シューズの寿命
10月、大津の皇子山陸上競技場で、関西学連の予選会が行われた。
参加大学ごと、一万mのタイムを合計する。
淳一は29分15秒で1組28人中1位。
自己ベストを1分近く縮めることができた
次は11月19日のびわ湖大学駅伝だ。
TVにも出るらしい。
帰りの電車内で、はっと気が付いた。
11月19日だって?
次の20日は神戸マラソンじゃないか。
完全に忘れていた。
マラソンに出るからと言って、まさか駅伝をやめさせてくれないだろう。
由佳の計画では、神戸マラソンで2時間20分前後の記録を俺が出す。
そのタイムなら、びわ湖毎日マラソンにエントリーができる。
そこで優勝するか日本人1位になれば、ロンドン五輪出場の夢が果たせる。
本当に夢みたいな計画だが、ほかに道はない。
神戸マラソンを棄権して、どこかのマラソン大会に参加するという手もあるが、今から一般参加のエントリーなんか間に合わない。
すぐ由佳にメールで相談した。
「大丈夫。両方出たらいい。私は知っていた。ジュンも知っていると思っていた」
「二日連続して走れるかな?」
「私がいるから、大丈夫」
信頼するしかない。
ここまで来れたのも彼女のおかげだ。
10月に入り、うれしい知らせがあった。
洋二兄から自宅の売却が終わったので40万円の振込先を知らせるようにと、連絡があったのだ。
バイトができない今、正直ありがたい。
銀行で記帳すると52万円もの数字が目に入り、しばらく幸福な気分で眺めていた。
大学の書籍代と遠征に行く費用が馬鹿にならず、残り少ない預金を取り崩していたのだ。
当分はお金の心配をせずに済みそうだ。
こんなこと、生まれて初めての経験だ。
陸上競技部の練習は駅伝一色になった。
彼女と相談して、夕方トラックで走るので夜の練習をやめることにした。
夏と違い、暗くなるのが早くなり、ミーティングもしづらくなってきたのだ。
これで彼女の母親にも言い訳が立つ。
王子競技場の400mトラックを、照明灯の光で走る。
やや肌寒いものの気持ちがいい。
足の調子は持ち直したが、前に違和感があったので無理はしていない。
その走りをじっと見ていた監督が、淳一を呼んだ。
「君の走りは、概ね安定しているが、ストライドの幅が微妙に違っている。何か足をかばうみたいだが、どこか痛いのか?」
「いや、前につったので用心しているだけです」
「ちょっとシューズを見せてくれ」
二足ともじっくり見てから尋ねた。
「これ、いつからはいているんだ。それから君はシューズを何足持っている?」
「この靴は足に合ってると思って、5月からずっとはいています。靴は家の練習用とこれ、試合用と合わせて三足です」
「これなあ、前の内側がすり減っているしアウトソールもなくなってしまっている。それで走りに影響したんだな。よく一足だけで半年も使い続けたなあ。一体どれだけ走ったか分からんだろう。それにしたら外側はあまり減ってないが」
陸上部に入って、初めて手に入れた一万円以上のシューズだ。
もう寿命が来ていたのか。
「あのなあ、君の記録は相当な練習の成果だと思うが、この靴では足を痛めるぞ。君が奨学金だけで生活しているというのは本当だったんだな」
そんな話が監督まで届いていたのか。
何も言えなかった。
「明日の練習は休んでいいから、夕方5時にJR三宮駅前で会おう」
吉泉監督は教育学部の教授で、専門は運動生理学。
スポーツバイオとかの世界では有名な人らしい。
先輩部員によると、研究室はスポーツジムみたいで、そこで選手のデータを取り、研究した理論を競技で試すらしい。
監督と駅からタクシーで行ったのは、スポーツシューズ工場の一角にある研究所だった。
監督は出迎えた白髪の人と親しげに挨拶をしていた。
玄関を入るとスポーツ選手の大きな写真の下に、選手が使った靴が展示されている。
