原文と訳文で人格変わるし
お正月の買出しに、兄家族と街へ出かけたときのこと。
車を停めて、運転してくれた姪っ子が車から降りたので
「先に行っていいよ」
みたいなことを言った。ハタチの姪っ子は
「イエッサー」
と敬礼つきで返事をしてきた。
私は「フッ」と笑って。
「私は女だから、サーじゃないよ」
と突っ込む。
「え? 上司とかに使うんじゃないの?」
「男の上司とか、目上の人にね。女性には『Yes, ma'am:イエス・マ、ァム』」
「そっかー。じゃぁ、今度、誰かが女性に『イエッサー』って言ってたら『フッ』とかして見てる」
オィオィ、教えてあげないのかな。
でもその小悪魔的な笑顔が可愛すぎて、昔みたいにぐりぐりしたくなる叔母さんだった。
さて、前記事にいただいた感想で、翻訳文と原文ではずいぶんと印象が違うんだろうというのをいただきました。
ハリーポッターとか特にそうですよね。
ハリー・ポッター。
原文と日本語訳文では、子供たちの性格がぜんぜん違ってきます。
日本語訳を読んで、ハリーもハーマイオニーもすごくいい子ちゃんでびっくりしました。
日本語だと、先生に「ラフ」な口調で話すと違和感があるわけなので、敬語で会話になるわけなんですが、英語の原文だと、もっとはっきり、ずばずばしゃべってるんですよね。
ダンブルドア校長に向かって「All right.」とか。
日本語だと「わかったわ/わかりました」どっちも同じで。
語尾に上記の「sir/ma'am」をつけるかどうかで敬語かどうか区別しているだけ、みたいな。
で、あるていど気心が知れてくると、目上のひとでもsirやma'amは省略しちゃたりする。
英語原文だと、子供たちと先生がタメ口を聞いていても不自然じゃなかったりするから不思議。
あと、一人称ですごくイメージがぶち壊れたりする。
少年ヴァンパイアの冒険小説「ダレン・シャン」
英語は一人称は性別年齢人格関係なしに「I」じゃないですか。
私の中ではダレンは「僕」で始まって、成長したあたりで「俺」とか自動翻訳していたのですが。
クレスプリー氏の一人称は私の脳内では「私」だったんですよ。
和訳では「我輩」って。
もう一度
「我輩」って。
やーめーてー。
クレスプリー氏の手に肉球を連想してしまうじゃないですか。
昔日本語で読んだものを英語で読み直すのは楽しいのですが、その反対はイメージがかけ離れてツッコミまくってしまい、読書が楽しめなくなるという不都合が。
ダレンシャンは映画もかなり残念な出来でしたよね。
トレーラーが上がってきた時点で、見に行かないことに決めましたもん。
わ、私のクレスプリー氏が(涙)




