人形の微笑み
リュティス王国の貴族社会には、姉エリザと妹アナスタシアという姉妹がいた。
姉のエリザは、妹を何よりも愛し、全てを捧げることに生きがいを感じていた。幼い頃からアナスタシアに尽くし、妹の喜びこそが自分の喜びと信じて疑わなかった。
エリザは優美な貴族の世界で、誰からも「妹思いの姉」として称賛されていた。
だが、アナスタシアの表情は常に無表情で、姉に対して感謝の気持ちを見せることはなかった。それが人々にとっては不思議であり、「愛想のない妹」と陰で囁かれることもあった。
だが、エリザはそんな評判さえも耳に入れず、妹のために心を尽くし続けた。
エリザの目には、アナスタシアがいつも自分に感謝しており、ただ内気な性格だから喜びを表に出せないだけだと思い込んでいたのだ。
エリザは、妹の好みや希望を尋ねたことは一度もなかった。「私がすべきことをすれば、妹は幸せになる」と信じていた。
アナスタシアが何かを訴えても、それは遠慮しているだけだと受け取り、無視してしまう。
アナスタシアの心の中で芽生えていた不満は、次第に積み重なっていった。
そんなある日、王命によりアナスタシアの結婚が決まった。相手はリュティス王国の有力な侯爵家の次男であった。
エリザはすぐさまアナスタシアを慰めた。「可哀そうに、結婚なんてあなたも嫌がっているでしょう」と、いつものように妹の気持ちを推し量った。
しかし、彼女は妹が嬉しそうに微笑んでいることに気づかず、むしろ妹が結婚を嫌がっているに違いないと決めつけてしまった。
結婚相手の侯爵家次男であるルカは、事前に「無表情で冷たい」アナスタシアの話を聞いており、憂鬱な気持ちで初顔合わせに臨んだ。
彼もまた、義務としての結婚だと覚悟を決めていた。だが、初めてアナスタシアが目の前に現れた瞬間、彼の想像は完全に覆された。
アナスタシアはルカに対して、溢れるような笑顔を見せたのである。彼女の顔は喜びに満ち、彼に対する感謝の気持ちを隠しきれなかった。
ルカは目の前にいる女性が、事前の評判とはまるで違うことに驚き、アナスタシアに直接事情を尋ねた。
そこでアナスタシアは、これまでの全ての苦しみを吐露した。
姉エリザのことは確かに心から愛しているが、彼女は一度も自分の希望や好みを尋ねたことがなく、自分が嫌だと思ってもそれを真剣に取り合ってくれなかったこと。
そして、姉に遠慮し続けた結果、常に嫌なことばかりをされてきたため、表情を失ってしまったことを打ち明けた。
周囲からの期待や姉の押し付けが、自分の本当の感情を奪い去ってしまっていたのだ。
「だから、この結婚が決まって本当に嬉しいのです。やっと自分の意思を持てる場所に行けるから……」
アナスタシアの言葉を聞いたルカは、その真剣な思いと耐えてきた強さに胸を打たれた。
そして彼女に優しく微笑みかけ、彼自身もアナスタシアに心惹かれるようになった。
婚約は順調に進み、ついに結婚式の日が訪れた。周囲は冷たい式になるだろうと予想していたが、それは大きな間違いだった。
新郎新婦はお互いに深く愛し合っており、特にアナスタシアが見せた満面の笑みは誰の目にも幸せに映った。
普段は無表情であった彼女が、幸せに溢れた姿であることに、参列者は驚きの声を上げた。
しかし、最も驚愕したのはエリザであった。妹のあの微笑みを見た瞬間、自分の信じていた全てが崩れ去ったように感じた。
エリザはこれまで、妹は自分に感謝している、ただそれを表に出せないだけだと思い込んでいた。
だが、今目の前にいるアナスタシアは、エリザに見せたことのない笑顔を新郎に向けていた。
結婚式の終盤、アナスタシアは公衆の面前で、これまでの姉との関係について全てを暴露した。
「私の気持ちは一度も聞かれたことがありませんでした。私は姉に愛されていると言われ続けてきましたが、その愛は私を窒息させました。
姉は私の意思を尊重せず、私の心を人形のように操ってきたのです……」
会場にいた人々は静まり返った。エリザはショックで言葉を失ったが、最後まで自分が悪いとは認めなかった。
「私は妹を誰よりも愛している。妹のために全てを捧げたのに……」
しかし、ルカはそんなエリザや周囲に向かって激しく非難した。
「あなた方は、アナスタシアの本当の表情を奪ってきたのです。彼女を押さえつけ、その心を閉ざさせた責任を理解しているのか? もし、この結婚を妨害していたなら、それは王に対する反逆罪です!」
エリザは最後まで、妹を人形のように扱っていたことに気づかなかった。
彼女の「愛」は、実際には妹を縛りつけるものであり、アナスタシアだけがその苦しみに気づいていたのだ。
結婚式は最終的に、アナスタシアとルカの真実の愛が祝福される形で幕を下ろした。
しかし、その場にいた誰もが、エリザの姿を悲しげに見つめていた。姉妹の絆は、表面的な愛の裏に隠された無意識の支配によって崩れていた。