とある伯爵夫人の結婚から離婚までの話
フェリシア・バート男爵令嬢がロバート・ロンズデール伯爵令息と結婚したのは十九歳の時。政略結婚で、結婚式の当日まで二人は顔を合わせたことがなかった。
「初代ロンズデール伯爵はナサニエル王子殿下とも呼ばれていました。つまり私にも王家の気高き血と精神が流れ、同時にこの国の頂に立つ者と同様の責務があります。無論その伴侶もです。いいですか……」
初夜。
聞かされたのは愛の言葉ではなく説教だった。
それから何かにつけロバートはフェリシアを馬鹿にした。優雅に踊れない、礼儀作法が自然じゃない、機嫌が悪ければ意味もなく「貴方は何でそんなに頭が悪いんですか?」と。
「そんな事ではいつまで経ってもロンズデール家の妻として認められませんよ。努力をしなさい、いいですね」
夫の態度を見て執事や使用人たちもフェリシアに不遜な態度を取るようになった。家事は雑になり、ベルを鳴らしてもなかなか来ず、廊下でひそひそと彼女を見て話す。
我慢の限界になったフェリシアは執事のジョナサンを呼びつけた。
「何でしょうか奥様。私は忙しいのです」
「第一声がそれ?本当に貴方はロンズデール家の執事なの?まるで私の主人みたいに振る舞うのね」
皮肉に対して初老の執事はふんっと鼻を鳴らした。フェリシアはこれ見よがしにため息をついた。
「ねぇ、貴方はこの家の財政状況を知っているの?」
ジョナサンの顔が曇る。執事が何も知らないでは困るが、知っていてフェリシアにそのような態度を取れるなら大したものだと思った。
「私の生家の援助がなければこの家は成り立たない。貴方や使用人たちの給金はどこから出ていると?」
ロンズデール家は先代の浪費と投資詐欺に引っかかったことによる多額の借金が残っている状態だ。
「それは、ロンズデール家から」
「家名を唱えてもお金は出ないわ。おとぎ話じゃあるまいし。試しに百回言ってみたら?」
今度はフェリシアが鼻で笑った。
「使用人たちの態度をどうにかしなさい。貴方の職務怠慢よ。私をどう思おうがいいけれど、態度に出すのは別問題。もし同じ事を繰り返したら、わかってるわね?」
それ以来ジョナサンと使用人たちの態度は表向きまともになった。
二年後、フェリシアは女の子を産んだ。ロバートは跡継ぎではないとがっかりしたが、フェリシアは自分に初めて家族ができたような気がした。名前はイヴェット。ロバートの祖母の名前を勝手につけられたのだった。
フェリシアと成長したイヴェットが庭を散歩していると、突然彼女が質問した。
「お母さまはナマケモノなんですか?」
「え?……何故そう思うの?」
「お母さまはナマケモノだからお父さまに愛されないって。女の子は男の子に好かれるためにがんばらないといけないって」
それは違うのよと言う前に、イヴェットは手を離し蝶を追いかけて行ってしまった。
ロバートに文句を言おうにも、彼はフェリシアと顔を合わせようとしない。そんな事を陰で教えていたのかとフェリシアは愕然とした。
フェリシアはきちんとイヴェットに向き合おうとしたが、口うるさい母親より、父親の方に懐いた。
「イヴェット、そんなに無理をして勉強しなくても。体を壊すわ」
「お母様は下位令嬢だったから楽をできたけれど、私は高位令嬢、しかも由緒あるロンズデールの娘なの。一緒にしないで下さる?こんなの平気ですわ」
さらに成長するとイヴェットは反抗というよりフェリシアを馬鹿にするようになった。逆にロバートはフェリシアにはあまり小言を言わなくなり、代わりにイヴェットの教育に力を入れていた。
優秀な家庭教師をつけ、学業や礼儀作法を徹底的に学ばせた。不思議な事にイヴェットは何でも吸収し身につけてしまう。普通の少女なら音を上げてしまうような努力も、平気そうな顔をしてこなす。
ただ、ロバートがイヴェットにロンズデール家の誇りを説き、より良い淑女になるよう努力を促したのは、名門の矜持や親としての愛情ではない。単に将来自分が遊べるほどの金持ちの令息を捕まえてくれるのを願っていた、それだけだ。
「さすがは私の娘、ロンズデールの令嬢だ。これなら良い縁談も数多来るだろう」
高位貴族の子どもが集まるパーティー。
一際美しく踊るイヴェットを見て、酔ったロバートはだらしなく笑った。フェリシアは苦々しく思ったが、ゆっくり娘の踊りを見る暇も夫を注意する暇もなく、情報収集のため会場を動き回っていた。
ロバートが少年を連れてきた。捨てられた猫のように不安げな少年と、唖然とするフェリシアをよそに彼は浮かれていた。
「私とサリーの子だ!これでロンズデール家にも待望の跡継ぎができたぞ!」
サリーとはロバートの愛人でサーマン男爵令嬢だ。しばらく音信不通だったらしいが、数日前に手紙が届いた。内容はあなたの子を産んだという事。ロバートがサリーの住む屋敷に向かうと、自分と同じ金髪碧眼の子が母親に手を引かれて現れた。
