秘密の声
時期は梅雨が明け本格的に夏に入り始めた頃。新しい生活にいやおうなしに流されることになったあの出来事。今でも思い出すと微妙な気持ちになる。俺が何かしたって言うのか。神様のウマシカ!! 心の叫びが届いたのか、雨が降ってきやがった。俺は近くの屋根の下に飛び込んで雨宿り。俺はぼんやりと雨空を見ながら、改めて今の生活の始まりであるあの出来事を思い出した。
=====
あの日、俺は目覚ましが鳴る前に起きてしまった。時計を見ると午前一時をさしていた。いつもなら寝ている時間だ。寝汗をかいたようで、汗を吸ったパジャマが肌に張り付いて気持ち悪い。男子にしては少し長い髪を掻きあげる。寝る前にも風呂に入ったが、汗の気持ち悪さを落とすため、シャワーを浴びにバスルームへ向かった。バスルームに行く途中、後ろから声が聞こえた気がした。後ろを見ると俺が飼っている犬、たろう氏が尻尾を振ってついてきていた。俺は気のせいかと思い、またバスルームに向かって歩きはじめた。もう一度、何か聞こえた。ここは俺が一人暮らしをしているアパートの二階の一室だ。お隣りの部屋からの物音かもしれないとも思った。それとも真夜中なのにまた夫婦喧嘩かなぁとも思い、少し憂鬱になった。喧嘩の翌日の旦那さんはいつも以上に神経質になる。以前、俺がたろう氏との散歩から帰る時に、肩を掠っただけで汚いものを触ったかのように肩を払われた。別に気にしちゃいないが、気分は悪くなるだろう? そして奥さんの方は、絶対に目を合わせてはいけない。目が合った時点でマシンガントークが炸裂するからだ。また音が聞こえた。俺は汗の気持ち悪さより不気味な音の方が気になり寝室に戻った。その後をたろう氏がとてとてとついてくる音がした。寝室に着くと今度ははっきりと幼い少年の声が聞こえた。
「ちょっとちょっと」
「え?」
俺は声がした方を見るとたろう氏がいた。まさか犬が喋るわけがない。俺はじっとこちらを見つめるたろう氏から目を背けベッドへ歩を進めた。
「あ、ねぇ。聞こえているんでしょ?無視されると僕悲しいんだけど」
さっきと同じ声が追いかけて来る。その声を聞き流しながら俺は考えていた。俺、変なものでも食べたかな……。それとも早くも幻聴が聞こえるように? たろう氏が喋るとこんな感じって妄想するのは好きだ。だから、そんな夢でも見ているのかもしれない。しかし、夢の中にまで、それを持って来るようになるとは。俺、大丈夫か? 悶々と考えながらベッドに入ろうとしたら、たろう氏にズボンの足首の布を引っ張られた。たろう氏は尻もちまでついてまで、俺がベッドに入るのを阻止しようとしていた。
「ぼぐのごどぶじじで!」
この際、夢でも良い。たろう氏が喋れるようになったのだ。せっかくだ。たろう氏と少しの間喋ってみよう。そう思い、ベッドに座りたろう氏を太ももの上に乗せた。太ももの上が好きなたろう氏は満足そうに笑い、伸びをした。時として、たろう氏は本当に人間くさい行動をする。
「それで?」
俺はたろう氏に聞いた。すると、たろう氏は少し不機嫌そうになった。
「僕の話、聞いてなかったの? ……まぁ良いけど。僕は心の優し~いお利口なわんこだからね。そんなこと気にしてないよ」
一拍おいてからたろう氏は言った。
「ようするに、僕達は地域の動物達のSOSを聞き取り、それの対策とかを考えてあげるのはご主人様の仕事。分かった?」
「おまえと仕事?これは夢?」
俺は顔をしかめた。たろう氏と喋れるようになったことは嬉しかったが、仕事云々となるとまた別問題だ。夢の中にまで仕事を持ってきたくなかった。それに、犬と仕事をするなんて聞いた事がない。たろう氏は俺を見上げ首を傾げた。
「ご主人様はもう起きてるよ」
「は?」
それを聞いたたろう氏は大袈裟に首を振って溜め息を吐いた。
「違うよ。夢じゃない。現実だよ。あ、もう時間……ワン」
そう言うと、たろう氏は残念そうに俺の太ももから降りて小屋に戻って行った。たろう氏は戻りがてら、何度も俺をチラ見した。俺はその様子を眺めてから、時計を見た。針は四時をさしていた。俺も夢の中で寝ることにした。たろう氏は「俺は起きている」と言った。しかし、俺は非現実的なことは基本信じない主義だ。しかも、こんな真夜中に喋るはずのない動物である犬に言われて信じる方がどうかしている。だが朝六時半。お隣りの夫婦喧嘩で起こされた。いつも俺が起きるのは八時くらいだ。俺が不機嫌になるのも無理はないと思う。俺は気分転換にたろう氏と散歩に出かけた。たろう氏の散歩の帰り途中、嫌なタイミングで旦那さんと鉢合わせた。今日の旦那さんの片方の目の下がひくひくと痙攣していて、見た目からもいつも以上に神経質のそうだった。それにもかかわらず、たろう氏は尻尾を振って近づいていく。俺は一生懸命リードを引っ張った。しかしそれもアパートの狭い廊下の出来事。どうしようもない。俺は旦那さんに謝った。
「うちの犬が、ごめんなさい」
「この犬は噛みつかないのかね?」
俺は訳が分からなかったが頷くに留めた。すると、旦那さんは残念だと言いたげに溜息を吐いた。
