セカンド・インパクト
砂は黒く、血の色をよく吸っている。
硫黄の匂いは、もう何日嗅いだのか分からない。
最初は鼻を刺すほど強烈だったそれも、今では気にならない程度になってしまっていた。
肺の奥に入り込み、吐き出しても残る。まるで島そのもの、生き死にの臭気が、俺たちの体に染み込もうとしているみたいだった。
「……終わった、のか?」
誰かが言った。
小さな声だったが、妙にはっきり聞こえた。
1945年3月16日 硫黄島
────とあるアメリカ兵
銃声は、もうほとんどしない。
時折、洞窟の奥から乾いた単発音が聞こえることはあるが、反撃と呼べるほどのものじゃない。
迫撃砲も、機関銃も、あの執拗な狙撃も止んでいた。
俺たちは丘の斜面に伏せ、じっと前を見ていた。
黒い砂地の向こうに、焼け落ちたトーチカと崩れた岩肌が続いている。
白い布切れが、どこかに引っかかって風に揺れていた。
降伏旗かと思ったが、ただの包帯の切れ端だった。
「ジャップ、もう残ってねえだろ」
後ろで誰かが言う。
その声には、安堵と疲労と、そして疑いが混じっていた。
俺も同じことを考えていた。
こんなに静かな硫黄島は、初めてだ。
戦闘が激しかった一月前、地面は生き物みたいに唸っていた。
どこを踏んでも銃弾が飛び、どこに隠れても死があった。
それが今は……まるで嵐が過ぎ去った後の海みたいに、異様なほど穏やかだった。
「司令部は、島の制圧はほぼ完了って言ってる」
通信兵がそう伝えてきた。
ほぼ、という言葉が妙に引っかかる。
俺は銃を構えたまま、洞窟の入口を見つめていた。
暗闇の奥には何も見えない。
だが、何もいないと断言できるほど、この島を信用できる奴は、もうここにはいなかった。
「……あいつら、やたらしぶとかったな」
誰かが呟く。しかし、誰も答えない。
栗林という将軍の名前は、兵士の間でも知られていた。
頑固で、賢くて、しぶとい男……この地獄を設計した張本人。
そんな男が、ただ静かに終わりを受け入れるだろうか。
風が吹き、砂が舞い上がる。
空は灰色で、雲は低く垂れ込めていた。
その時だった。
地面の奥深く───ずっと下の方で、何かが「鳴った」
同時刻 硫黄島南部
ホーランド・スミス中将
作戦地図の上に置いたコーヒーは、すっかり冷めていた。
黒い砂で汚れたテーブルの上、島の地勢図に引かれた赤と青の線は、もはや意味を失いつつある。
「──先日の反撃以来、日本軍の組織的抵抗は確認されていません」
参謀が淡々と報告する。
その声は疲労を色濃く見せるが、戦闘開始当初の緊張はない。
「散発的な銃撃はありますが、いずれも計画的な攻撃ではありません。おそらく、洞窟内の残存兵とみられます」
私は頷いた。
硫黄島上陸以来、日本軍が、いや、栗林将軍が仕掛ける粘り強い消耗戦には幾度となく苦しめられた。
だが、それもここまでだ。
敵は、もう「軍」ではなかった。
散発的な抵抗、孤立した兵、統制を失い死に場所を探している影。
「……ようやく終わりだな」
思わず口に出た言葉に、誰も異を唱えなかった。
参謀の一人が、控えめに笑った。
別の将校は椅子に深く腰掛け、ヘルメットを脱いだ。
我々は勝った………少なくとも、この島では。
「栗林中将の所在は?」
「依然として不明です。ただ、日本軍の指揮系統は完全に破壊されたと判断しています」
私は地図上の島に目を落とす。
この島の心臓部、火山岩に穿たれた地下網。
────相手は優秀な指揮官だった。
それは認めざるを得ない。
「本土上陸作戦の前哨としては……高くついたが、必要な犠牲だった」
必要、犠牲。
何度も使ってきた言葉だが、硫黄島ほど、その意味を噛み締めさせられた場所はない。
「ひとまず、今後は航空基地の整備を優先し───」
そこまで言った時だった。
机の下……床が僅かに鳴る。
些細な違和感。
次の瞬間─────島の北部が、一瞬、昼よりも明るくなった。
硫黄島沖 米太平洋艦隊
艦橋の窓越しに硫黄島を眺めていた彼らは、島の輪郭が一瞬、異様な形に歪むのを見た。
島の北側が、まるで地下から巨大なボールがせり上がってきたように膨張し、コンマ数秒後、そのボールは弾けた。
次の瞬間……世界が、白に裏返る。
太陽が二つになった、という表現では足りない。
島そのものが、光った。
硫黄島全域が極光に照らし上げられ、視界から消える。
火山島の稜線、丘、壕、岩盤、そのすべてが輪郭を失い、ただの光に包まれた。
艦橋の窓が、同時に鳴った。
分厚いガラスが、悲鳴を上げる。
「───っ、伏せろぉ!」
叫びと同時に、圧力が艦を殴った。
艦体が横揺れする。
数千、数万トンの鋼鉄の塊が、海面を跳ね回っているのだ。
そして、硫黄島が……割れた。
島の北半分が、光と土煙の中で崩壊していく。
地下から噴き上げたものが、地表を引き裂き、持ち上げ、粉砕し、吹き飛ばす。
遅れて、柱が立ち上がった。
否、柱ではない。どす黒く濃い雲だ。
業火の柱。
土と岩と蒸発した海水と、名状しがたい何かを巻き上げながら、
垂直に、異常な速度で天へと伸びていく。
その雲頂が開き、傘の形を作るまで、ほとんど時間はかからなかった。
光が薄れ始めた後、そこにあったはずの島の北半分は、完全に抉られ、消えていた。
ただ、燃え上がる雲だけが残されている。
誰かが呟いた。
「……地獄の扉が、開いたのか?」
1945年3月16日 16時30分頃
硫黄島北部、日本軍司令部地下壕近隣を爆心として試作型多段階水爆(推定核出力約3~5Mt)が爆発。
島内に居たアメリカ海兵隊3個師団が壊滅、リッチモンド・ターナー海軍中将およびホーランド・スミス海兵隊中将は行方不明。