種目は野球、バレー、サッカー、バスケと多岐にわたっているが、やはり陸上選手が多い。
「この学生さんですな。先生が最近注目されているのは」
「大学に入った途端、五千で13分台、一万で30分を切ったのですが、陸上は全く素人でシューズの選び方も知らない。彼に合うのを見繕って頂きたいのですが、よろしく」
それだけ言うと帰ってしまった。
ここにはよく来ているようだ。
「あの先生も忙しい方ですな。ではこちらへ」
奥の明るく広い部屋に入ると、数人がコンピュータに向かっていた。
中の一人を呼び、少し指示をして白髪の人も出て行った。
呼ばれた人は30才位の男性で、会社の制服を着ている。
その人見さんが、淳一に今の状態を聞き、足型を詳しく調べてくれた。
まず素足で白い箱の中に足をいれる。
コンピュータで計測するそうだ。
もう一度メジャーで測りながら、足の各所をつまんで柔らかさを入念に調べ、記録をとっていく。
「はい、ご苦労さん。これから君の足に合わせた靴を作るけど、できるまで少々時間がかかるよ。二週間後位になるから、また取りに来てください」
靴はいくつか試し履きをして、今日もらえるとものと思っていた。
前から聞きたかったことを質問した。
「靴ってどれくらい走ったら買い替えるものなんですか?」
「まあプロなら500キロというところかな。一日20キロ走ってひと月くらいだよ」
毎月一足履きつぶすのか。
「それにしても背が高いね。よく締まっているし、筋肉も柔らかい。マラソンの日本記録保持者も結構背が高いから、君も期待できそうだな」
「そんな選手のシューズも作っているんですか?」
「展示を見ただろう?全部うちの製品だけど、もう以前とは比べ物にならんくらい軽くなっているよ。さてこれからクッションやソールの厚みを変えて四種類作るけど、全部、履いて結果を知らせてください」
靴のオーダーメードか。恐る恐る聞いた。
「あの値段は、どれくらいするんですか?」
「研究データとして作製し、サンプルを提供する形だからご心配なく」
要するに無料ということか。
「国立大の学生さんは久しぶりだな。勉強大変でしょうが、がんばってくださいよ」
励まされて会社を出た。
彼女と久しぶりの買い物デート。
監督に言われたことを彼女に話していない。
靴底を見せ、寿命だから買いに行こうと誘ったのだ。
スポーツ量販店で二足買ったが、支払いは彼女のカードだ。
ポイントがたまるからという理由で押し切られた。
高校生に出してもらうのは情けない。
お金を出してもらったことを謝っていると叱られた。
「ジュンは、いつもお金の心配ばかりするから楽しくない」
その後、急に口をゆがめた。
泣く前の顔だ。
「お母さんが、もうサポートをやめて、看護学校に行く勉強をしなさいと言った。将来あなたと結婚するのは反対しない。でも今は自分のために時間を使いなさいって」
そうか。そうだろうな。
確か看護学校の試験は1月だから、後二月しかない。
「でも私、ジュンが走る計画を何か月も一生懸命、勉強した。調べた。頑張ったよ」
もう涙がこぼれかけている。
「お母さんの言うことは正しいと思う。君を犠牲にしているのは良くない」
「犠牲なんて思っていない。あなたの夢は、私の夢。一緒のはずでしょう?」
「君がいなくても、僕は君のために走る。君が計画したとおりに走る。11月のマラソンでは必ずいい記録を出す。それから、また考えよう」
そんなにうまくいくだろうか?
今までが順調すぎたのかもしれない。
由佳に陸上のサポートなど頼まず、普通の恋人として付き合っていこうか。
それなら、今までの彼女の努力はどうなる?
やはり彼女の頑張りには応える必要がある。
でもこれから一人か。
彼女抜きの練習で大丈夫だろうか・・。




