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「円舞の際に不注意で転んでしまった場合、邪魔にならぬよう、すぐにすみに避けるものですのよ。
どのような淑女教育をお受けになられたのかしらねえ。
ご存じないようでしたら、わたくしが教えてさしあげてもよろしくてよ。
無知無学で無教養なご両親の代わりにね」
蔑みを多分に含むその言葉を受け、シャロンは目線だけをベアトリスに向けた。
(この方は、わたくしを人前で侮辱するだけならまだしも、会ったこともないわたくしの両親まで悪し様に……)
シャロンの身体が、言いようのない悔しさと悲しさで、ふるふると震えた。
確かにダンスの最中に転んでしまったのはシャロンの不注意に他ならない。
しかしシャロンだけではなく、シャロンの両親まで人前で中傷されるのは、耐えられない。
「ベアトリス公爵令嬢、そのような発言も淑女とは思えぬものですよ、失礼です」
ルードがシャロンの前に立ち塞がり、ベアトリスに向かって確固とした口調で返した。
するとベアトリスは、途端に声色を甘いものに変え、媚を含んだ笑みを零した。
「ま、まあ……、ルード様。
わたくし、間違ったことは言っておりませんわ。
教養学をご存じないのでしたら、わたくしがお教えいたしますわという意味ですのよ」
シャロンの傷心も、ルードの戒めも、ベアトリスはまったく気にした様子がなく、追い打ちをかけるようにこう言い放った。
「さあ、もうこの場から去りなさい、シャロンちゃん。
ここは王城が主催する格式あるパーティ会場なのよ。
他国からの親善大使もいらっしゃるの。
あなたみたいに躾も礼儀も問題のある貧乏貴族が、いてはいけない場所なの。
それを理解してもいい年頃でしょう?」
「それは、あなたが決めることではありません。
レスター元帥閣下が決めることです」
ルードが断固として、ベアトリスの無礼な糾弾からシャロンを庇い立てた。
ベアトリスは、それがとても気に入らないという風に、真っ赤な唇を醜悪に歪めた。
「ルード様ったら、勘違いしないでくださいませ。
わたくしはシャロンちゃんのために助言しているだけですのよ。
恥をかいてまでレセプションパーティに残りたいなんて、そんな図々しい考えはお持ちじゃないでしょう、ね?
シャロンちゃん」
泣いてはならない、そう強く意志を保てば保つほど、頬を温かいものが伝う。
父と母の威信と名誉、そしてシャロン自身の尊厳。
下位貴族にだって、貧乏貴族にだって、守りたい矜持くらいはある。
それが、なけなしのプライドであることくらい重々承知しているが、大事な父母を誹謗中傷されるのだけは許せない。
だが、言い返す言葉が浮かばないシャロンは、ただひたすら涙を流すしかすべはなかった。
もう立ち上がる気力もない。
このまま消えてしまいたいと、 身体を丸めて床に平伏していたとき。
「やめろ、ベアトリス」
その場にいた全員が、声のした方向を一斉に振り返る。
顔を上げたシャロンの目に、黄金の髪を揺らして、ひとりの男性が硬質な足音を響かせて近付いてくるのが映る。
レスターの後ろで、異国の民族衣装を着た男女が、訝しげな表情でシャロンを見ていた。
(今日の主役であられる大使夫妻だわ。
どうしましょう、こんなみっともない姿を見られてしまうなんて)
ベアトリスが慌てて、とってつけたような笑顔を顔に張り付けた。
「ま、まあ……、レスター陛下。
別室で大使ご夫妻とお話し中ではなかったのですか」
「もうとっくに終わっている。
私の主催するレセプションで騒ぎを起こすとは、どういうつもりだ、ベアトリス」
「何かの勘違いですわ。
レスター陛下、もう行きましょう。
無様に転げて泣いているシャロンちゃんは、ルード様がなんとかしてくれますわ。
気に留める必要なんてありませんことよ」
うろたえるベアトリスを一瞥したレスターが、膝をつきシャロンの肩を抱き寄せた。
国王陛下がひとりの女性のために膝をついたということで、その場にいた全員が息を呑んだ。
「泣くな、そなたには私がいる。
困ったことがあれば、いつでも助けに現れると申しただろう」
エメラルドの双眸に見守られ、揺らぐ心を懸命に抑えながら、シャロンはレスターを見返した。
(レスター様は、本当に黄金の軍神のようなお方、わたくしの窮地に必ず現れてくださる救世主)
「レスター様、ありがとうございます。
騒ぎを起こしてしまい、申し訳ございません」
「そなたが謝る必要はない」
レスターは、シャロンをゆっくりと立ち上がらせると、人々が見守る中、低音だがよく通る声を会場内に響かせた。
「この場におられる皆さんに、シャロン嬢のことでお話しさせていただきたいことがある」
「レ、レスター陛下?」
ベアトリスの表情が一瞬で怪訝になり、理解できないという風に眉をひそめた。
レスターは気にせず、続きの言葉を発した。
「シャロン嬢の後見人は私だ。
この意味がわかるだろう、私が彼女の後ろ盾になるということさ。
今後彼女に不埒な真似をしたり、人前で罵倒するなどと言う心無い行為を取れば、それは私への侮辱と同じことだと明言する。
肝に銘じてもらいたい」
衝撃的な話に、ベアトリスや、周囲の者より、シャロンが一番驚いた。
レスターが後見人となってくれるなど、夢のまた夢ではないだろうか。
その話が事実なら大変嬉しい。
「陛下!
