私の灯り
目が覚めるとそこは見慣れた天井だった——
なんてオチが待っていれば、この小さな小さな寄り道も、特別な何かなったのかもしれない。そんなことを考えながら暗い夜道を歩いていた。まだわずかにだけオレンジ色が映る地面を、私の足で上塗りしていく。果たしてその色は何色なんだろう?できればオレンジ色でありたかった。不意に魅了されたこの塔と同じ色。そうであったら、私の歩いた道は、きっと他の誰かもまた歩いてくれるかも知れない。物思いに耽る帰り道は駅までの退屈な道のりを少しだけ色づけてくれた。
結局の所、私はどうしてこの塔にきたんだろう?特に不思議な経験をしたわけでもない。死を覚悟するような恐怖も、涙を流すような感動も、特に何もなかった、はずだ。赤信号で止まるたびに、ここへ来た理由を考えてしまう。まったくもって無駄な時間。暗い空に浮かぶ信号の色はまざまざと「止まれ」と私に言ってくる。何の考えもなく、私はそれに従っている。このことに気づくようになった、それが答えなのかもしれない。
この赤の意味は何なのか。なぜ赤なのか。これは本当に赤なのか。赤が赤に見えなくなってくる。「アカ」の向こうに「オレンジ」が見えてきた。実際は対して違わない色なのかも知れない。そもそもあのオレンジはきっと「赤橙色」。果物のオレンジともまた違う色なんだろう。それならきっと何も変わらない。私がオレンジに感じたなら、それは「オレンジ」なんだろう。
道の向こうに浮かぶ「オレンジ」に、私の意識はいっぱいになった。あの塔でエレベーターで展望台に向かっていたときと同じ、周りに誰もいない、このオレンジの世界が私を呼んでいる、今このときの私の居場所がそこにある。
手を伸ばせば届くだろうか。声を発せば迎えに来てくれるだろうか。そっちに行きたい——
胸の弾む音が聞こえる。それ以外の音はもう何も聞こえない。時間が止まってしまったかの様に感じる。向こうに行きたいのに、一歩踏み出すその足が、とてもゆっくりゆっくり動く。向こうに行きたい、早くいきたい、思いとは裏腹に、時は速く流れてはくれない。しかしそれでも構わなかった。この胸が焦がれる時間自体が、とても幸せに感じられた。
「オレンジ」が滲んでいく。色が霞んでいく。なにかに引っ張られる様な感覚とともに、止まっていたときがまた進み始める。視界から「オレンジ」が消え、薄明るい街灯に照らされた。思わず目を塞ぐと、大きな声が耳に飛び込んできた。
「なにをやっているんだ!」
体中に時間が流れ始めた。真っ暗な世界は、街灯に照らされおぼろげに見えるようになった。私はどうやら、赤信号なのに道を渡ろうとして車に轢かれそうになったらしい。同じ様に信号待ちをしていた人が私を止めてくれた——みたいだった。
その人と車の運転手に深々と頭を下げ、私は急いでその場を立ち去った。小走りで駅に向かっている途中、往来に思いの外たくさんの人がいたことを思い出した。もしかして騒ぎになっているのでは——思わず立ち止まり振り返ったが、そこにはもう人はおらず、何事もなかったかの様な景色が残っていた。「暗闇」と「輝き」そこに人々も車も消えていったのだろう。信号の色は赤に戻っており、もうあのオレンジはそこには見えなかった。
「あんたまたぼんやりして——」
さっき私を止めた人が呆れまじりにまた私に声を掛けた。私はまた深々と謝り、駅へと急いだ。彼が何か言っている気がするが、あまり聞こえなかった。背中には少しの怖さと高揚感が感じられた。
それから、駅につき、電車に乗るまでのことはもう覚えていない。ただ、自宅に向かう電車の中でふと見上げた塔はもう光っていなかった。深く胸をなでおろし、大きく息をついた。
ああ、後少しだったのにな——
電車が薄明るい駅に着いた。私は席を立ち電車を降り、改札を出た。不意にいつもと違う帰り道を辿ってみた。街灯のない暗い路地。時折通る車の光に目を潜め、すれ違う人に背筋が凍った。しばらく歩くと、うっすらと温かい灯りが見えてきた。近づくとその灯りはとてもまぶしかったが、不思議と目を開けたままでいられた。そこは初めてみたレストランだった。もう遅い時間だけどまだやっているのかな——少しの不安とともに胸が弾むのが聞こえた。そして私は「輝き」の中へ消えていった。