「貴方がロバートだから、同じイニシャルでロードリックと名付けたのよ」
ロバートはロードリックを養子にし、さらにサリーを第二夫人にするとまで言い出した。しかし怒る暇はない。食事中、パーティーでの会話中、ベッドの中でフェリシアは頭の中の情報をかき集めた。
(サーマン男爵は確か事業拡大に失敗して没落寸前。それに本当にロバートの子なの?サリーって言えば……そうだ、昔、王立学園内で変わった令嬢がいるって噂が……)
フェリシアは知り合いにサリーの調査を頼んだ。一ヶ月後。調査報告書には妊娠した頃に付き合っていた男性は、ロバートの他に七人いた事がわかったとあった。
ロバートは報告結果を見て愕然としたが既に後の祭り。異変を察知したサリーとサーマン男爵夫妻は金を手にどこかに消え、養子縁組手続きも終わっていた。
「サリーは間違いなく私の子だと、ほら私と同じ髪と目じゃないか」
「七人の内、金髪碧眼の特徴を持つ男性は貴方以外に三人いるわ。ちなみに彼らは平民です」
「嘘だ……」
「だから手続きは待ってと言ったのに」
「愛は?真実の愛は?跡取りは?」
「知りません。こうなれば責任を持って育てるしかありませんよ」
報告書を突きつけられたロバートはロードリックへの興味を失った。イヴェットは見向きもしない。しかもどこから話を聞いたのか「弟なんて認めない」「気持ち悪い」と言い出した。
フェリシアは差別や無視はせず、一緒に食事をしたり遊んだりするなどして彼を気にかけ、貴族令息としての教育もきちんと施した。ただどうしても二人の関係には透明な壁があった。
イヴェットは十五歳になり、王立学園に入学した。学生は基本寮で生活する。ロードリックの心痛がこれで減ったとフェリシアは少し安堵した。
だが、ロンズデール家には問題がいつもある。イヴェットとロードリックの婚約者探しが難航しているのだ。
借金は、フェリシアの実家からの援助で完済の目処はつきつつあるが、悪評はなかなか消えない。それどころか愛人の件でさらに評判は落ちた。人付き合いが嫌いで居丈高のロバートは元々社交の役に立たない。
悪評にまみれたロンズデール家に婿に行こう、縁を持とうなど思う家はいない。特にロードリックに関しては、高位貴族の間に真実が伝わっていた。汚れた血を入れる気かと面と向かって罵る者もいた。噂に疎い貴族さえ「長男を婿養子に」など、警戒をしても喜ぶ者は誰もいないのだ。
ノーマン子爵家の娘ノエルがロードリックと年が同じだと聞き、フェリシアは手紙を書いた。数日後丁寧な返事が来た。ロバートは「土臭い田舎になど行けば靴が汚くなるでしょう」と言い同行を拒んだため、仕方なくフェリシアはロードリックと一緒にノーマン子爵家の屋敷に向かった。
「僕を、追い出したいのですか?」
馬車の中で、十一歳の子どもとは思えないほど大人びた表情のロードリックがそう尋ねた。驚いたフェリシアは少し考えたが、この子に嘘は通じないだろうと思った。
「イヴェットが言っていたの?」
「えぇ。僕がいなければ婚約者が今頃見つかっていると」
「イヴェットに婚約者がいないのは先代からの悪評が根付いているから。筋違いよ」
「イヴェット様は……弟に、家族になりたいならロンズデールにふさわしくなるよう努力をしなさいと。役に立たなければ出て行けと」
「そんな話は忘れなさい。家族は努力じゃ手に入らないのよ。現にどれだけ頑張っても夫も娘も愛してくれない私は何なのかしらね」
窓枠に頬杖をつきながらフェリシアは苦笑した。子どもに愚痴を言うなんて、と。ロードリックはそんな彼女の横顔をじっと見つめていた。
ノーマン家には穏やかで領民に好かれる子爵夫妻と、親によく似た娘がいた。社交界では良い噂も悪い噂もなかったのでどんな人物かと警戒していたフェリシアだったが、拍子抜けするくらい純朴だった。
周囲は小麦畑が広がり、清々しい青い匂いがした。空気が澄んでいる。領民はよく笑い、よく働いていた。
幾度かの交流の後、フェリシアはどうせいつかバレるからとロードリックの話をした。ノーマン夫妻は話を真面目に聞いた後、ふと花を観察して遊んでいるロードリックとノエルを指差した。
「ノエルはロードリック様を友だちだと思っております。次はいつ来るのか、来るとわかると何をして遊ぶか楽しそうに語るんです。私たちが見るにロードリック様もノエルを嫌いではない様子」
「フェリシア様からはどうでしょうか」
「え……そう……その……笑顔が」
「はい」
「ロードリックは家ではあまり笑いません。実の母に捨てられ、家族には疎まれ……ですがノエル様の前では伸び伸びと笑っているんです」
「ならばそれで婚約の理由は十分です」
そう言って穏やかに笑いかける夫妻に、フェリシアは「息子をよろしくお願いします」と言って頭を下げた。
