松王丸の祠
千鳥なく 絵島の浦に すむ月を
波にうつして 見るこよいかな
これは西行法師が、淡路の絵島を訪れた折に、詠んだ和歌である。
平安時代――
神戸が都市の喧騒から遠く離れた、福原京といわれたころ…
都の貴族たちは淡路へと舟を出し、風雅を求めて絵島を訪れたという。
潮騒の音に耳を傾けながら、月を愛で、和歌を詠み、杯を交わす。
それは、まるで夢のような時だったろう。
絵島の頂には、小さな祠が建っている…
時の権勢をほしいままにしていた平清盛は、遠き異国・宋との交易を志し、福原京の大輪田の泊に大きな港を築いた。
そして、さらなる繁栄を望み、港の拡張を目論む。
それには、防波の役割を持つ人工の島が必要だった。
泊の近くの塩槌山という山を切り崩し、石を運び、波間に積み上げるという大工事が行われた。
しかし、何度挑んでも、波は石を呑み込み、積まれた島は流されてしまう。
清盛の野望を神が許さない、とでも言うように…
彼の怒りは募った。
とばっちりを恐れた貴族が、人柱を立てようと考えた。
旅の者を捕らえ、いわれのない罪で牢に入れる。
なかには泣き叫び、命乞いをする者もいたという。
それを見るのに耐えかねた、平清盛の小姓・松王丸は、自ら志願して人柱となった。
松王丸は、人柱のことを清盛には知らせなかった。
聞けば、彼は許さないだろうから…
そして彼は、海に消えた。
以後、工事は嘘のように滞りなく進み、人工島は完成を見た。
人々は悲しみ、松王丸を偲んだ。
後にそれを知った清盛は怒り狂った。
しかし松王丸の気持ちを汲み取り、誰にも罰を与えなかった。
そして彼の死を、深く悼んだ。
彼は美しき心を持つ青年だったから…
彼が生前、淡路の絵島の美しさを語っていたことを思い出し、清盛はその地に小さな祠を建て、その魂を弔った。
それが、冒頭の絵島の祠である。
また、神戸には来迎寺という寺も建てられた。
これも、松王丸の菩提を弔うため、と伝わっている…