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元子爵令嬢ベリス

 体が、指先に至るまで重い。

 力が入らないどころか、呼吸をするだけで命が抜け落ちて行くような気がする。


「ベリス、ベリス…………?」


 それでも聞き覚えのある声で、重い瞼を開けた。

 あまりにも、夫であるケイの声が泣きそうだったから。


「ケイ?」

「あぁ、ベリス! 目を覚ましたんだな。すぐ産婆さんを呼んでくるから、頼む、目を開けておいてくれ!」


 ばたばたと慌てて離れて行く夫に声をかけることも、辺りを見回す気力もない。

 けれど重い体中で、違和感を覚えるほど軽い箇所があった。


 不安に突き動かされて、なんとか枕の上で首を巡らせる。

 するとケイと共に、出産に備えて相談をしていた産婆さんがお包みを抱いてやってきた。

 私は本能的に砂でも詰まったような手を動かし寝台から持ち上げる。


「大変な出産をよく頑張りましたね。男の子ですよ」


 抱き止めたのは私たちの子。

 生まれてくれていた、良かった。


 気絶しそうな意識の中、産声を聞いたのは気のせいではなかったんだ。

 安堵と同時に、胸に湧く確信が、ひやりと気持ちを冷めさせた。


「ケイ、この子の世話について産婆さんと相談をしたいわ。あなたは今の内に休んでいて」

「君のほうが疲れているだろう。俺が聞いておくから」

「…………旦那さん、奥さんの言うとおり、今は休むべきですよ。二人も床に就いちゃ意味がないでしょう」


 察した様子で産婆さんがケイを遠ざけてくれたのは、やはりそうなのね。


「私は長く、ないでしょう?」

「わかる人なんですねぇ、奥さんは。あたしも幾人も取り上げて来ましたけど、たまにいるんですよ。産婦本人だったり、その母親だったり、上の子や、たまに旦那さんのほうが霊感を得てねぇ」

「この子は、元気に育つかしら?」

「…………信頼できる乳母を雇っておくべきだとしか言えませんねぇ。ただ、死の淵から這い上がることもある。よくよく思い返して、死ねない理由を探してみるといいですよ。それが生きる力に代わることもある」


