えているが、目は必死だ。
砲塔のハッチから半身を出した車長が、振り返りもせずに答える。
「逆だ!開けた場所に留まってたら吹き飛ばされる!」
砲声とエンジン音の隙間を縫うように、彼の声が続く。
「奴らの新型爆弾は広い範囲を焼く! 距離を詰めるんだ!近づけば狙いづらい!」
言葉の意味を理解するより先に、戦車は加速した。
履帯が瓦礫を噛み砕き、倒木を踏み折り、焦げた地面を抉りながら日本軍陣地へ一直線に突き進む。
「砲撃だ!来るぞ!」
誰かが叫ぶが、戦車は止まらない。
むしろさらに速度を上げ、砲塔がわずかに旋回し、主砲が閃いた。
背後では日本軍の要塞砲の砲撃が炸裂し、巨大な土煙が弾けている。
衝撃波が我々を追いすがり、装甲に叩きつけられるが、私たちはすでに要塞外周へと相当に距離を詰めていた。
「振り落とされるなよ!」
次の瞬間、戦車は塹壕線を乗り越え、土嚢を踏み潰し、機関銃陣地の目前へ躍り出た。
日本兵の銃火が火花を散らし、装甲を叩き、私の耳元を弾丸が掠める。
「降りるぞ!行け!行け!行け!」
合図と同時に私たちは跳び下り、まだ揺れる地面に膝を打ちつけながらも前へ転がり、煙と土埃の中で銃を構える。
背後では戦車がさらに前進し、敵陣の中心へ鋼鉄の塊をねじ込んでいった。
そうして瓦礫に半ば埋もれたコンクリートの通路へ踏み込んだ瞬間、空気の質が変わった。
外の砲煙とは違う、湿った石灰と血の匂いが混じった重たい空気。
天井は低く、壁は分厚い。ここが要塞の腹の中だと直感で理解できた。
「前へ!」
怒鳴り声が反響し、すぐに銃声がそれをかき消す。
暗がりの奥から、日本兵が飛び出してくる。
銃剣を突き出し、叫び声とともに肉薄してくる影……私は反射的にPPShの引き金を引いた。
鼓膜を震わせる連射音。
狭い通路の中で跳ね返る銃声は耳鳴りのように重なり、発泡炎が断続的に壁を照らす。
木製の銃床に伝わる振動が腕を痺れさせ、弾丸が壁を抉り、火花を散らし、迫る影を叩き伏せる。
だが、一人倒してもまた一人。
物陰、崩れた砲座の裏、弾薬箱の影。どこからでも日本兵が現れる。
手榴弾が転がり、誰かが蹴り返す前に爆ぜる。破片が頬を掠め、血が温かく流れ落ちた。
「右だ、右!」
振り向いた瞬間、味方の兵が背後から組みつかれるのが見えた。
もつれ合う二つの影、怒号と喘息。
銃口を向け、短い連射でその塊を撃ち抜いた。
倒れたのが敵か味方か、一瞬わからなくなる。
背後では味方の戦車が機関銃陣地を粗方潰し終わり、砲塔をゆっくりと旋回させながら前進していた。
履帯が瓦礫を砕き、分厚い装甲が頼もしく見える。
「ついて来い!」
戦車の後ろに身を寄せ、再び前へ。
その瞬間、耳を裂くような高音、遅れて熱。
どこかから飛来した対戦車手榴弾が、戦車の車体上面に命中した。
装甲が穿たれ、白い閃光とともに黒煙が噴き上がる。
砲塔がわずかに跳ね上がり、次の瞬間、内部で何かが弾けた。
爆炎が戦車のハッチから噴き出し、鉄の塊が軋みながら停止する。
「くそっ……!」
叫び声とともに散開するが、要塞は迷路のように複雑で、どこも死角を孕んでおり、そこから日本兵が再び突撃してくる。
今度は火炎瓶を抱えて。
「撃て!」
PPShを腰だめに構え、乱射する。
弾丸が炎を散らし、火炎瓶が地面で砕け、炎が広がる。
熱気が顔を焼く、煙で視界が滲む。
故に、進むしかない。
溶鉱炉となった戦車の横を駆け抜け、崩れた壁を乗り越え、銃を撃ちながら次の通路へなだれ込む。
味方が倒れ、敵が倒れ、瓦礫の上に屍が折り重なる。
要塞はまだ、奥へ続いている。
崩れた天井から砂が絶え間なく落ち、コンクリート壁からむき出しになった鉄筋が、骨のように外側へ突き出している。我々はその間を、泥と血に足を取られながら進んでいた。
撃ち、踏み越える。
それだけを繰り返すうちに、自分が何をしているのか、どこにいるのかが曖昧になっていく。
PPShの反動が心臓の鼓動と重なり、銃口の閃光が視界の端で瞬き続ける。
怒号も悲鳴も、もう区別がつかない。
すべてがひとつの濁流になって、頭の奥をかき回す。
理性を手放し、ここでは皆がただの獣になる。
恐怖も、迷いも、罪悪感も、全部まとめて燃やされてしまうだけの。
そのときだった。
────万歳
どこからともなく、声がした。
最初は、耳鳴りかと思った……だが違う。
────万歳──万歳
揃った声。
抑揚のない、乾いた合唱。
通路の奥からか、頭上のコンクリートの向こうか、それとも……足元の暗闇からか。
────万歳。
三度、繰り返される。
整然として、妙に澄んでいる。
要塞全体が、薄い耳鳴りのようにその声を響かせている。
壁が震え、空洞が共鳴し、地の底から泡のように浮かび上がる。
撃ち合いは、いつの間にか止んでいた。
いや、止んではいないのかもしれない。