下位貴族の娘に、なぜそこまでされるのですか!」
叫ぶベアトリスに、レスターは一喝した。
「黙れ、ベアトリス。
そなたの祖父、先代の元帥閣下に若い頃世話になったから、そなたの傍若無人な態度にも、ある程度目をつぶっていた。
しかし、このやりようは目に余る。
そなたは今後、王城への立ち入りを一切禁じる」
瞬時にそう切り返され、ベアトリスは真っ赤な唇をぶるぶると震わせた。
会場のいたるところから痛ましい視線を受け、これ以上は恥だと認識したのか、ドレスの裾を大袈裟に振りまわし、足早にパーティ会場から出て行った。
「レスター……、様……」
シャロンが面を上げると、そこに黄金の軍神が豪奢に微笑んでいた。
(レスター様からもたらされる黄金の光は、とても優しくて温かい……、なんて頼もしいの……。
わたくしの軍神、愛しの軍人王……)
「シャロン、事態は好転した。
だからもう泣くな。そなたの涙は心に痛い」
「はい、泣きません。
でも……、勝手に涙が流れるのです」
レスターは、シャロンの頭をぽんぽんとあやすように叩いた。
子供扱いしているような仕草だが、なぜか反発心は生まれなかった。
レスターは、涙をぽろぽろと流すシャロンに、すっと手のひらを差し出した。
「踊ろう、そなたはワルツがことのほか上手だ。
踊り笑っていたら、涙などすぐに乾く。
きっと素晴らしい明日が迎えにくるだろう」
「レスター様」
シャロンはレスターの手を取り、立ち上がってホールドの姿勢をとった。
音楽隊の指揮者が、慌てて足元に落ちていたタクトを取り上げ、大仰に振りだした。
合わせて、管楽器の軽やかな調べが天井高くまで鳴り響く。
ルードが一礼し、場をレスターに譲った。
シャロンは目線だけで感謝を示すと、ルードもにこやかに微笑みながら軽い会釈をし、そのままホールを出て行った。
来賓客は何事もなかったようにダンスを再開し、シャンパンを片手に歓談を始める。
もう誰も、シャロンを奇異の目で見てこない。
シャロンはレスターの優しさに、身も心も蕩ける自分を感じていた。
紺色に染まる夜の帳が、小気味よいワルツの調べで彩られる。
月と太陽は不思議な色合いで混じり合い、瞬く星を艶やかに灯している。
借金のこと、結婚相手のこと、ベアトリスのこと、クーリオのこと、そして黒幕のことなど、現状の憂いが解消するわけではない。
(でも今は夢を見ていたい。
王城で匿われて、美しい軍人王に庇護され、優しいメイドたちに親切にされ、美味しい紅茶とべリーのチョコレートを楽しむ。
現実逃避だってれかっているの、お父様とお母様の安否も気がかりだわ。
でも今は……、この方とワルツを踊りたい)
巨大なシャンデリアのクリスタル硝子が煌めく中、シャロンは目前の王だけを心と瞳に映し、一夜の夢に酔いしれた。
シャロンはその日から、悪夢を見なくなった。