 産婆さんはそう言って次の仕事に向かった。


 一年床を離れられず、それでもアーシャと名付けた息子は恙なく成長してくれた。

 ただやはり手が足りないのは、アーシャのために動くべき私が起き上がれないからだ。


「あなたなら信頼できるわ、ハーティ。私が死んだ後でもアーシャを慈しんでくれるでしょう」

「そんなことを言わないで、姉さん。本当に、やめてちょうだい」


 妹は同時期に結婚、そして出産した。

 けれどハーティの夫は亡くなってしまっている。

 生まれたのは娘で、まだ若いから再婚するようにと家に戻されたけれど、私たちの実家であるナトリアス子爵家は母子を養えるほど裕福ではない。


「アーシャの乳母はもちろん引き受けるわ。私も実家に頼りきりではいられないと思っていたから。…………でも、お願いだから気を強く持ってちょうだい」

「泣かないで、ハーティ。でも、きっと私はアーシャの成長を見ることはできないから。できれば、私がいなくなった後、ケイと一緒に悲しんであげて」

「義兄さんと?」


 不思議そうに聞き返すハーティだけれど、私にはやはり霊感のような確信があった。


 きっと嘆き悲しむ夫に寄り添う人はいない。

 あちらのニスタフ伯爵家は、私の死も夫の嘆きも気にしないだろう。

 そんな冷たい家だと感じている。

 そして私の実家は、嘆いてはくれるでしょうけれど、それ以上に手を出す余裕がない。


「少しでも惜しむなら、私の思い出語りにつき合ってちょうだい、ハーティ」

「えぇ、それくらいいくらでも」


 そう言いながら、ハーティは二つのゆりかごを揺らしている。

 片方には私の子のアーシャ、片方にはハーティの子のヒナ。


「何処から話そうかしら? そう言えば兄さんと、義姉さんは私よりも大変ね。学園卒業と同時に結婚して、社交界にも出入りできずにいて」

「社交界なんて私たちも小さなところしか行けなかったわ。それに結婚に関して大変なことになったのは姉さんのほうでしょう。突然婚約解消だなんて、ひどい話」

「そんなこともあったわね」


 私が十二で婚約できたのは、伝手の少ない両親が苦心して掴んだ良縁だった。

 けれど十五の時に、相手の家がもっといい相手を見つけたとして婚約解消をされている。

 相応のお金を積まれたけれど、そこからさらに新たな婚約者を見つけるまで三年かかってしまった。


 十七歳で結婚した兄の妻である義姉からすれば、婚約者もいない妹が家にいる結婚生活。

 ずいぶんと気を尖らせていたのを覚えている。


「それに、姉さん。あちらの都合で結婚を五年も待たされて」

「それは、あなたたちに悪かったと思うわ。けれど、ケイを責めないであげて。あちらのおうちの事情なの」

「義兄さんが優しい人なのはわかっているわ。私の夫のことも、起きられない姉さんに代わってお葬式に参加してくださったし」


 ハーティは思い出した様子で涙ぐむ。

 良い夫婦だったからこそ、姉の私が結婚を先延ばしにされたことで、下の妹たちまで待たせてしまったのが申し訳ない。


 ハーティは涙を拭って、話を続ける。


「ねぇ、義兄さんと出会った時のこと教えて。ニスタフ伯爵家のパーティーだったわよね」

「そうね。…………実は一度だけ、学園で言葉を交わしたことがあったのよ」


 ケイは私の二つ上。

 ルキウサリアの学園で学科は違ったけれど、在学期間は重なっていた。

 そして出会ったのはたった一度だけ。


「学園のダンジョンの入り口で、怪我をした仲間を介抱していたわ。私はダンジョンの浅層へ素材を拾いに行っただけだったけれど。その時に止血に使える縄があったから渡したの」