ただ耳が、その声以外を拒絶している。
冷たい水を、頭から浴びせられたような感覚。
さっきまで燃え上がっていた狂乱が、一瞬で凍りつく。
これは勝者の声ではないし、敗北の叫びでもない。
言うとすれば………何かの儀式だ。
要塞そのものが、最後の息を吐き出している。
一拍の静寂。
足元の地面が、微かに震えた。
その瞬間────世界が白く裂けた。
同日 朝~正午辺り
関東軍が15箇所の国境要塞でソ連軍誘引後に核自爆を実行。
同時に内地爆撃機部隊がウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツクに対して核攻撃を実施し市街の大半を壊滅させる。
1945年8月9日 チチハル近郊
────とあるソ連軍指揮官
閃光が空を引き裂いた。
それは雷鳴のようにも聞こえたが、それとは違う、白く乾いた光。
影という影を地面に焼きつけ、一瞬で全てを過剰な発光体へと変えてしまう、暴力的な明るさ。
遅れて、爆音。
腹の底から突き上げる衝撃が大地を震わせ、トラックの窓ガラスが内側へ弾け飛ぶ。地平線の向こうで空気そのものが裂けたかのような轟きが、鼓膜を殴りつける。
「何だ……?」
思わず外へ駆け出す。
ようやく到達したチチハル近郊。
市街地まで、あと何キロという地点だった。
先行部隊はすでに市内中心部へ進入し、抵抗は散発的だと報告が入っていた。
勝利は時間の問題………そのはずだった。
────だが、視界の先、チチハルの市街のど真ん中に、それは立っていた。
黒と灰と火が絡み合い、天へと捩れ上がる巨大な柱。底部は異様に膨れ、上空で傘のように広がる。
………キノコ雲。
その根元から、遅れて衝撃波が押し寄せてくる。
地面を這う圧力の壁が草を薙ぎ倒し、トラックを横転させ、兵士たちを吹き飛ばす。
呆然と立ち尽くすしかなかった。
無線は途絶え、煙の底に、何もかもが飲み込まれていた。
────双眼鏡を覗く。
チチハルの市街は、もはや都市の形を保っていない。
爆心地から同心円状に、建物という建物が崩れ落ちている。煉瓦造りの庁舎は外壁の一部だけを残して崩れ、屋根は裏返り、梁はねじ曲がって空に突き出している。
木造の家屋はすでに散乱する骨組みだけになり、炎がその隙間を舐め回す。
火は風にあおられ、一本の巨大な帯のように街路を走っていた。
舗装道路の上を、焼けた紙片が雪のように舞う。
電柱は根元から折れ、垂れ下がった電線が火花を散らしながら地面で痙攣している。
貯蔵倉庫らしき建物が爆ぜ、黒煙をさらに濃くする。
時折、遅れて何かが爆発していた……それが弾薬か、燃料かは判別はつかない。
市の中心部は、炉だ。巨大な炉だ。
「同志師団長!」
背後から駆け寄る足音。
振り向くと、連絡兵の顔は灰のように青ざめていた。
「師団の燃料残量は、既に三割以下との報告です。補給部隊は……」
言葉が途切れる。
補給部隊は、未だに到着していない。
別の参謀が口を挟む。
「後方の部隊も混乱しています。他の地域でも似たような爆発を確認しており、後方連絡線が不安定なのか、各所で独自判断による停止、あるいは後退が始まっています」
風向きが変わり、焦げた臭気がこちらまで届く。喉が焼ける。
「………次の命令は?」
誰かがそう言ったが、答えはない。
総司令部からの指示は途絶えたままだ。回線は断続的にしか繋がらず、受信できるのは断片的な雑音と、どこかの部隊の怒号だけ。
進め、止まれ、あるいは退け、なのか。
何も分からない。
「燃料が尽きれば、ここで立ち往生です」
「食糧も余裕はありません。補給が来なければ……」
言葉の先は、誰も口にしない。
前方では、市街が崩壊し続けている。
炎に包まれた建物がゆっくりと傾き、内部から崩落する。
赤く染まった煙が空を覆い、その下で何千、何万という人型が同時に消えている。
爆心地の周囲には、黒く焦げた空白地帯が広がっている。
そこには建物も、人も、建物も、影すらない。
ただ平坦な面があるだけだ。
その縁で、我々は立ち止まっている。
前に進めば、あの地獄へ踏み込むことになる。
しかし、後退を許可する命令は来ていない。
空にはまだ、歪んだキノコ雲が広がっている。
その影がゆっくりと地面を這い、我々の陣地にもかかる。
私は双眼鏡を下ろした。
勝利目前だった戦場は、一瞬で業火の中に沈んだ。
そして今、何が起きているのか……………それは、誰にも分からなかった。
1945年8月7~10日
関東軍はソ連軍侵攻に合わせて白城、通遼、新京、ハイラル、牡丹江、鶏西、ハルビン、チチハル、大慶で核自爆による焦土作戦を実施。
また、10日深夜にノヴォシビルスク上空で残留放射線強化型核爆弾(推定核出力1~1.5Mt)が炸裂。
ソ連軍梯団は突破力を喪失し停止、後に反攻を開始した関東軍と混戦状態に陥る。




