テムズ川のほとりで
ロンドンのヒースロー空港には、8月9日午後4時着。
荷物の受け取りに長い時間がかかった。
待っていてくれた渉外の加納さんによると、淳一が全選手の中で一番到着が遅かったそうだ。
半数近くはもう帰国しているとか。
「とにかく前半から柔道と体操の不振が響いて、私たちは針のむしろだよ」
彼には、まず愚痴から聞かされた。
「今回、メダル数はそこそこなんだが、金は予想外に少ない。ところで何でこんなに遅かったんだ。ロンドンは初めてなんだろう?」
「昨日まで走っていました。日本はとても暑かったけれど」
「そうだよなあ。イギリス観光を楽しみに来て、勝てるはずないものな。君らのマラソンは花形だし、最後に本当に頼むよ」
何とも言いようがない。
「あれ?君の荷物これだけか。これだと預けない方が早かったな」
飛行機に乗ると、荷物は預けるものだと思っていた。
荷物はシューズ二足とユニフォーム。ディケンズの『二都物語』の英語版。
釜石の子供たちが送ってきてくれた日の丸。後は着替えとスマホだけ。
「絶対に失くすな」と言われたADカードを受け取り、選手村に入った。
この時期、広い構内に選手はあまり多くない。
二人部屋を一人で使えたのはうれしい。
どうせ三泊するだけだが、後から来た役得だ。
ベッドが予想外に小さいので驚いた。
背の高い選手は足を曲げて寝るのだろうか?
布団カバーはパッチワークのようで可愛い。
思っていたより快適に過ごせそうだ。
次の日、日本人ボランティアさんに聞いた通り、ストラトフォードから地下鉄に乗り、チャリングクロス駅で降りた。
由佳とはトラファルガー広場で落ち合うことになっている。
たくさんの人が噴水を囲む台座にびっしり座っていた。
噴水を2周して、ようやくスマホを見ている彼女を発見した。
肩をたたくとやっと顔を上げた。
俺のことを探してなかったのか?
メールは何度も送ったのに。
携帯は、出発前に海外仕様に変えているはずだ。
「ロンドンはすごい。どこでもネットができる」
それが手話での第一声だった。
ともかく会えてよかった。
今日までのことを手話で話し合う。
まわりの誰も二人の手話に注目する者はいない。
やっぱり大人の国だな。
ロンドンでは訪れたいところが山ほどある。
ホームズの住んだという、ディケンズが歩いた、ターナーが描いた街だ。
とりわけ大英博物館にはぜひ行きたい。
今日の主な予定はマラソンコースの下見だ。
彼女はすでに全コースを歩いたという。
半日で歩けたのは、同じルートを3回も走るコースだからできることだ。
「楽しいコースだよ。神戸マラソンのように、応援であちこちに行かなくてもいいから楽。私と母はスタート地点の席にいてジュンを応援する」
今日一日、彼女は母親とは別行動だと言う。
二人で手をつなぎ、テムズ川のほとりに立った。
川は広くて黄色く濁っていた。
あの高い建物がビッグベンか。
本当にロンドンに来たんだな。
川沿いまで来て、彼女を後から抱きしめた。
周りには、キスをしている恋人たちもいる。
ここならキスぐらいいかもしれない。
しばらく抱きあってから、彼女は淳一を見つめた。
「ありがとう。ジュンは私をロンドンに連れてきてくれた。私は、あなたがオリンピックに一緒に行こうという言葉を信じて勉強をした。あなたが頑張る姿を見て、私も頑張ろうと思った。あなたは我慢強い。私も、あなたとならつらいことがあっても辛抱できると思った。でも私は、全然我慢なんかしていない。楽しかった。できることがどんどん増えてうれしかった。あなたが大好き」
今度は口づけもした。こんな人ごみの中で!
ロンドンに連れてきてもらったのは俺の方だ。
毎日、毎日一緒に走ってくれた。
脚を、気持ちを支えてくれた。
俺なんて意志の弱い人間だ。
君無しでここまで来ることは絶対にできなかった。
再びテムズ川に目を向けた。
2日後は君のために走る。
後悔をしない走りをする。
メダルを取って君に掛けてやる。
それが誰にも言っていない目標だ。




