雑草と言う名の
家族でアスパラガス狩りに野歩きをしました。知らない野草が生えていたので、夫に名前を訊きました。知っている植物でも、日本にはない植物でも、ひととおり英語の名前を訊いておくのは、勉強というより会話を繋げるためでした。
夫は首を傾げて、こう答えました。
「なんだろ、雑草だよ:Just a weed.」
ピカッ! 天啓が降り、私は厳かに宣言しました。
「Honey, there is no such plant that name is "weed".」
――雑草と言う名の植物はない――昭和天皇のお言葉
言葉ひとつで、ひとは永遠に生きると思います。
この昭和天皇の逸話を聞いたのは、高校の授業でした。歴史の先生が、ほんの息抜き小話程度に話されました。
そろそろ昭和は終わりに近づいていましたが、太平洋戦争は私の母の世代にはまだまだ生々しい記憶で、特に教育の現場では昭和天皇については触れてはいけないという空気が定着していました。そして、わたしたち子供世代は皇室には無関心でした。
どうしてその教師がそんな話を持ち出したのか前後は思い出せませんが。いつもは退屈なその先生の授業で、そこだけはっきりと覚えています。
――
どこかの植物園を視察しておられた昭和天皇が、ふと道端に生えていた草の名を側の人に訊ねられた。
案内の人は「ただの雑草です」と申し上げたところ、天皇陛下は「雑草と言う名の植物はありません」とたしなめられた。
――
物心着いたころから、周囲に溶け込めない疎外感に悩まされ、いじめなどその他の理由から絶えず自殺願望を抱えてた十代の私には、そのひと言は青天の霹靂でした。まさに、頭を殴られた衝撃を受けました。
――この世に、名前のないものなどありません――
――全てのものには名前がある。
――名前には、意味があり、存在がある。
――世界のすべてのものには、意味が与えられ、存在を許されている。
こうした考えは、すぐには形にはなりませんでしたが、年を重ねるごとに、嫌なことつらいことがあると絶えず「雑草と言う名の草はない」という言葉がいつも耳の奥に甦りました。
この私は路傍に揺れながら、絶えず踏みつけられ、やがては枯れる草にすぎません。
でも
私は名もない草ではない。
雑草にひとくくりにされる命でも、誰かが私の名前を知っている。
私に名前を授けたひとがいる。
生きることをさだめられ、光を求めて伸び行く季節を与えられている。
私はキリスト教徒ではありませんが「人は言葉によって生かされる」というのは、真実だと思います。それが神の言葉である必要はありませんし、言った本人が深い意味を込めてなくてもいい。その言葉を残した人について、何も知る必要すらないかもしれません。
ひとつの言葉が、受け取った人間の心に、生きる力や光をもたらし、生涯を通じて前へ進む勇気を与え続けることは、確かにあるのです。
逆に「人を死に至らしめる言葉」もあることもまた、真実なのですが。
言葉には、魔力がありますね。
☆☆☆
この逸話を聞いた当時も、その後も、私が昭和天皇自身に興味を持つことはなく、また興味をもったとしても一介の田舎の学生にはほとんど資料のない時代でした。
崩御されたり、また随分とあとになってネットでいろいろ公開されてから裕仁という人物についていくらか知ることになったのですが……昭和天皇語録はなかなか興味深いです。
私は政治的にも宗教的にも右でも左でもありません。
何事も中庸・中道、ほどほどにマイペースがいいと思っています。
一生に一度、誰かに向かって言ってみたい言葉のひとつでしたねぇ。
夫の反応は今ひとつでしたけど。
もとから力いっぱい生きることに、疑問など持ったことのない人間なので、特に感銘も受けなかったもよう。
「まあ、それはそうだけど。ボクは知らないから」
が、夫の返事でした。