高崎LOVERS① 松井軒
なつかしいなぁ
高崎駅から
ほんの10分ほど歩いた
ひなびた町中華
松井軒のテーブルで
カツ煮とシナチクをつまみながら
瓶ビールをちびちび舐めつつ
田中はつぶやいた
松井軒は高崎でも最古参の
町中華屋だろう
小さな店構えに
大きな黄色い暖簾が目印である
そして何より
高崎市の出産を一手に担ってきた
須藤病院の目の前に建っている
松井軒は
テーブル2席と
5人がやっと座れるほどのカウンターしかない
車移動しかしない群馬県民に迎合する事も無く
駐車場がないことを売りにしている所がある
家族経営の小さな店である
一時は
高崎の町おこしでフィーチャーされたこともあるが
いつ行っても
混んでいたことはない
田中の他には
カウンターでラーメンをすする中年男性の背中が見えるばかり
晩夏の昼下がりはこんなものなのだろう
田中はビールをコップにそそぎ
通りをはさんだ
須藤病院の玄関をぼんやりと眺めた
あれから何年経ったのだろう
妻は
どうしても出来ない二人目の子供を欲しがった
長男が生まれて5年以上が経っても
二人目の子供が出来る兆しはなかった
日本の社会ってのは
どこまで行ってもおせっかいだ
結婚はまだ?
お子さんは?
二人目はまだ?
そんな周りからの言葉なんて放っておけばいいものを
妻は言われるがままに受け取り
二人目出来るまでは幸せは来ないといった様相だった
何回かの流産を経て
もうそろそろ止めようや
って時になって
40手前の夫婦にコウノトリがやってきた
ウソだろうよ
って思うのは男だけで
妻はどんどん出産の準備をしていく
逃げてはいても時は経つ
ついに田中も逃げ場のない出産の日が訪れた
陣痛も差し迫った妻を須藤病院に入院させ
夜中に出産してもおかしくない状況で
田中は
松井軒に入った
誰もいない店に入り
ビールを飲んだ
なんだか他人事のような気がしつつ
味のしないカツ丼を食べた
頑張れよ
って溜息と一緒に口から出たのだろうか
奥にいたおばちゃんが
頑張んないとね
お父さんも
って
餃子を一枚出してくれた
ニンニクがガッツリ効いた餃子を食べながら
頑張らないとな
って自分に言い聞かせたのだろうか
あれから時間が経って
妻も自分も歳を取り
子供も家を出た今
同じ松井軒のテーブルで
田中はつぶやく
なつかしいなぁ