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公爵の唇が、シャロンの顔に近づいてきた。
周囲の冷やかしに応えようとしたのか、単にシャロンの失望に拍車をかけようとしたのか。
それとも所有権を誇示しようとしたのか。
醜い唇が、小さく可憐な唇にまもなく触れるその瞬問、シャロンは黄金の髪をたなびかせ、圧倒的な力で見張りを倒した黄金の軍神を思って涙した。
(黄金の軍神様……。
お言いつけを聞かない愚かなわたくしを、どうか許して……)
そのとき、扉がバンッと大きく音を立てて開き、幾人もの憲兵隊員が銃を構えて入り込んできた。
紺色の軍服を目にして、客たちは悲鳴をあげて、四方八方に逃げまどう。
夫だと言われた公爵も、杖がないと歩けないとばかり思えたのに、誰よりも俊敏に窓から逃げだした。
だが中庭に繋がる窓も次々に硝子が割られ、憲兵隊がなだれ込むようにして突入してくる。
まるで阿鼻叫喚の光景だ。
憲兵隊員は、あっという間に、オークションの客を次々と捕らえていく。
シャロンは、一体何が起きたのかわからないまま、ただ呆然と立ち竦んでいた。
「き、貴様らっ!
ここは紳士淑女がショーを見て楽しむ場だぞ。
一体なんの真似だ、今すぐ出て行け!」
クーリオが必死の形相でそう叫ぶと、ひとりの背の高い男が、靴音を鳴らして現れた。
「紳士淑女のショーだと?
何をふざけたことを。
おぞましき人間オークションではないか」
その男性は軍帽を深くかぶり、顔は半分しか見えなかったが、流麗ながらも男らしい顎の骨格と、こぼれる金髪が目を引いた。
断言されたクーリオは、金歯を光らせてせせら笑った。
「見てきたような物言いだな。
そんな証拠がどこにある」
男はクーリオの言い分を即座に否定した。
「見苦しい男だな。
人間オークションが開催されていることを、私はこの目で確認した。
私自身がその証拠だ」
そう言うと、男はさっと軍帽を取った。
クーリオの表情が一変して、驚愕の色に染まる。
「え?
さ、さっきの……、ま、まさか憲兵隊だったと?
いや、あなたは……!」
「クーリオを捕らえろ!」
男が手を振り上げると、憲兵隊は一斉に動いた。
多勢に無勢、クーリオは一瞬で取り押さえられた。
唖然とするシャロンを見て、男は困ったような笑みを浮かべた。
「だから逃げろと言ったのだ。
言うことを聞かない頑固なお嬢さんだ」
シャロンの目前に、輝くプラチナブロンドに静謐なエメラルドの瞳を持つ男性が、まるで太陽のように煌めきながら立っていた。
ぼろ布で顔を隠してもいないし、顔にも汚れひとつついていない。
服装も薄汚れたシャツではなく、左肩を飾る肩章から金のモールが多数流れ落ち、金糸のブレードが襟元や袖口を縁取っている白い軍服を着用している。
「黄金の軍神様……」
「黄金の軍神?
私がか?」
昂然たる姿の美丈夫を目にし、黄金の軍神がバルコニーで手を振る姿が、シャロンの脳裏に浮かび上がった。
「あ、あなたは……、まさか……」
言葉を失っているシャロンの背後で、誰かが悲鳴をあげた。
振り向く間もなく強く腕を引っ張られ、バランスを崩して後ろに倒れ込む。
「そこまでだ!
動くな!」
シャロンの首に、ちくりとした何かがあたった。
「あっ……、ああ……」
背後から喉元にナイフの刃をあてられ、クーリオに羽交い締めにされたのだ。
横目で見ると、隊員のひとりが腕を押さえて片膝をついている。
「この女を傷つけられたくなければ、これ以上おれに近寄るな!」
「誰も動くな、シャロンの命にかかわる!」
黄金の軍神がそう命じると、憲兵隊も動きを止めた。
クーリオがニヤリと嫌な笑いを浮かべ、シャロンを引きずったまま、一歩一歩後方へと移動する。
黄金の軍神がクーリオに向かって、低い声でこう言った。
「無駄な抵抗はよせ。
ここからは逃げられないぞ。
罪を重ねる気か」
知ったことかと言わんばかりに、クーリオのナイフがシャロンの喉元をちくりと突く。
「あっ……」
シャロンの短い悲鳴に、黄金の軍神は眉間に皺を寄せた。
クーリオとの距離が少しずつ開いていく。
クーリオは、シャロンの耳元で不穏なことを囁いた。
「貴様の両親に売上金を先渡ししていなくてよかったよ。
貸した人物は、命で返済しろというかもしれんなあ。
世間知らずの無知なお嬢さん、二度と両親に会えないかもしれんねえ」
(お父様!