「……噛みついてきたら、蹴ってやるものを」
「へ?」
蹴るってたろう氏を? 俺はそんなことはさせまいと、急いでたろう氏と旦那さんの間に割り込んだ。たろう氏は不満そうに鼻を鳴らした。しかし、旦那さんはそんな俺を一瞥すると俺の横をすり抜けて行った。俺はぼやいた。
「今回はいつもの喧嘩より激しいみたいだな」
「あそこの旦那って神経質よねぇ」
「そうだね」
俺は相づちを打ってから、ふと気付く。俺は誰に向かって相づちを打った? すでに、たろう氏はそこで腹ばいになり舌を出して、くつろいでいる。声は上から降って来た。
「私なんかさ。朝、友達とお喋りしていたら、五月蠅いって言って傘なんか持ってきて追い払うのよ」
まったくもって非道よねぇと、その声は続けた。俺は空を見上げた。そこには電線に止まる燕が一羽いた。俺は目まいがした。俺は壮大な夢でも見ているのか? そんな俺にお構いなしに燕は俺に意見を求めてきた。
「どうにかならないかしら?」
俺はうーんと考えてから言ってみた。
「他の電線だとだめなのか?」
「ここの電線から見る朝焼けがとても綺麗なのよ」
「じゃあ、屋根は?」
「それは良いかもしれない。あら、もう時間だわ。じゃあね、“なんでも屋”さん、ありがとう」
そう言うと、その燕は何処かへと飛んで行ってしまった。俺は夢にしてはとてもリアルだとぼんやりと思っていたところ、お隣の奥さんが話しかけてきたことで俺は我に返った。今日の奥さんは目も合って無いにも拘らず、俺に話しかけてきた。相当大きな喧嘩だったのだろうと俺はそう推測した。たろう氏は尻尾を最大限にふって奥さんに頭をなでてもらっていた。奥さんの言い分はこうだ。
「私が動物好きなのは知っているでしょう?今日もたろう君は可愛いわねぇ。それなのに、あの人ったら確かに燕ちゃん達の声は朝の寝起きに聞くのは私でも辛い時はあるわ。でも何も傘を振りまわして追い払う事ないじゃない?」
俺は喧嘩の内容がそれと知って、ちょっと呆れた。はぁと間の抜けた相づちしかできなかったが、奥さんはそれで満足したようで、洗濯物を干さなきゃと言って部屋へ帰って行った。
その日の夜中。何やら胸の上が重くて俺は目が覚めた。瞼を押し上げるとそこにはたろう氏のドアップ。かなり俺は驚いたから、ついつい声を荒げてしまった。
「何で乗ってるんだよ、降りろ!」
「夢じゃないでしょ?」
「あ?」
「夢じゃないでしょ!」
どうやら俺は変な夢を見続けているらしい。もう一度目を開けてたろう氏がいたら現実だと認めよう。そう思って俺は瞼を閉じてもう一度目を開けた。相変わらずのたろう氏のドアップ。俺は観念した。
「分かったよ。信じるよ。だから降りてくれないか?」
渋々たろう氏は俺の胸から降りた。俺とたろう氏は向かい合った。
「それで何でおまえは喋れるんだ?」
「それは……いろいろあるんだよ。ご主人様は知らなくて良い。僕らは鳥さんが言ったように、動物達の悩み事を解決する“なんでも屋”さんなんだよ!すごいでしょ?」
得気にたろう氏は言った。
「なんで俺とおまえなんだ?」
「それもいろいろあって……」
たろう氏の目が泳いだ。その様子を見て、俺は直感した。
「知らないだけだろ」
「ま、まぁ。それはおいといて。今回の任務は分かった?」
俺がジト目で黙っていると、たろう氏は声を明るく言った。
「隣の優しいおばさんの喧嘩も仲裁するんだよ!!」
「はぁあ?」
俺はついつい言ってしまった。言ってから、しまったと思ったが、後の祭りだ。
「そんなの他人が首を突っ込むようなことじゃないだろうに……」
たろう氏は俺をキッと睨みあげて吠えた。
「ご主人様はいつも他の人に無関心だから、そんな事を言うんだよ!僕、知っているんだからねっ。ご主人様がぷー太郎だとか。今まで黙ってたけれど、他の人に告げ口したって良いんだからね!」
「お、おまえ。どこでそんなこと仕入れてくんだよ……」
俺は散歩でたろう氏が行くところ行くところで俺の事を喋って回られることを想像した。……かなり憂鬱だ。たろう氏はそんな俺を見ると満足そうに言った。
「それは企業秘密さ。それより、やる気になった?」
「やらなきゃ言いふらすんだろう?」
フフンとたろう氏は鼻で笑った。こうして俺とたろう氏の “なんでも屋”業は始まった。
=====
さて俺とたろう氏の仕事始まりを思い出すのもここらで終わろう。この仕事をしているうちに、たろう氏が喋れる時間は夜中の三時間だけという事に気づいた。俺はそのことについてはまぁ良いかと、最近は思っている。時計を見ると、たろう氏の散歩の時間だ。そして次の仕事がある。雨がやむ気配はない。神様。最初はなんで俺がと思って色々反発したし、今でも腹は立つことはある。けれど、俺には悪いことばかりじゃなくて、良いこともあるんだって今頃気づいたんだ。気恥ずかしいけど、ありがとう。これからも頑張るよ。ふと外を見ると、雨がやんでいた。俺が屋根の下から出て、空を見上げるとそこには大きくて綺麗な虹がかかっていた。
【完】