ロバートはロードリックに興味がないためか婚約には何も言わなかった。文句を言いだしたのはイヴェットだった。
「あんな田舎子爵と親戚になるなんて信じられません!何を考えているんですか!?」
終いにはノーマン子爵に「婚約を破棄しろ」という脅しの手紙を送った。フェリシアはすぐに謝罪に行き、ノーマン子爵夫妻は許してくれた。しかしフェリシアの怒りはおさまらない。
帰宅後、夏季休暇で屋敷に戻っていたイヴェットの部屋へ向かうと、ノックもせずに勢いよくドアを開けた。
「下位貴族のお母様には理解できないかもしれませんが、ロンズデール家のためにもっと有益な家との繋がりを持つべきです。それができないなら、さっさと平民にして出て行かせて下さい!あんなのがいたら邪魔……!?」
怒りの形相から一転。フェリシアは無表情になった。そしてじりじりと近づきイヴェットを壁に追い込む。
「ねぇ、知ってる?ロンズデール家はたくさんの借金があって、今だって私の生家からの援助でなんとか立っている状態なのよ。貴方の言う下位貴族の支えでね」
「……それは」
「知っていたのね。ならわかるでしょ?そんな所の、更に訳ありの令息なんて他に誰が貰ってくれるかしら。私が駆けずり回ってようやく見つけた縁を貴方は潰そうとした」
「なに、を」
「大体、名家のロンズデールなんて幻は、現実には何の役にも立たないの」
フェリシアは口を開こうとしたイヴェットの眉間に人差し指を軽くつけた。
「そのご自慢の賢い頭で、ロードリックを責める前に、何で自分に婚約の誘いが来ないか考えた事はあるかしら?パーティーやお茶会で何故自分が避けられているかわからなかったの?」
「ち、違う、私はロンズデールの……皆、私に気後れしていただけ……ロンズデールの娘として、お母様とは違う!」
「その張りぼての今にも傾き崩れそうな家を支えていたのは誰?人嫌いのお父様?それとも貴方?わかったなら私とロードリックの事に二度と口を出さないで。いいわね」
フェリシアはそう言うと踵を返す。イヴェットはうつむき、悔しそうに唇を噛んだ。
イヴェットは卒業から半年後にどうにか相手が見つかり、結婚した。相手は公爵家の三男だ。ロバートは公爵家と縁ができるのを喜び、イヴェットはフェリシアに自慢した。
そもそも見つけてきたのはフェリシアだ。そしてこの三男、実際は野心だけは高く、兄たちと衝突ばかりする子どもで、あちらとしては金で厄介払いしたつもりだった。公爵はロンズデール家を親戚と認めるつもりは毛頭ない。しかしフェリシアはそれらを夫と娘に話す気はなかった。
ロードリックはイヴェットの卒業と入れ替わりで王立学園に入学した。ノエルとの仲は変わらず良い。夏と冬の短い休暇はロンズデール家には戻らずノーマン家で過ごした。彼はすっかりノーマン家の一員となっていた。
「フェリシア様はどうなさるのですか」
ざわざわと青い麦穂が揺れる。
フェリシアは少し前からロードリックに、貴方が結婚したら私の役割は終わりよと言っていた。
「離婚しようと思っているわ」
「僕のせいでしょうか」
「あの家は嫌いなの。あれだけ駆けずり回ったのに、私を大切にしてくれる人が誰もいないんだもの。責任は果たしたからいいでしょう?」
「あの家はどうなるのでしょう」
「さぁね。でもロードリック・ノーマンになったらあの家の事は忘れなさい。私の事もよ。いいわね?」
ロードリックはフェリシアに向き直ると、頭を下げた。
「お母様。僕を育てて下さりありがとうございました」
王立学園卒業後、ロードリックとノエルは結婚した。フェリシア以外、新郎側は誰一人出席しなかった。
結婚式は質素だが楽しいものだった。ノーマン領の民たちが教会に詰めかけたのだ。ノエルの花嫁姿に両親よりも領民の方がぐすぐす泣き、一人が「お嬢様を泣かせたら許さねぇぞ」と叫び、ロードリックは驚きながらも笑って「はい」と答えていた。
ロードリックとノエルの指には、小さなサファイアのついた指輪がはめられていたが、それはフェリシアからの最後の贈り物だった。
次の日、フェリシアは離婚に関する書類をロバートに差し出した。ロバートは何も言わずに雑にサインした。イヴェットは今日も夫と喧嘩をし、トランクを持って外に出る母親には全然気がつかない。執事や使用人は見て見ぬふりをする。
ようやく全てが終わった。
夫に内緒で投資をしていたので、金にはとりあえず困らない。一度は実家に顔を出そうと思うが居座るつもりはない。
あれだけ苦労したのに、あっけない。
結婚した後の日々は何だったのか。
意味があったのか。
(ロードリックだけは逃がす事が出来た。まぁ、それが唯一の成果ね)
フェリシアがその後どうなったか、記録は残っていない。ただロードリック・ノーマン子爵が自身の日記を元に小説を書き、彼女の名前が国中に広がったのは確かな事である。