お母様!
命で返済だなんて……、そんな……!)
クーリオの背が柱に当たったようで、一瞬動きが止まった。
そのときを待っていたかのように、黄金の軍神と憲兵隊はクーリオを取り囲んだ。
「行き止まりだ、諦めろ。
彼女を解放して投降するのだ。
黒幕を白状したら、恩赦を考えても……」
クーリオは黄金の軍神の話を最後まで聞かず、強い力でシャロンを背中から突き飛ばした。
「きゃっ……!」
すぐに筋肉質な腕が差し出され、シャロンはしっかりと抱き留められる。
「大丈夫か!」
「は、はい……。
でもクーリオは……」
シャロンが振り向くと、クーリオの姿はすでになかった。
一瞬のすきに、まるで煙のように、影も形も消え失せてしまっていたのである。
「その柱に隠し扉がある!
取っ手を探せ、逃がすな!」
数名の憲兵隊が、柱の隠し扉を隅々まで調べにかかった。
ところが、押そうにも叩こうにも、うんともすんとも言わない。
「逃げ足の速い奴だ」
落ち着いた言い方だが、黄金の軍神が静かな怒りに満ちていることを、触れる肌越しにシャロンは感じた。
(わたくしのせいだわ。
わたくしを助けるため、身体を張って危険な目にあってくださったというのに、クーリオの盾になってしまったから……。
わたくしが招いてしまったことだわ……)
「黄金の軍神様、わたくしのせいでクーリオを逃がしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
逃げろとおっしゃってくださったときに素直に逃げておけば、あなた様の動きを邪魔することもなかったのに……。
浅慮なわたくしをお許しくださいませ」
溢れ出る涙を拭うこともせず、ただひたすら謝罪の言葉を口にするしか、今のシャロンにはできることがなかった。
黄金の軍神が、シャロンを優しく抱きしめながら、慰撫するように言った。
「逃げてしまったものは仕方がない。
それに奴はただのオークションの進行係だ。
私が追うのは真の黒幕。
クーリオの後ろに首謀者がいるはずだ」
「真の……、黒幕……?」
「そうだ。
黒幕を逮捕しなければ、人身売買オークションはなくならない」
「で、では、またどこかでこのような恐ろしいオークションが?」
「そうだ、場所を変えて再開されるだろう。
未だ尻尾も掴ませない真の悪人め」
(そのような大事なときに、わたくしは黄金の軍神様の邪魔をしてしまったのね……!
なんということを……)
黄金の軍神は、不安げに瞳を揺らすシャロンを、安心させるように言った。
「だが今回、オークションの現場を押さえることができたのは、ひとつの進展だ。
客や商品となった被害者から情報を聞き出すことができるだろう。
私は絶対に黒幕の正体を暴き、非道のオークションを撲滅するつもりだ」
逞しい腕の中で強靱な決意を聞くと、一気に安堵の波が押し寄せてきた。
緊張していた反動なのか、身体中の力が一気に抜け、その軽い脱力感にシャロンはそっと目を伏せた。
厚みのある温かい胸に頬を寄せ、そっと手をあてる。
どくんどくんと心音が服越しに伝わってくる。
心音は、強く、そして激しく。
躍動感の塊となってシャロンの心と重なった。
(温かくて力強い、なんて安心できる場所なの)
「黄金の軍神……様……」
シャロンの霞む視界に写るのは、煌めく黄金の髪をなびかせ、苦笑する黄金の軍神。
「先ほどから気になっているのだが、黄金の軍神とは一体……」
温かいその腕が気持ち良くて、シャロンの意識はふわりと途切れた。
全身の力が抜け、こてんと逞しい胸に額を当てる。
「シャロン?
度胸のある娘だな、私の腕の中で寝てしまうとは」
緊張の糸がぷっつりときれて仕舞ったシャロンは、そのまま意識を失った。




