相手を思いどおりに動かす魔法の言葉
相手を思い通りにする、というよりも、これを言わないとこちらの言うことを聞いてもらえない、と言ったほうが正しいかもしれません。
子供が生れる前、ホテル勤務当時の体験談。
当地出身の受付嬢が届いたファックスを読み、ひどく機嫌を悪くして、ファックス紙を机の上に放り出した。
「ほんとにあのダッチ*(オランダ人)は失礼よ」
私はファックスを覗き込んだ。離れたところにある分館のマネージャーから、備品の配達を依頼する内容で、失礼な言葉や文章は特に見つけられなかった。
「後回しにするわ。ほんっと頭くる」
「何がいけないの?」
私はファックスを二度読んでもわからない。困惑して理由を訊ねた。
「『あれとこれを持って来て』のあとに『Please』が添えられてない」
そんな理由で後回しにされるほど、気分を害するものなのか。
親しき仲にも礼儀あり、という日本語があるけども、英語圏では職場はもちろんのこと、家族や親しい友人、目下のものにも、何かを頼む時は最後に「プリーズ」を言わないと人間関係がまずくなるようです。
日本語の「お願いします」だけでなく「~してください(ますか?)」「~してくれる?」「~してちょうだい」にも該当するもよう。
「あ~、でも、私も何か頼むとき『プリーズ』をつけ忘れる。気を悪くした人がいっぱいいるんだろうな」
と私。受付嬢はきょとんとして私を見た。
「え、日本人って礼儀正しいんじゃないの?」
「文章の構造が違うというか……。お願いするときはセンテンス(文章)の語尾そのものが変わるから『お願い』って独立した単語は、よほど深刻で急ぎでないかぎりは、くどくなるから付け足さない」
「へぇ」
「私、気をつけないとなぁ。ダンナが私に『プリーズ』を言わせたがるのは、そういうことか。オランダ語もそうなんじゃないのかな」
受付嬢の表情が硬くなる。
「xxxは仕事でもう十年もここにいるんだから、いい加減に覚えてしかるべき。典型的なダッチ!」
人種民族間にありがちな反感もあるもよう。
オランダはヨーロッパの中では男尊女卑社会。彼女から見ると、そのマネージャーはどっか横柄な印象があるのかなと想像した。
子供が生れてあらためてわかったこと。
夫も、友人も、近所の人も、通りすがりの知らない人も、子供たちが言葉を覚える前から『サンキュー』と『プリーズ』を条件反射になるまで教え込む。
そしてどんな小さな子供でも、話せるようになったら『プリーズ』を言わないと、誰にも『お願い』を聞いてもらえない。
そして『プリーズ』と言われたら、最優先で言うことを聞かなくてはならないという強迫観念も、同時に植え付けられるようだ。
次女に『プリーズ』と言われて、ものすごく嫌な顔をしておやつをわけてあげる長女を見るにつけ、摺りこみというのはすごいものだと思う。
もちろん、大人を相手に『プリーズ』をつけて借金を申し込んでも、効果はありません。
『ダッチ(オランダ人)』は蔑称、というほどではありませんが、言い方によっては馬鹿にした響きになります。
イギリス人の、特にイングランド人を『ポッシュ(本来の意味は"上流の")』と呼ぶのと少し似ています。
当事者が『私、ダッチなの』ということもあり、親近感と侮蔑感が同居する不思議な呼び名。
一方、日本人を意味する『ジャップ』は完全な蔑称なので、侮蔑の意味以外で使われることはまずありません。