10
シャロンは黒い靄の中にいた。
下卑た笑みを浮かべてシャロンを取り囲む見張りたち。
金歯を光らせいやらしく笑う腹のでっぱったクーリオ。
身体中全ての肉が垂れ下がった公爵に落札され、八番目の妻だと言われた。
七番目の妻は半年で亡くなり、シャロンも、もって一年だと聞かされた。
膨れあがった指に触れられたとき、全身の毛が逆立って、手足に緊張が走った。
唇が迫ってきたときは、舌を噛みきって死んだほうがましかと思えた。
「ああっ……、いやぁ……、あ……、ああ……」
シャロンは襲いくる醜い欲望から逃れたくて、一生懸命もがく。
「ああぁ……、た、助け……、軍神さ……、やぁ……」
誰かがシャロンを追いかけてくる。
それが公爵なのか、別の誰かなのかは判別できないが、悪しきものだということは理解できた。
その禍々しい何かは、陰鬱で邪悪なオーラをまき散らし、シャロンを捕まえようと襲いかかってくる。
足は、まるで海中の藻に絡まれたように動かなかった。
早く逃げないと、もっと遠くに行かないと。
そう脳は身体に命令を下すのに、まったく思い通りに動かない。
恐ろしいこの場所は一体どこなのだろう。
シャロンにはさっぱりわからない。
わかるのは、背後から襲いくる黒い靄が、シャロンを捕まえようと、強烈な意志を持っているということだけ。
それは岩みたいに大きな男の影になり、続いて腹のでっぱった男の影に変化した。
それから、またしても形を変え、大人三人分の横幅を持つ巨漢になった。
「やっ……、やめてっ……、触らないでっ!」
シャロンは靄のシルエットに怯えおののいた。
それはまさしく恐怖の象徴で、恐ろしいと思っている人物たちの姿に、次々と変容する。
(見張りの男たちも、クーリオも、公爵も……、誰も近づかないで、わたくしの側に寄らないで!)
「……シャロン!」
「いやぁっ、嫌っ、触らないで!」
「シャロン!
起きろ、シャロン!」
揺らされてシャロンは目を見開いた。
ほんの数センチほどの鼻先に、輝く金髪を見つけ、思わず身を震わせた。
「黄金の、軍神さま……?」
「そうだ、私だ」
シャロンは、自分がどこにいて、なぜ黄金の軍神が目前にいるのか、まったく理解できなかった。
(夢……?
どこまでが夢でどこまでが現実?
この方は……、本物なの?)
「いや……、あぁ……。
来ないで、わたくしの側に来ないで……」
「シャロン、どうした」
突然、シャロンの心臓がどくんと跳ね、息をすることが困難になった。
「あっ……、あぁ……」
打ち上げられた魚が空気を求め、口をぱくぱくと動かすように、シャロンも酸素を欲した。
それだけではない、手足をぴくぴくと引き攣らせ、全身が痙攣を起こしたように震えている。
「い……、息が……」
口を開けて、必死に空気を吸い込もうとしたが、全然入ってこない。
(苦しい……!
助けて、黄金の軍神様……!)
「シャロン、落ち着きなさい」
黄金の軍神が、もがき苦しむシャロンの手を握りしめてくれた。
だがシャロンの呼吸は、一向に楽にはならない。
(息……が……、空気が欲しい、助けて……)
すると、シャロンの唇越しに深い息が吹き込まれた。
「んっ」
(何……、この柔らかい感触……、もしかして唇?
黄金の軍神様の唇が、なぜ……)
黄金の軍神から放たれる優しい息が、身体の最奥部に入り込んでくる。
息は数回にわたって、ゆっくりとシャロンの口腔に吹き込まれた。
唇によって清涼な空気を送り込まれ、苦しかったはずの呼吸が、徐々に楽になってくる。
「んん……、ふぅ……」
しっとりとした、それでいて厚みのある唇を、シャロンは必死で求めた。
それは口づけを欲するというより、雛が親鳥に餌を求めるような純粋さに見えた。
「ふぅ……んん、あぁ……」
大きな手のひらがシャロンの後頭部あたりを撫で、頬にかかる乱れた髪を除き、緩やかに肩を抱きしめてくれる。
それだけで、シャロンの強ばった全身の筋肉が、徐々にほぐされていく。
「ん……ん、はぁ……、う……ん、んん……、ふぅ……」
夢うつつの中、優しい唇は、神の守護に思えた。
悪夢を追い払い、苦しかった呼吸を楽にしてくれ、その上心地よいひとときへと誘ってくれる。
いつの間にか発作は治まっていたが、シャロンは甘い唇を欲した。
黄金の軍神が傍にいれば、恐怖の象徴はけしてシャロンに近づいてこない。
誰に教えられたわけでもないのにシャロンは、自ら濡れた唇を開き、頬をすぼめて舌を伸ばした。