「それで?」

「それだけよ。ケイは出血のひどい仲間に意識を割いていてし、私も婚約が決まってからそう言えばと思い出したくらいだし」


 本当に一言二言交わしただけ。

 まさか結婚するなんて思ってもいなかった。


 そんな他愛のない話を妹と続けていると、ヒナがむずがり初める。


「ちょっと授乳をさせてもらうわね」


 ハーティは衝立を置いた部屋の隅へと、ヒナを抱いて行った。

 その横顔には愛情があふれている。

 きっとハーティなら、大丈夫だと思えた。


 実家は経済的に頼れないし、ニスタフ伯爵家はきっと碌なことにはならない。

 だってケイと婚約してから五年待たされた。

 お互いに卒業していてすぐさま結婚でもおかしくないのに。

 しかも理由はあってないようなもので、部下を持つまで、貯金がたまるまで、二人で住む家を用意できるまでと、援助は何一つしないのに条件ばかりケイにつけていた。


「結婚を、させたくなかったのよね」


 呟きは溜め息のように弱い。

 けれどケイとその家族のあり方はおかしかったと確信している。

 伯爵と兄たちは無関心で、母である夫人は避け、弟たちは軽んじていた。


 ケイ自身に問題がないのは婚約してから今日までの間にわかってる。

 問題は、まるで自分の子でないように振る舞う伯爵夫妻だ。

 しかも婚約者となった私は、決して伯爵家に並べる家格ではないし、政治的な援助もなしえない。

 まるでケイが大成することを極力ないよう、そして何かあっても私と実家を切れるよう狙ったような、政略なんてない婚約。


「さぁ、次はアーシャね。アーシャは静かでいい子。でももう少し自己主張していいのよ?」


 ハーティがヒナを戻して今度はアーシャを抱き上げる。

 確かに夜泣きもしないし、大声を上げて気を引くこともしない。

 ヒナの反応と比べれば、アーシャは静かな子だった。


「こんなに愛おしいのに、憐れな…………」


 言葉を向けるのは夫、そして子供を愛せなかった夫人へ。

 ケイを産んだ人ではあるのだろうけれど、その経歴を思えばきっと望まぬ妊娠をしてケイを産んだのでしょう。

 五年婚約している間に、ケイを見る目が嫌悪を隠そうとしていることは気づいていた。


 何より伯爵家に後妻としては入れるような身分ではない。

 上から押しつけられた妻と子であると思えば、伯爵のケイに対する態度の不自然さ、五年も結婚を先延ばしにした理由も想像がつく。


「そう、きっと子供を、作らせたくない血筋の?」


 伯爵は望んで得た妻ではないのは、態度で察せれた。

 けれど妻として遇しているからこそ子供を作っている。

 そう考えると、夫人を押しつけた相手は伯爵家より上なのだろう。

 さらには、血筋としてケイに男児が生まれることを忌避するほど尊貴な?


「どうしたの姉さん? 眉間に皺が寄っているわ。苦しいの?」


 授乳から戻ったハーティに言われて、考えすぎていた自分を笑う。

 産婆さんに言われて考えるようにしていたのに、別方向に思考が向かっていた。

 薄情な伯爵家の事情なんて、私の生きる理由にはなりえないのに。


 ハーティの腕の中でアーシャが手を動かしたのが見える。

 その小ささに目が奪われた。


「ほら、アーシャ。お母さまよ」


 私の視線に気づいたハーティが、ゆりかごに戻そうとしたアーシャを枕元に連れてきてくれる。

 じっと私を見つめる青い瞳は、私と同じ色だとケイは喜んでくれた。

 寂しい家族関係だったあの人が、少しでもアーシャと愛情をはぐくんでくれることを切に願う。

 だって、そこに私はいないだろうから。


 アーシャに手を伸ばすと、小さな手が私の指先を握り締めた。

 小さくて軽いのに、思いの外しっかりと掴んで放さない。


「あなたは、長生きをしてね」

「姉さん、弱気にならないで」


 ハーティのほうが弱った顔で言っているし、私は別に弱気になってはいない。

 考えるだけやらなきゃということは考えつく。


 ただそれは私が死んだ後のこと。

 財産や家のこと、親族のこと、遺せるもののことなどこの一年でまだ準備が終わらない。

 それでも私はこの子とケイに少しでも生きやすくいてほしくて備える。


「アーシャ、どうかケイと良い家族になってあげて」


 やり残してしまうことに思い至って、そう声をかけた。


 家同士の都合による婚約だったから、最初は当たり前だけど、感情なんてなかった。

 けれどケイは歩み寄ってくれたし、五年間私との結婚が許されない状況にニスタフ伯爵へ抗議もしてくれた。


「ケイはいい人よ。あなたが父親似であるなら、きっとあなたもいい子ね」

「アーシャはすでにいい子よ。けど、物静かなのは姉さん似かもしれないわ」


 私が遺していく子が私に似ていると言うなら、どうか私の代わりに約束を守ってあげてほしい。

 ケイは家族に愛されていなかった。

 だから私を愛そうとしてくれるケイに、私は家族の愛を教えようと思っていたのに。


 二人で新たな家族を作っていこう、そう約束したのに。

 私が最初に家族から抜けてしまうなんて。


「お腹がいっぱいになって寝始めたわね。お布団に戻してあげて」


 真っ直ぐに見つめていた青い目が閉じ、アーシャはゆりかごへ戻された。

 離れる小さな手が私の指を探すように開閉する。

 そうして生きている姿を見れば、ケイへの申し訳なさはあるけれど後悔はない。


 この子を産むために生きる力を使い果たしてしまったのなら、それもしょうがない。

 夫も妹も嘆くだろう。

 けれどどうか、アーシャだけは私のことなど覚えておかずに、嘆くことに時間なんて使わず健やかでいてほしい。

 そしてどうか長く、家族とともにあれる人生を送って。

 どうか…………。


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[良い点]  本編の切りの良い所で挿し込んでも良いのでは、と思うくらいのお話。  こういうの、本人は解ってしまうものなんですねえ‥‥‥。  切ないな。  それと先王とニスタフ伯爵家のクズ加減が一話で遺…
[一言] お母様…
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